第4話 刺し身と始まりの鐘

「落ち着いたかい?」

「……はい」


 数分後。

 溜め込んでいたものを吐き出したハルトは、冷静さを取り戻していた。

 驚くほど頭がクリアになり、心なしか視界も広くなったと感じる。

 しかし同時に、隠していた感情を露わにしたことが急に恥ずかしくなった。


「……いや、本当すみません」

「いいんだよ。会った時から『寄らば斬る』と言わんばかりにツンツンしてたから、可愛い一面が見れて嬉しいな」


 知ってか知らずか、ミトは容赦のない追撃を加えてくる。

 ハルトは反駁しようとするものの、ミトが毒気のない笑みを浮かべるので言葉に詰まってしまう。

 油断ならない人だと警戒していると、彼女は何事もなかったかのように尋ねてきた。


「それで、包丁でワサビの皮を落とせばいいんだね?」


 どうやら、仕事モードに切り替えたらしい。

 中断してしまったが、今は仕込みの最中だ。

 それを再認識し、ハルトも気を引き締める。


「はい。でも、なるべく身に傷は入れないでください。風味が逃げちゃうので」


 包丁に触れると、嫌な記憶が湧き出てしまう。

 スイッチが分かったことで、ハルトは細心の注意を払うようになる。

 それにつれて、表情が固くなっていくのが自分でも分かった。

 そんなハルトの横で、ミトは悩ましげに刃を入れていた。


「ン……ぁ……っ、こう……っかな!?」


 妖しげな手つきで皮を落とし、ワサビの身を露出させていく。

 しかし、その頬はなぜか紅潮していた。

 そんな彼女を見るハルトの目は冷ややかだった。


「その吐息やめてください」

「いや、元気になるかなと思って」

「なりません」


 そんな呼吸法をされては集中などできるはずもない。

 思わずため息をつくが、不思議と肩の力が抜けていた。

 ハルトは自然体でミトの包丁さばきに指示を出していく。

 すると、瞬く間に綺麗なワサビの本体が現れた。


「ふぅ、これでいいのかな」

「はい、あとは擦おろすだけです」


 ハルトは用意してもらっていたおろし器を台上に乗せる。

 ワサビの風味を出すには、身の細胞を粉々にしなければならない。

 味を左右するという意味で、ここからの工程が重要なのだ。


「ふふ、僕の指さばきを見せてあげよう」


 ミトは意気揚々とワサビの上部分をつかむ。

 そして勢いのまま下端を擦りおろそうとした。

 だが、その瞬間にハルトが彼女の手を止める。


「あ、逆です。上端からおろしてください」

「ん、なにか違うの?」

「上の方と下の方では辛味が全然違うんです」

「へぇ……」


 辛さを生み出す物質は上端に集中している。

 頓着なく擦り下ろすと、ワサビの良さを損ねてしまうのだ。

 ハルトは慎重に擦り方を指南していく。


「さて、うまくおろせるかな」


 未知の体験ゆえか、ミトは好奇心を隠しきれずにいる。

 失敗しないようハルトが注視する中、彼女は軽やかな手つきで擦り始めた。

 最初はぎこちなかったが、次第に手際がよくなっていく。


「うまいもんですね」

「ふっ、僕は一度覚えたら早いんだよ?」


 そうやって擦り下ろすこと数分。

 ミトの手が止まり、見事なわさびが金具の上に盛られていた。

 己の成果に感動するミトを尻目に、ハルトはすぐさま陶磁器の皿にわさびを移した。


「こっちが上端部分。そっちが下端部分です。食べ比べてみてください」

「実食……ワクワクするね」


 ミトは目を輝かせ、まずは下端部分のワサビを口元に運ぶ。

 少し匂いを嗅いだ後、ひょいっと口の中に放り込んだ。

 次の瞬間、彼女は目を見開いた。


「うわ! 鼻にツンと来る……ッ!」


 端正な鼻を押さえ、左手をジタバタと振る。

 予想以上に辛みが強かったのだろう。

 ハルトが水を渡すと、彼女は一気呵成に飲み干した。

 そして驚いた様子でハルトに呟く。


「ふぅ、カラシとはぜんぜん違うんだね……」

「そうですか? 多分匂いのせいだと思います」


 実は、カラシとワサビの味はそう違わない。

 共に同じ辛味成分を含有しているからだ。

 ただ、ワサビは独特の精油分を含んでおり、その香気が両方の味を分けている。


「じゃあ次に、上端部分の方を舐めてみてください」


 さすがにワサビの塊を食べるのはやり過ぎである。

 味を確認するのなら舐めるので十分。

 ハルトの言葉を受けて、ミトは鮮やかな色彩のワサビに舌を触れさせる。


「……くっ、つッ」


 すると、少しの接触であるにも関わらず、ミトは綺麗な顔を歪ませた。

 匂いにアテられたのだろう。


「……これは、くるね」

「ええ。上端は香り、下端は辛味が強いんです」


 一口にワサビと言っても、使う部分でこれだけの違いが出る。

 日本料理の奥深さの一端を示す食材であることは確かだ。


「料理に使う時は両方を混ぜてバランスを整えるといいですよ」

「なるほど。試してみよう」


 頷くと、ミトは冷蔵庫からあるものを取り出した。

 生魚を薄くスライスしたもの。

 見た瞬間に分かる、日本では馴染み深いものだ。


「刺し身……サーモン、マグロ。それにマダイですか」

「じゃぱねぜはこれを毎日食べているんだろう?」

「家庭によります」


 少なくとも、ハルトはそこまで刺し身を日常的には食べていなかった。

 料理の研究で食べる以外は、外食の回転寿司くらいだ。


 ハルトの返答を受けて、ミトは「おかしいなぁ」と首を傾げている。

 どうやら彼女が知識の拠り所としている書物はだいぶ偏っているようだ。

 ミトは料理目録に目を通した上で、ハルトに確認を取ってきた。


「じゃぱねぜでは、刺し身とワサビを合わせて食べるんだよね?」

「まあ、それがワサビの一番の用途です」

「ならばよし!」


 そう言うと、彼女はワサビをマグロの赤身に乗せた。

 そして醤油を少し垂らすと、そのまま一気に口へ運んでいく。

 ツヤのいい赤身を噛み締めた瞬間、彼女は快哉を叫んだ。


「んーっ! おいしい!」


 頬に手を当て、幸せそうに咀嚼している。

 しかしワサビが後から聞いてきたようで、目の端に涙が浮かんでいた。


「ッ……ワサビと刺し身、すごい相性だ。良い、実に良いよハルトくん」

「はぁ、なによりです」


 彼女は感動の渦中にいるようだが、ハルトとしては見慣れた料理である。

 美味さに悶絶するミトだが、ここで両者の温度差に気づいたようだ。


「ちょっと反応が薄すぎるよ。ほら、キミも食べてみたまえ」


 ミトは箸でサーモンの切り身をつまむと、そっと差し出してきた。

 このまま食べろということらしい。

 戸惑うハルトの眼前では、脂の乗ったサーモンと、色の良いワサビが輝いていた。


「いや、自分で食べますよ」

「いいから、早く食べるの。あーん」


 半ば押し切られ、ハルトはサーモンを噛み締めた。

 じゅわりと、良質の脂が舌の上に広がる。

 その後、さっぱりとしたワサビの香味が押し寄せてきた。


 なめらかな舌触りのサーモン。

 しかし、そこにしつこさはまるでない。

 絶妙なバランスで味が引き締まっていた。


「いい素材ですね。一番おいしい時期の味がします」

「ふふ、そうだろう? 寒さの厳しい北海から取り寄せた甲斐があった」


 得意気に胸を張るミト。

 その後もマダイやマグロを試食したが、どれも鮮度は抜群だった。

 ハルトとしては、どうやって維持しているのか少し気になる。

 だが、今のミトは声をかけるのをためらう程に舞い上がっていた。


「ともあれ、これで本格的な『刺し身』が出せる。メニュー表を書き換えなくては!」


 どうやら今の一件で、メニューが増えることになったらしい。

 彼女は他の仕込みを継続しながら、おもむろに筆を手にとった。

 そして各テーブルにあるお品書きを修正している。

 その姿からは、楽しんで料理に臨んでいることがひしひしと伝わってきた。


「……いいな」


 無意識に、ハルトは呟いていた。

 誰に向けたものかもわからない。

 ただ、自分が何をしたいのか、少しだけ分かった気がした。


 そうして大きく頷いた瞬間――



 ――ゴーン、ゴーン



 古風な鐘の音が店内に響いた。

 時計を見ると、深夜の2時を指していた。

 ミトと一緒に料理をしていたため、時の流れを忘れてしまっていたのだ。

 鐘の音を聞いて、ミトがピクリと反応した。


「――あ、まずい」

「なんですか、この音」

「開店の時間だ。お客さんがやってくるよ」


 その言葉を聞いて、ハルトは驚いた。

 今は間違いなく深夜帯。

 この世界の生活サイクルは知らないが、少なくとも多くの人が寝ていることは予想できる。

 そんな時間に開店する店など、寡聞にして知らない。

 それに、なによりも――


「あの……まだ仕込み終わってないんじゃないですか?」


 厨房では使用予定の食材がうず高く積まれている。

 あれらを処理して置かなければ、スムーズに料理を提供できない。

 しかし、店主のミトは余裕の笑みを浮かべていた。


「ふっ、リンキオーウェンとは僕のことを言うのさ」

「臨機応変?」

「それだよ」


 胡散臭さしか感じなかった。

 どうやら、彼女の持っている書物を検閲する必要があるようだ。

 間違った日本のイメージが伝わっている気がしてならない。

 そんなことを考えていると、ハルトは肩をポンと叩かれた。


「じゃあ、大急ぎで残った仕込みをやるね。キミには接客をお願いしたい」

「え……他に店員いないんですか?」

「今日は所用で休んでるんだ」


 どうやら、一応は店員を雇ってはいるらしい。

 だが、今日は自分と彼女しかこの店にいないようだ。

 不安に駆られていると、ミトは真っ直ぐにこちらを見つめてきた。


「やって、くれるかな?」

「……は、はい」


 これも試練の一つなのだろう。

 そう納得して、ハルトは接客業務に出ることにした。

 ミトの指示通り、テーブルを拭いて、店前に営業中の立て札を置く。


 その途中、ハルトはそっと厨房の中に視線をやった。

 そこには、恐るべき速さで仕込みを終わらせていくミトの姿がある。

 先ほどの柔和な雰囲気はどこへやら。

 真剣な眼差しで、やるべき調理を終わらせていく。


「……底知れないな」


 戦慄していると、カランと心地良い音が鳴った。

 見れば、店の扉が開いている。来客のようだ。


「いらっしゃいませ」


 接客は経験がないわけではない。

 多くの雑用をやらされてきたハルトにとっては、そこまで苦手意識を感じない。

 だが、入ってきた客を見て、ハルトは言葉を喉につまらせた。


「……ぁ」


 どこか見覚えのある顔。

 生気のない瞳を持つ青年。

 ボロボロの格好で、腰には革袋をさげている。


 その身体は半透明であり、身体を通して店外の景色がぼんやりと見えた。

 間違いない。この世界に飛ばされて、最初に目撃した人物だ。


「…………」


 立ち尽くしていると、青年はじっとこちらを見てきた。

 そこで、ハルトはようやく気づいた。

 彼が早く案内してくれと訴えかけていることに。


「お、お一人様ですね……こちらにどうぞ」


 ハルトは震えた声で、店の奥にあるカウンターを示した。

 すると、青年は会釈して店内へ入ってくる。

 その時、ハルトは正面から向かってくる青年に肩が触れかけた。

 だが、そこに物理的な感触はなく、ハルトを貫通して通り抜ける。


「…………ッ」


 寒気がして、ハルトは自分の身体を掻き抱いた。

 思わず助けを呼びかけたが、騒いではいけないと思いとどまる。

 青年はカウンターに座ると、じっとメニュー表に目を通し始めた。


 いったい、あの人はなんなのだろうか。

 疑念に駆られていると、入店を示すカランとした音が再び響いた。


 視線の先――店の表に二人の人影が立っている。

 今度は半透明ではない。

 ハルトは少しだけ安堵する。


「い、いらっしゃいませ!」

『――二人だ』


 朴訥とした中年男の声。

 どこか不思議な響きだとハルトは思った。


 店内に足を踏み入れた二人は、謎の甲冑に身を包んでいた。

 全身を覆う無骨な装飾が、威圧感を醸し出している。

 だが、相手は人間だ。

 何も怖がることはない。

 ハルト勇気を振り絞り、席へと案内する。


「そちらの二人がけの席へどうぞ」

『――おぉ、かたじけない』


 二人はのしのしと歩いて行き、どっかりと席に腰を据えた。

 そして自然な流れでかぶっていた兜を脱いでいく。


『ふぅ、今宵の冷気は骨身にこたえる』

『まったくだ』


 その時、ハルトは信じられないものを見た。

 二人が兜を脱ぐと、下からおぞましいものが現れたのだ。


 髑髏。

 しゃれこうべ。人間の頭骨。


 よく見れば、籠手の隙間からも黒ずんだ骨が見え隠れしていた。

 決して作り物ではない。

 彼らが喋るたびに、カチカチと髑髏の歯が鳴っていた。


 常識では考えられない光景。

 ハルトは意識が遠のいていくのを感じた。

 だが、そこで唯一の助け舟が出される。


「ハルトくん、お冷ここね」


 ミトがコップに入れた水を渡してきたのだ。

 それにより、途切れかけた意識をなんとか繋ぎ止める。

 どうやら、ミトにも来客者の姿は見えているらしい。


 だが、彼女は少しも驚いた様子を見せない。


「どうしたんだい?」

「ミトさん、あの人達は……なんなんですか?」

「なにって、亡霊ゴーストだよ」

「ゴ、ゴースト……?」


 聞き慣れない言葉が出てきた。

 ハルトからしてみれば、想像上のものでしかなかった存在。

 容易に信じることなどできない。できるはずがない。


 だが、ミトは当然のことであるかのように、平然と告げてくる。


「この世に未練を残し、死してなお成仏できない存在。じゃぱねぜだとユーレイって言うんだっけ?」

「そ、そんな……実在するなんて」

「いや、現にそこにいるわけだし。信じるもなにもないんじゃないかな」


 何を困惑しているんだろう。

 ミトの瞳からはそんな感情が読み取れた。

 ハルトは驚愕していたが、もはや認めるしかないのだと悟る。

 彼女の言うとおり、そこの席に座っている人たちは――


「ああ、そっか。そういえば。ウチの店がどういうところか言ってなかったね」


 ミトは思い出したように手を叩いた。

 ハルトの戸惑いに合点がいったようだ。


 ふと、彼女は来客者に負けず劣らずの妖しい笑みを浮かべる。

 そしてハルトに対し、この店の真実をさらりと告げたのだった。


「――ここは料亭みとり。亡霊ゴースト専門の料理店だよ」

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