第三十六話 卑屈少年と清廉少年、勝負もせず

卑屈少年と清廉少年、勝負もせず-1

 夜風は思った以上に冷たかった。


『自治会室を空ける。何かあったら必ず連絡してくれ』


 練りに練ってこれなら格好つくと思うチャットを飛ばし、体育館へと足を向けた。


 自治会室を出た瞬間、学園祭に戻ってきたという実感はすぐに湧いた。

 耳や鼻先が痺れる程の寒空の下、色々な模擬店は互いの食べ物を交換し合っていた。


 既に模擬店が空になっている団体は前夜祭に参加しているか、割り当てられた寝床となる教室へ引き上げたんだろう。

 寒さの中に、暖かさを感じる光景だった。


 だけど、その空気にいつまでも浸ってはいられなかった。

 陽太郎から最高に嬉しくて、最高に容赦のないメッセージが送られてきた。


『嗣乃確保』

『不甲斐なくてごめん』

『ホールで待ってる』


 ホールで待ってると言われても。

 演劇部の公演を見ようと思っていたけれど、すっかり心が折られてしまった。

 もう開演時間は迫っているけど、真っ直ぐ向かうのは無理だった。


 二人は俺を置いて一歩踏み出したんだ。

 そう自覚した瞬間、俺の内臓は耐えられなくなった。

 もう、現状維持の日々は終わってしまったんだ。


 俺の足は体育館に入ってすぐトイレへと向かった。

 胃に収まっていた食べ物は、なんのためらいもなく洋式便座を汚した。


「はぁ……はぁ……」


 あれだけ嗣乃に格好つけておいて、なんだよ。


 やっとあの陽太郎と嗣乃がなんとかなりそうなのに、なんて様だよ。


 もうすぐ演劇部の公演が始まってしまう。

 それが終わってしまったら、桐花も変わってしまうかもしれない。


 どうして嗣乃は桐花に、俺への連絡禁止を言い渡したのか。

 多江みたいに、桐花が俺を傷つけるかもしれない存在になると判断したからだろうか。


 携帯が鳴った。


『謹慎解除おめでとー』


 能天気なチャットが杜太から届いていた。

 人の気も知らずに。

 でも、少し気分がまぎれた。


『うるせー』


 普通に返すのも癪に障るから、適当に返してしまった。


「うおぇ!」


 突然の着信に携帯をトイレに落とすところだった。


『つ、月人ー? あのぉー……あ、いいや、そんでは』

「い、いや、なんだ!?」


 さっきのチャットは俺が携帯見ていることを確認したのか。


『えと、ね、報告……なんだけどぉ』


 目の前がチカチカするが、吐いたお陰でフラフラになった手足に体に少しずつ力が入ってきた。

 報告なんかじゃなく、十中八九問題発生だ。


「なんだよ? いや、そっち行く。どこだ?」

『え、えーとぉ、ただの報告というかぁ』

「何があったんだよ!?」


 携帯の向こうでバタバタという音と誰かの声が聞こえた。


『だ、駄目、報告しないと! えっとぉ、女子サッカー部の人、何人かいてぇ、こ、声かけたら、教頭先生に会いたいってぇ!』

「はぁ!? どこに!?」


 杜太は一瞬見るだけで人の顔を記憶できるのかと思うことがある。

 二十数人はいる女子サッカー部とその取り巻きの顔を記憶できているらしい。


『ど、どこって訳でもなくてぇ』

「教頭先生だけじゃなくて依子先生も探してくれ!」

『え? 演劇部の裏ゲネ見に行くって言ってたけど……』


 使えねえ先生だなぁ!


「杜太は今どこにいるんだよ!」

『今、職員室の、前! 教頭先生、来ないか、待っててぇ」


 今何時だ。

 いや、なんで時間を気にする必要がある。

 演劇ごときを気にしても仕方ない。

 とにかく職員室へ向かわないと。


「分かった、今行く!」

『えぇ!? こ、来なくていいお! ぜ、前夜祭あるでしょ。う、うちで解決するからぁ』


 何を抜かしてるんだ。

 人数を揃えて解決すべき事態だ。


「い、いや、俺に言うってことは来て欲しいんだろ!?」

『へ? なんでも連絡しろって言ったの、月人なのにぃ?』


 ああ、そうだね。

 俺そうメッセージ送ったね。

 さすが俺の杜太、指示をちゃんと聞いてくれて嬉しいよ。


『ただの報告だからぁ、前夜祭行ってきて! こないで!』

「ま、待てって!」


 怒っているのか?

 女子サッカー部の件は完全に蚊帳の外だったし、その間あらゆる仕事を任せきっていた。

 杜太が怒る要素はいくらでもあった。


「杜太、ごめん」

『へ? へぇ?』


 杜太はボケっとはしているが、察しは良い。

 自分が邪魔をしてはいけないと、ぐっと我慢してくれていたはずだ。


「ずっと我慢してただろ? よーも嗣乃もお前に何も言わなくて」

『は、はいぃ?』

「だ、だから、もうお前に何も言わず進めたりしないから! 今行くから!」

『月人は、馬鹿なのかなぁ?』


 俺、何か変なこと言ったかな?


『教えてくれなかったことは怒ってるけど、それは、陽太郎と嗣乃に返してもらうから。こっち来なくていいお』

「いや、でも」


 喉の奥が胃酸で辛い。

 少しえづいてしまった。


『な、なのでぇ、つ、月人……あ痛! い、痛い! 多江ちゃん痛いお!』


 何だ一体。


『おぉい、つっきーのボケぇ』

「は……はい?」


 た、多江?

 ブチ切れてる?


『報告しとく。女子サッカー部の部員四人ここにいる。部長はいない。前夜祭でも楽しんでら』

「だからそれ大事おおごとじゃねえかよ! 今行くから待ってろ!」


 くそ、謹慎は明けたし、俺だって仕事させろ。

 学園祭に参加させてくれ。


『待てないしいらねー! とーくんなんで連絡すんのさ!』

「だから俺に仕事をさせろよ!」

『つっきーの手はいらねーの! あいつら教頭に直談判しに来たんだよ! 他の連中が何しでかすか分かんないから学園祭中止した方がいいって! これで満足か! それとも何か! まだとーくんに一人じゃできねーくせにぃとか言って見下して馬鹿にすんのか!』

「は、はぁ!? 見下してなんてねぇよ!」


 また吐き気が襲ってきた。

 いつ俺が杜太を見下したんだ。


『見下してるね! どんだけあたし達を信用してないんだよ!』

「そ、そういう問題じゃねーだろ! さっきだってお前結構きつい目に遭ってたのに!」

『ぐぬぅ!』


 図星を突き過ぎた。

 心配で頭がおかしくなりそうだ。


『う、うるせーやい! 警備はこっちの管轄なんだよ! 実会からの指示で自治会の警備も動くの! だからこっちでやる! つっきーには義務で報告しただけ! 以上!』

「以上! じゃねえよ! 俺がいつ杜太を馬鹿にした!?」


 何が多江の怒りの琴線に触れたんだ?


『だから心配しすぎ! これはこっちの仕事! 以上!』

「だから待て! 頼むから!」


 バタバタと揉み合うような音がした。


『つ、月人、お、俺、怒ってないから! た、多江ちゃん勝手に決めないで! つ、月人には、怒ってないから!』


 通話相手が杜太に戻った。


「と、杜太、が、我慢させてごめん。分かった。わ、わかった、任せるには任せるけど……」

『月人が任せてくれるって!』


 いや、任せるけど立ち会わせてくれって言おうとしているんだけど。


『最初からつっきーの出る幕なんてねーの!』


 多江の怒鳴り声が響いてから通話が切れてしまった。


「い、いや、その、杜太待て!」

『じゃーこの状況どうにかできるのかよ!』


 多江の声が耳をつんざいた。


『この連中出席停止押してここに来たんだぞ! 二十人はいる取り巻きの馬鹿共が抑えられないって言ってんのに何ができるんだよ! なんか思いつくのかよ!?』

「い、今考えるから!」


 何も思いつかない。

 俺は今自分がどう動けば良いかすら分からない。


『……つっきー、いいよ』


 突然、多江の口調が変わった。


『あたし達も明日裏ゲネ見るからネタバレだけは勘弁な』

「え? いや……ちょっと」


 突然優しい口調になりやがって。


『ま、つっきーには悪いんだけど、秘策ならあるんだぜぇ?』

「ど、どんな?」

『こんなことになるかもって考えてたんよ。奴らがお礼参りに来るかもしれないってさ。いじめられっ子の勘ってやつ? あたしに賭けてみる気はないかね?』

「え? だからどんな!」


 くそ、気になる。


『否定されると困るから言わないでおくよ。これはあたし達がやることでつっきーは関係ないからねぇ』

「ほ、ほんとにお前らのせいにするからな!」


 大きなため息が聞こえた。


『あ、教頭先生来た。うん。あたしととーくんはつっきーと会話なんてしてませーん!』


 通話が切れた。

 もう通話ボタンを押す気はなかったが、心配が吐き気に変換されて襲ってきた。

 だが、絶妙なタイミングで携帯が震えた。

 

『秘策はガチだぜ』

『昼はちょぼっと遅れを取ったけど』

『とーくんは守ってみせるから安心せい』


 多江にここまで強く言い切られたら、もう止める気なんて起きやしない。


『否定しないから具体的な作戦を教えてくれ』


 一縷の望みをかけて送ってみた。


『安佐手新陰流 人海戦術の術』


 あまりにも単純な策に、緊張が一気に解けた。

『術』がかぶってるぞ。


 本当に入場管理をしようということか?

 とにかく、多数の人間の力を借りられるのであれば怖くないだろう。


『免許皆伝』


 偉そうなチャットを返してしまった。

 ああ、俺の上から目線ひどいな。


 杜太は繊細な奴だから、誰かに守られている方が安心だ。

 それを多江が担ってくれるなら、これほど嬉しいことはなかった。


『杜太のこと頼む』


 多江に送り、杜太とのチャット画面を開いた。


『多江のこと頼む』


 と、杜太にも送る。

 いつの間にか、足腰にしっかり力が入るまでに回復していた。


 トイレのドアが開いて生徒がなだれ込んで来た。

 前夜祭の開会挨拶が終わったからだ。

 つまり、演劇部の公演はもう開始時刻を迎えているということだ。


 俺の足は、自然に前へと踏み出していた。

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