第3話 落涙のワサビ

「なに。腕を見ると言っても、いきなり無茶なことは頼まないさ」


 ミトは朗らかに告げた。

 しかし、ハルトの表情は依然固いまま。

 試されている状況で、リラックスすることは不可能だ。

 そんなハルトを見て、ミトはくすりと笑った。


「時にキミは、じゃぱねぜ料理に詳しいのかな?」

「モノにもよりますが、詳しい方だと思います」


 ハルトの専門は多国籍料理。

 様々な国の料理を関連付けるスキルが求められる。

 ゆえに、日本食に関してもそれなりの見識を持っていた。


「じゃあ、ちょっとお願いしたいことがあるんだ」

「……なんでしょう」


 ハルトは緊張で唾を飲む。

 それと反対に、ミトは気楽な様子で一冊の本を取り出した。

 おもむろにページをめくり、ある紙面を見せてくる。


「ここに書いてある『ワサビ醤油』というのを作れるかい?」

「ワサビ醤油、ですか。たぶんできます」


 難しい調味料ではない。

 ワサビを醤油に溶かして伸ばすだけだ。

 しかしハルトの返事を聞いて、彼女は目を輝かせる。


「ほ、本当かい?」

「ええ。それくらいなら見なくてもいけます」

「なんと!」


 ミトは驚きのあまり本を取り落とした。

 少し重い音を立て、床に本が着地する。

 ハルトは今しがた見せられた本の背表紙に目をやった。

『じゃぱねぜ料理目録』

 ここの世界で書かれた本のようだ。


 感動で震えているミトを横目に、ハルトは本を拾う。

 目を通すと、見慣れた日本料理が紹介されていた。

 しかし料理名の列挙だけで、レシピ欄がほとんど書かれていない。

 本当に、ただ日本料理の品目が載っているだけだった。


「いやー、醤油はあるんだけどね。ワサビとやらがどうにもうまく使えなくて」


 ミトは照れくさそうに頭をかいていた。

 仕方がないとでも言わんばかりだ。

 とはいえ、ものには限度というものがある。

 ハルトは目を伏せながら尋ねた。


「ミトさん。ここって料亭ですよね?」

「いかにもそうだよ」


 彼女は胸を張って頷く。

 自信満々のようだ。そんなミトに、ハルトは言いづらそうに告げる。


「いくらなんでも、料亭がワサビ作れないのはちょっと……」

「……うっ、手厳しい」


 気にしていたらしく、ミトは図星を突かれたような顔になる。

 しかし、弁解したいことがあるようだ。

 彼女は少し恨みがましそうに呟く。


「仕方ないじゃないか。ワサビが薬以外に使えるなんて、最近になって分かったんだから」

「え……そうなんですか?」


 ミトの話を聞いて、ハルトは驚いた。

 そもそも、この世界ではワサビ自体が食べ物と見なされてなかったらしい。

 採取量も僅少であり、山岳地方の一部で民間療法に使われていた程度なのだとか。


 しかし遥かな時が経ち、じゃぱねぜの文化が流入。

 そして直近になってようやく、食用に使われる機運が高まったそうだ。

 この普及度では、本わさびと西洋わさびの違いも知られていないだろう。


「そもそも、じゃぱねぜ料理の知識が希少すぎてね。その書物を手に入れるのにも、どれだけ骨を折ったことか」

「……苦労したんですね」


 しみじみ頷きながら、ハルトは本を返した。

 ざっと確認したが、その書物は実用に耐えうるようなものではない。

 あくまで日本料理の品目についての知識が得られる程度だろう。

 しかし、持ち主のミトは自信満々である。


「まあ、お陰でメニュー表のものはだいたい作れるようになったよ」

「おお、いいじゃないですか」


 ハルトは店のメニュー表に目をやる。

『カラアゲ』『すき焼き』『厚揚げ豆腐』『本日の活造り』などなど。

 ハルトの思っていた料理とはかけ離れた品目が並んでいた。

 思わず素朴な疑問が口から出る。


「ミトさん、ここって居酒屋でしたっけ」

「料亭だよ。書いてあるじゃないか」

「いや、でもこのメニューはどう見ても――」


 そこでハルトは気づいた。

 ミトが満面の笑みでこちらを見つめていることに。

 彼女の目はどう見ても笑っていない。

 それが無言の威圧であることはすぐに察しがつく。

 ハルトは慌てて話題を変えた。


「と、ところで! 実際にワサビ醤油を作ろうとしてみたことはあるんですか?」

「ああ、もちろん」


 ミトは笑顔から一転、気難しそうに口を曲げる。

 嫌なことを思い出したのか、深々とため息を吐いた。


「柔らかくするために茹でてすり潰してみたけど、辛味はないし味気ないしで散々だったよ。大枚はたいて買った食材がパーさ」


 なぜ茹でてしまったのか。

 そんな言葉が口をつきかける。

 しかし、すんでのところで飲み込んだ。


 元いた世界の常識で考えてはいけない。

 未知の食材に困惑するのは当たり前ではないか。

 気を引き締めて、ハルトは丁寧にアドバイスした。


「茹でちゃうと風味が消えるのでダメです。生で使うんですよ」

「ほほう、そうなのか。勉強になる」


 ミトは熱心にメモを取っていた。

 お気に入りの手記なのか、かなり使い込まれている。

 そっと覗き込むと、そこにはビッシリと料理の試行錯誤の形跡が書かれていた。


「……すごいですね」

「言ったじゃないか、僕も必死なんだよ」


 その姿を見て、ハルトは不思議な気持ちになった。

 自分の言葉をこんなに熱心に聞いてくれる料理人は初めてだ。

 じわじわと、胸の奥から熱が広がってくる。


「それじゃ早速お願いしようかな」


 と、感慨に浸っていると、ミトは手記をしまっていた。

 その一言で、ハルトは我に返る。

 これから仕事が始まるのだ。


 役に立つ人間であると、アピールしなければならない。


「まあ、キミの手では難しいだろうから、僕に指示を出してくれたまえ」

「平気です。少し痛むだけで――」

「ダメ。厨房に立っていいのは体調が万全の者だけだよ」


 少し強い口調で諭される。

 そこまで言われては仕方がない。

 調理台に立つミトの横に移動する。

 作業の手伝いは最低限にして、アドバイス主体で貢献することにした。


「あ、ちなみに鮫皮おろしはありますか?」


 鮫皮おろしは、おろし器の一種である。

 突起が非情に小さく、細かくすり下ろすことができる。

 ワサビは細胞を破断させて深い辛みを出すため、この鮫皮おろしが最適なのだ。


「……サメカワ?」


 しかし、ミトはきょとんとした顔になる。

 どうやらこの世界では使われていないようだ。


「わかりました、普通のおろし金でいいです」

「そう? なら準備はできてるよ」


 ミトは大きめのおろし金を取り出した。

 少し目が大きいのが気になるが、おろせないことはない。

 調理器具が揃ったところで、ミトが意気揚々と冷蔵庫を開けた。

 しかし、ここでハルトは違和感を覚える。


「……ちょっと待て、冷蔵庫?」

「ん、まさか知らない? じゃぱねぜからやってきた技術なのに」

「いや、もちろん知ってますけど……」


 ハルトは唸ってしまう。

 どうやら、元の世界の技術が伝わっているらしい。

 じゃぱねぜと呼ばれる人たちの影響力に少し驚く。

 しかし、電線が通っている様子はなかった。


「動力はどうしてるんです?」

「基本は魔石だね。魔石から出てくる魔力を熱に変換してるんだ」

「へぇ……」


 マセキ。

 よく分からないが、元いた世界とは違う原理で動いているようだ。


 ハルトは台上のコンロをまじまじと見つめる。

 コンロの内部にうっすらと紫色の石が見えた。

 どうやらこれが動力源らしい。

 その色彩は鮮やかで、まるで宝石のようだ。


「すごく……綺麗ですね」

「僕のことかい? 照れるね」

「…………そうです」


 ハルトはとりあえず頷いておいた。

 どうやら自分の容姿にかなりの自信を持っているらしい。

 もっとも、ハルトから見てミトという女性は果てしなく美人だった。


 仮面で顔の半分が隠されているが、その輪郭などは彫刻のように均整が取れている。

 吸い込まれるような瞳も印象的で、赤い長髪はさらりと揺れるたび良い香りがした。

 正直、目を合わせるだけで鼓動が早くなってしまう。


 褒められたミトは機嫌が良いらしく、ポップな鼻歌を奏でている。

 そんな調子で、彼女は一本の素材を取り出した。


「さて、これがワサビだ。一本で牛が一頭買える。無駄にしないでくれよ」

「……“本ワサビ”ですか」


 ハルトとしては、少し意外だった。

 別にワサビは、日本固有のものではない。


 確かに日本で取れる本ワサビと呼ばれるものは、西洋へ伝わるのが遅かった。

 しかし、西洋ワサビという別品種が存在し、それは海外でも古くから使われていたのだ。

 また、西洋ワサビは圧倒的に本ワサビより育てやすい。


 ただ、ミトによれば西洋ワサビはこの世界では見かけないそうだ。

 そのためワサビといえば、この“本ワサビ”を指すらしい。

 なるほど、栽培環境が整っていないのなら、これは間違いなく貴重品だ。


「それで、最初にどうしよう。とりあえず茹でとく?」

「ワサビの茎をむしってください」


 冗談を流しながら、ミトに指示を出す。

 ワサビは摩り下ろす前に、中身を露出させなければならない。

 剥ぎ取り方を教えると、ミトは恐る恐る剥いでいった。


「こうかな?」


 ミトは流れるような手つきで茎をむしっていく。

 少しコツがいるのだが、彼女は簡単に剥き終えてしまった。

 飲み込みの早さに、ハルトは少しびっくりする。


「さて、次はどうするのかな?」

「包丁を使って、表面のゴツゴツした部分を取っていきます」

「……包丁ね」


 ミトは棚から包丁を取り出す。

 よく研がれていて、品質も良い物だ。

 刃を水にさらすミトを見て、ハルトはそっと声をかける。


「手本を見せますよ。こればかりは実演しないと分かりにくいので」

「……大丈夫かい?」

「余裕です。少し切ったらミトさんに任せますね」


 ワサビは表皮近くまで削いでやる必要がある。

 そのため中身ギリギリを攻めるのだが、加減がわからないと身を傷つけてしまう。

 ミトの問いに大きく頷いて、ハルトは包丁を受け取る。


 自分の技術を見せるいい機会だ。

 手慣れた作業であるため、失敗するはずがない。

 さっさと下処理を済ませてしまおう。

 そう思って、包丁の柄に触れた瞬間――


 ――『立派なのは包丁と名門校卒の肩書だけだなぁ、佐々来?』


 ズキッ、と側頭部が痛んだ。

 記憶を司る部分から、全身にしびれが走る。


「――――ッ」


 なんで、こんな時に。

 ハルトはこみ上げる吐き気を抑えながら、内心で悲鳴を上げた。

 ギリギリと心臓が締め上げられ、声が漏れそうになる。


 しかし、ダメだ。今は仕事中。

 弱音を吐くわけにも、弱みを見せるわけにもいかない。

 手が震えるのを隠し、ハルトは無理やり包丁を握りしめた。


「包丁の刃を……ッ、表面に、立てて……」


 失敗はできない。

 仕事を受けた以上、しくじりなど一切許されない。

 あの職場で、そう教えられた。

 そう念じなければ、生き残れなかった。


 意識を苛む言葉が、幻聴となって囁かれる。

 それを振り払おうと、ハルトは包丁を食い込まんばかりに握った。

 しかし、消えない。

 あざ笑う声も、失敗の記憶も――


「こう、やって……ッ、皮を、こそぎ……落とし……て」


 意地だけで作業を続けようとする。

 爆発しそうな不快感を抑えこむのに必死だった。

 その時、ある男の声が脳内に響く。


『――出来損ない。お前なんざ、どこも雇ってくれねえよ』


 それは、最も自分を虐げていた男からの言葉。

 積み上げてきた全てを否定する、呪いの――


「……うぇッ、おぇえッ」


 気づいた時には、えずいていた。

 胃酸がせり上がり、出口を求めて逆流する。


 だが、それだけは。

 厨房を汚す行為だけは、なんとか押し留めた。

 慌てて水道の蛇口を開け、喉奥の胃液を水流で押し込む。


 嘔吐は避けたが、当然咳き込んでしまう。

 その二次災害に耐える体力など残っていない。

 包丁を取り落とし、ハルトはミトの足元に倒れこんだ。


「ゲホッ、ゴホッ……ッ」


 こみ上げる焦燥。

 やってしまった、という言葉が脳裏に浮かんだ。


 ハルトは顔を上げられない。

 見れば、口からこぼれた水が彼女の靴を汚していた。

 不快になっただろう。


 こんな状態で、目など合わせられない。

 今自分は、試されている時だというのに。

 料理人として、店に招いてもらっている状況なのに。


 役立たずだと思われてしまえば――


「す、すみませ……」

「一回落ち着こう? ほら、深呼吸して」


 頭上からミトの声が聞こえた。

 平坦な口調のため、感情が分からない。

 怒っているのか、それとも失望しているのか、

 しかし、そのどちらかに収束してしまう時点で、もはや未来はないだろう。


「……う、ぅう」

「やっぱり、何か嫌なことを抱え込んじゃってるみたいだね」


 自分にかかる影が濃くなった。

 ミトがしゃがみこんで、同じ目線に合わせてきたのだ。

 一瞬だけ、彼女の顔が見えた。


 笑ってなどおらず、悲しげな表情をしている。

 それは、いつか見た光景と重なる。


「……ぁ」


 あの時言われた言葉は、今でも忘れない。

 憐憫に満ちた視線を向けられて、吐き捨てられたのだ。


 ――『すまんな、お前を選んだ私が間違いだった』


 それは諦観という、職人にとって最も堪えるもの。

 今の状況は、あの時と軌を一にしていた。

 その先に待っていた仕打ちの記憶が蘇る。

 そうしてハルトは。無意識に呟いていた。


「……お願い、ですから」


 捨てられる。

 追い出される。

 また、あの時のように。


 続きの言葉を紡ごうとするが、舌が痺れてしゃべれない。

 焦りでどうしようもならなくなった瞬間――


「――大丈夫」

 ハルトは柔らかい感触を感じた。

 温かで、確かな熱が伝わってくる。


 見れば、ミトがハルトを抱きとめていた。

 彼女はハルトの頭を撫でながら、優しく呟く。


「僕はキミを見捨てない。追い出したりなんてしないよ」

「……ミト、さん?」

「料理人が包丁を持てなくなるのはよくある。今までに何人も見てきたよ」


 そう言って、彼女はギュッとハルトを抱きしめる。

 荒廃しきった彼の感情を、解きほぐすかのように。

 困惑するハルトだが、ミトは関係なく彼の髪を撫でる。


「でも、それはたまたま不調なだけで、その人の真価ではない。万全な状態を見ないと、その人の実力なんて分かりっこないんだよ」

「……ッ、それって」

「大丈夫、大丈夫だよ。僕はキミを信じてる」


 彼女が何を言っているのか。

 何が言いたいのか。

 それくらいは、ハルトにも分かった。

 ただ、驚きで舌が回らなかった。

 こんなことは、料理人として生きてきて、経験したことがなかったからだ。


 弱いところなんて見せられない。

 弱音の一つも吐いてはいけない。

 失敗しようものなら、再起不能になるまで追い込まれる。


 人間関係が最悪でも、不始末の言い訳にはならない。

 そんなところでも、自分の選んだ道だから。

 責任は。果たなきゃいけないから。


 張り詰めて、頑張って、極限まで身を削って――壊れた。

 そして全てを喪った。

 だからこそ、そんな境遇にあったからこそ、彼女の言葉はハルトの心に染みこんでいく。


「まだ僕は、キミの力を十全に見れていない。それなのに、叩き出したりなんてしないさ」

「……はい」


 頬に、熱い液体が流れる。

 気がつけば、ハルトは涙を流していた。


 初めてだったから。

 こんな風に扱ってもらったことなんて、一度もなかったから。


「……ありがとう、ございます」


 涙を流したこと自体、数年ぶりだった。

 元の職場では、感情を捨てていた。

 そんなものは、持っていても辛いだけだったから。


 彼女の気遣いが、どうしようもなく嬉しかった。

 だから、ハルトは感情のままに泣いた。

 泣くことができた。


 そんなハルトの背中を、ミトは落ち着くまでさすっていたのだった。

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