『クリスティニア』を日本語でいうと?-2
「豚ども! エサの時間だ!」
鬱々とした気分を吹き飛ばしてくれたのはニナ・ハートマン軍曹の食事の時間を告げる声だった。食事と言っても間食だが。
てんでんばらばらに座っている俺達に手早く椀が配られた。
「え? これおいしい」
先程あれだけ勝負師の目になっていた陽太郎が柔和な笑顔を浮かべながら言う。
こんな風に優しい言い方をすれば良いのか。
でも俺はイケメンじゃないからこういう笑顔しちゃいけないんだよな。
しかし、もっと困ったことに気づいた。
なんだか、すっごく睨まれている。
クリスティニア・フロンクロスさんが、すんごく俺を見ていらっしゃるんだけど。
陽太郎のおいしいって言葉を聞いてかっと顔を赤らめる場面だよここは。
作法に乗っ取っていただきたいんだけどな。
とはいえ、素直においしいって言うのはなんだか恥ずかしい。
「凄い! クリスティニアちゃんと結婚したい程度には美味しい!」
「だよねえ! フロンクロスちゃんまじ大和撫子だわ」
瀬野川と嗣乃、それに多江のキャイキャイした誉め方は女子同士にありがちな良い誉め方だとは思う。
フロンクロスはちょっと驚きつつも嬉しそうな顔をしている……気がする。
表情が読みにくいなぁ。
フロンクロスは褒め言葉にはにかんだような笑みをこぼすが、すぐに俺をじっと見ていた。
この視線はなんとなく分かる。得体の知れない存在を見る目だ。
部屋の中のエロゲを見られたのが致命傷だったか。
「あ……」
周りばっかり気にしていたら食い切ってしまった。
甘い物はそれ程得意ではないんだが、これは手が止まらなかった。
まだ腰が痛いってことになっているので、ゆっくり立ち上がってカウンター越しに鍋の中を見た。
「あ、白玉少ないから待ってよ。モチでも焼くから」
瀬野川はこの中じゃ一番ギャルくさいが、こういう所は甲斐甲斐しい。
我が家の冷蔵庫の中身を住人より把握しているところも。
「いや、とりあえず今あるだけでいいよ」
「え!? あ、ありがと」
カウンターの反対側へ回ろうとすると、フロンクロスがナチュラルに俺の椀を奪っていた。
「ほぉ、これが、女子力……!」
多江が戦慄していた。
「いいのよ多江。こいつに優しくしてもつけあがるだけだから。突き放すくらいがちょうど良いからね」
言ってくれたな嗣乃め。
本人はうまいこと炊きつけてやったぞと悦に浸っているだろう。
「へ? あ、あははー、そっかー!」
白々しい笑い方だ。
嗣乃に一切の悪気がないのは分かるし、昨日まではこの焚きつけるような言葉も心地良かった。でも、今は鉛にしかならなかった。
「あ、ありがと」
「く、クリスティニアちゃんあたしも! あと結婚して!」
嗣乃の頭が湧いた発言にフロンクロスの瞳孔がまた開いていた。可哀想に。
白玉はうまかった。こんなの始めて食べたよ。
でもこんなこと言えたもんじゃない。俺のキャラじゃない。
「あ、ありがと。あ、俺ちょっと腰が痛いから部屋戻るわ」
「ヘーイちょっと待ちなよつっきー、食い逃げか?」
うちの材料使って食い逃げも何もねぇだろ、瀬野川め。
「あ、ちょっとつっき本当に待って。なんならなっちゃんのエロいマッサージここで受けてもいいから」
嗣乃は真顔でアホなことをぬかす癖を何とかした方が良い。
もっとアホな二人組が色めき立ってるだろうが。
とにかく、何かが始まるならここにいるしかないか。
隣のフロンクロスが自分の身を守るように体育座りをしていて落ち着かない。
でも、今この場から逃げたらもっと嫌われそうだ。
「こういうのつっきが一番得意だと思ってさ」
嗣乃がフロンクロスの反対隣に座りながら言う。俺が得意なことってなんだ?
「あのね、クリスティニアちゃんって日本国籍なんだけど日本名持ってないんだってさ」
そりゃまた随分苦労してしそうだな。
都会ならいざ知らず、こんな片田舎じゃ浮きまくりだろう。
「んでさ、あたし達で日本名を考えてあげようって……あだぁ!」
俺のへっぽこ手刀で良かったな。
もし俺が世紀末救世主だったらあべしとかひでぶとか言いながらはじけ飛ぶところだぞ、嗣乃よ。
「会って数日の俺達が何言ってんだ? ペットじゃねえんだぞ!?」
「痛ったいなぁ! なら死ぬ気で考えりゃいいでしょ!」
嗣乃が俺に怯むはずもなく、思い切り睨み返して来る。
言い返そうとしたところで、俺の腕は白くて小さい手に掴まれた。
「フロンクロスさん、大丈夫だよ。この二人がケンカするなんて毎日のことだからね」
陽太郎がすっとフロンクロスの肩に手を置いて間を取り持ってくれた。
態度物腰がイケメン過ぎてむかつくから死んで欲しい。でもこういうシチュエーションに陥ったら墓場から出てきて
「……悪かったよ」
「あたしも、ノリが適当過ぎた」
フロンクロスが俺の手を離したので、この場は収まった。
しかし、本当の問題はここからだ。
「えと、事情を聴いても良いかな?」
陽太郎が話を進める。
「……えと、あの……父が……に、決めてもらえって……」
「ほえ? なんてぇ?」
杜太め。
コミュ障に向かって聞き直すな。
「お父さんが友達に考えてもらえっつったんだよ。全員クリアに聞こえてるよ!」
コミュ障はな、不安で不安でたまらないんだよ。
『友達』という相手との関係性を自分から言うのは。否定されたら死にたくなる。いや、死ぬ。
「そ、そっかー! 一生懸命考えなきゃねー」
軽く流しやがってイケメンが。
アフリカの原野にでも散れ。いや、そんな死に方格好良過ぎて腹立つな。不愉快だ! ああ、俺テンションおかしい!
まあともかく、フロンクロスは初めて友達と言える相手ができたのかもしれないんだ。
多江はほとんどと言っていたが、『ほとんど』という表現はまずゼロと考えて良いだろう。
それにしても、随分な大役を押し付けてくれたもんだな親御さん。
あだ名みたいなものだからか。
「本当のきっかけは山丹先輩なんだけどね……痛ってぇ。首まで響いたんだけど」
「悪かったよ」
ちとやりすぎたな。
「昨日たまたま廊下で会って、クリスティニアに日本名か略称が無いか聴いて欲しいっていわれたの。自治会の作業服は字数が多すぎてはまらないんだってさ」
で、どう言う訳か親御さんはその役目を会ったこともない俺達へ依頼したのか。
ドブさらいし合った仲とはいえ、それはどうなんだろう。
フロンクロスは下を向いてしまっていた。
まずい、俺のせいで完全にまな板の上の鯉だ。
「わ、分かった、考える。でも今日すぐこれにしちゃえってのはナシだからな」
「あ、当たり前でしょ!」
露骨に目を逸らす嗣乃に一抹の不安を覚えはするが、仕方ない。
本人の意思という最大のお墨付きもあるし、やるしかないか。
「クリスティニアちゃん、参考までにご両親の名前教えてくれる?」
なるほど、さすが多江。
「お父さんがクリストファーで、お母さんがケイティ……略さないと、ケイティニア」
おぉ、新事実。
両親の名前の前後をくっつけた名前なのか。
「書いてもらっていい?」
キッチンカウンターのメモ帳とペンを取って、フロンクロスに両親と自分の名前を書いてもらう。
「腰が痛いわりに随分達者な立ち上がり方ね」
嗣乃が何かを言ってるけれど、知らんぷりを決め込む。
ここからは集中だ。考えて、考え抜け。
そこの気まずそうに座っているクリスティニア・フロンクロスを見て、ことの重大さを自覚しろ。
この見た目と名前と、内向的な性格でずっと一人だったんだぞ。
名前で少しは劣等感を緩和できるんだったら、必死に考えろ。
メモを受け取ると、今回の件にまるで関わりがない『フロンクロス』の日本語はあっという間に思いついた。
『Front』、これは『前』だし、クロスは交わるとか、もしくは『十』という漢字もある。『田』も十時だ。
あっという間に『前田』という苗字が完成した。
うーん。前田……前田って強いイメージがあるんだよな。父上所蔵の漫画の影響だけど。
フロンクロスは
メモ帳の一枚目が完全に無駄なことで終わろうとしていたところで、再び気づいた。
似ているようで似ていない文字を一つ思い出した。
『井』だ。十字を二つ重ねたように見えるではないか。
そうなると選択肢は一気に増えた。後はフロントをどうするかだが、これはちょっとした頓智で前を『向かい』に言い換えれば良いだろう。
という訳で、『向井』の完成だ。
頑張って考えた割にはまた一般的な苗字になったな。
『向井』ならイケメンな芸能人がいた気がするし、前田よりは合っている気がする。
はぁ、脳の運動にもならなかったなぁ。
もういいや、全部翻訳してみよう。
まずはクリストファーの意味をググってみると、訳が分からなかった。
どうやら聖クリストフォロスというキリスト教の聖人が起源らしい。『キリストを運ぶ者』。川でキリストを運んだ人ってどういう意味なんだ?
調べるのは後にしよう。
とにかく、キリストから来ているなら『キリ』をベースにできそうだ。『クリ』よりは選択肢は広がった。
とりあえずお母さんの名前である『Katinia』も検索してみたが、人の名前以外は出てこないのでちょっと参考にし辛い。
なら、『キリ』からできそうな名前を考えようではないか。
『きりこ、きりえ、きりの、きりな、きりか、きりみ、きりよ』と、こんなもんか。上位三つはどうも使いにくい。『こ』は異能生命体みたいだし、『え』は多江、『の』は嗣乃がいるし、そして『な』は仁那がいる。『きりか』を第一候補にしようと丸をつける。
いや待て。
仲間内にいるからといって考えてしまうのはまさに犬猫レベルの安易さだ。
ペリペリと苗字を書き連ねたページも一緒に剥がし取る。
せっかく考えたが、人の名前だ。ひらめきだけで考えて良い話じゃないからな。
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