第2話 運命を変える出会い
ハルトは急いで大通りに戻った。
治安がいい場所ではないことが分かったからだ。
しかし、右手からポタポタと血が垂れており、悪目立ちしてしまう。
「もうちょっと、他のところは――」
大通りを曲がり、少し細めの道へ入る。
先ほどの小道とは違い、少しは人の流れもある。
ここなら大丈夫だろう。
ようやく落ち着いたところで、手頃な建物の前の階段に座る。
そして慎重に傷の手当てを始めた。
まずは傷口に土やホコリが付着していないことを確認。
大丈夫なようなので、ポケットから包帯を取り出す。
先ほど少女からもらったものだ。
これで傷口を圧迫するように包帯を巻いていく。
「ほんと、深くまで切れてるもんなぁ……」
本当なら縫合を必要とする傷だ。
ただ、筋に損傷はないようなので動きに支障は出ない。
今さら手先の繊細さを気にしても仕方ないが、とっさの時に動かないようでは困る。
包帯をぐるぐる巻きにしながら、鞄を開いた。
内部に固定している包丁の刃に、余った包帯の生地を押し当てる。
すると、薄紙を切るようにして包丁が裂けた。
申し分ない切れ味である。
「よし、これで大丈夫」
出血箇所の応急処置は完了。
鞄を閉じようとする寸前で、ハルトは奇妙なことに気づいた。
この包帯が、まったく血がにじまないことに。
また、傷口の痛みも明らかに収まってきている。
鎮痛剤でも塗布されているのだろうか。
不思議に思ったものの、ハルトは目の前に広がる現実にため気を吐いていた。
「……なんか、寒いな」
吹き付ける風は冷たく乾いており、瞬く間に体温を奪っていく。
カタカタと、体の芯から震えが湧いてくる。
日本においても寒さの残る初春だったが、ここまで外気温が低くはなかった。
薄手の長袖一枚では耐えられそうもない。
傷は塞ぎ、朝から情報収集をすることも決めた。
しかし、このままでは朝を迎えられるかわからない。
服を買うか、宿に泊まるかの選択肢が頭に浮かぶ。
だが、ここの通貨は何も持っていない。
一文無しを泊めてくれるとは思いがたい。
日本人を保護しているという王都に行くにしても、一日でたどり着ける場所にあるとは思えない。
もはや八方塞がり。完全に詰んでいた。
「……ちくしょう」
腰掛けている階段を力なく殴る。
じんわりと地面の冷たさが伝わってくるだけだった。
こんなところで野垂れ死にたくない。
何も成し得ずに死ぬのは、怖い。
何のために生きてきたのか、分からなくなる。
そんなのは――嫌だ。
恐怖に駆られそうになった、その瞬間。
「――どいてくれるかい? 僕が店に入れない」
頭上から涼やかな声が響いてきた。
見上げると、そこには一人の女性が立っている。
腰まで伸びた赤い髪。薄く刺繍の入った白シャツに、黒の蝶ネクタイ。
上にツヤのある黒ベストを羽織っており、下は黒いタイトパンツを履いていた。
「あ……すみません」
ハルトは慌てて立ち上がった。
すると、この女性の身長が思っていたよりも高いことに気づく。
スラっとしたスタイルに、シックな格好がよく似合っている。
しかし、ハルトは他のある部分に目が釘付けになった。
――仮面
ヴェネチアンマスク、というのだろうか。
女性は目の周辺を隠す仮面をかぶっていた。
その隙間から覗く真紅の双眸は、まっすぐにハルトを捉えている。
「もしかして、お客さんかな?」
「え……?」
困惑しながら、ハルトは頭上にある看板を見る。
年季の入った木板には、『料亭みとり』と書かれていた。
閉店の札が下げられているが、どうやら飲食店のようだ。
人気の少ない深夜だというのに、何かの忘れ物だろうか。
疑問に思いながら、ハルトは首を横に振った。
「いや、申し訳ないですが、客ではないです」
「まあ、そうだろうね。料理人にしか見えないし」
「なっ……」
なぜ一瞬で素性がバレた。
ハルトは警戒して一歩下がる。
しかし、女性はため息を吐いて指を伸ばした。
ハルトの足元にある鞄を指差している。
閉め忘れていた鞄の隙間から、ハルトの包丁が見えていた。
「……あ」
「よく研がれた包丁に、上質な砥石。そんなものを携えて僕の店の前にいたら、料理人という答えが真っ先に思い浮かぶさ」
「確かに」
指摘を受け入れつつも、ハルトは警戒を解かない。
この女性の、芝居がかった口調が気になるのだ。
ただ、その物腰は穏やかで、敵意も感じられない。
女性はハルトの全身をくまなく眺めた上で、ニッコリと微笑んだ。
「雇ってもらうために仕事道具を持参とは、健気じゃないか。そこまでされたら僕も断れないなぁ」
「は?」
「働きたいんだろう? 僕の店で」
なぜか女性は胸を張って誇らしげだ。
なにか大変な勘違いをされている。
ハルトは直感的にそう確信した。
「いや、普通に休んでただけです。そろそろ出発しようと思ってたところで――」
変な人に絡まれてしまった。
一旦離れて仕切りなおした方が良さそうだ。
ハルトは背を向けようとする。
しかし、そこで女性が春人の袖を掴んだ。
「いいのかい? じゃぱねぜがこんな深夜に一人でフラフラしてたら、何をされるか分からないよ?」
「……え」
「黒い髪に、黒い瞳。そんなじゃぱねぜの容姿を好む貴族もいるからね」
暗闇の中で、女性の赤い瞳が妖しく光る。
とても冗談を言っているようには見えなかった。
それに、自分が大通りで目立っていたのは紛れもない事実。
ハルトは身震いして、言葉を喉につまらせた。
「まあ、決定に口を出すつもりはない。キミが行くのなら、悪漢に襲われないことを祈るだけだ」
そう言って、女性はハルトから視線を切る。
腰に下げたリングから一本の鍵を取り、店の入口を開け始める。
このまま立ち去っても、彼女は振り向かないだろう。
根拠はないが、ハルトはそんな予感がした。
だから、なのか。
ここで見つけた糸口を逃さまいとしたのか――
ハルトは無意識に呟いていた。
「……ますか?」
それは自分にだけ聞こえた言葉。
その一言で、ハルトは自分の意志に確信を持つ。
鍵を開け終えた女性は、頬をかきながら振り向いた。
「え? ごめん、もう一回言ってくれるかな」
「――泊めて、くれますか?」
先ほど呟いた言葉を、しっかりと伝える。
すると、女性はそれを待っていたかのように微笑んだ。
「さあ? それは君の心次第だよ。なにせ僕の店に入っていいのは、客と店員だけだからね」
どちらにせよ、無償では宿泊させてくれないようだ。
ハルトは空のポケットを撫でながら率直に言う。
「金は持ってません」
「じゃあ、ちょっとだけ仕事を頼むことになる。キミは、料理人なんだろう?」
女性は確認するように顔を近づけてきた。
魅力的な瞳で見つめられ、ハルトは顔を背けることができなくなる。
しかし、不快には感じない。ハルトは目を伏せながら独白した。
「昔は、そうでした。でも、今の俺は――」
料理人ではない。
そう名乗る資格など、持ち合わせていないのだから。
言いよどむハルトに、女性は興味を惹かれたようだ。
「……へぇ、なるほどね」
品定めのような視線。
ハルトは緊張で息が喉に詰まりそうだった。
数秒の沈黙の後、女性はにこやかに告げた。
「うん、一晩は泊めてあげよう。仕事内容は腕を見て決める。厨房を開けるから、入っておいで」
「……いいんですか?」
「いいんだよ」
即答して、女性は軽やかな手つきで扉を開ける。
そして中に入ってちょいちょいと手招きしてきた。
だが、ハルトは釈然としなかった。
なにより、今の自分が料理をすることなど想像すらできなかった。
考えるだけで耳鳴りがして、視界が狭まっていく。
それゆえに、こぼれ出す言葉も暗澹としたものになる。
「でも、俺は……料理人失格で、前の仕事も――」
「はいはい、寒いからさっさと閉めてね」
ハルトの逡巡を無視して、女性は手を掴んできた。
そして迷うことなく引き入れようとする。
「うわ!?」
前につんのめり、ハルトは半ば強引に引きずり込まれた。
危うく倒れかけたが、女性がさりげなく支えてくれる。
アフターケアに礼を言おうとしたが、顔を上げたハルトは身を震わせた。
女性の表情が先ほどの柔和なものと明らかに異なり、真剣そのものだったからだ。
彼女は忠告するようにハルトへ告げた。
「――役に立つかどうかは僕が決める。絶望してる人の自己評価なんて、微塵も信じてないからね」
誰のことを言っているかは、ハルトも容易に理解できた。
不快にさせてしまったかと萎縮してしまう。
だが、女性は真面目な顔から一転、優しげに微笑んできた。
「ごめんよ、言葉がきつかった。ただ、偏見抜きでキミの腕が見たいだけさ」
「……いえ、気にしてないです」
首を振るだけで精一杯だった。
女性は手慣れた様子でカウンターにある石を指で弾く。
すると、変哲のない石が暖かな光を発した。
それに共鳴して、店内に飾られている石が一気に光を灯す。
瞬く間に、暗闇の店が明るくなった。
「うわぁ……」
ハルトは感嘆していた。
幻想的な光が店内を煌々と照らしている。
どんな原理かは知らないが、思わず感動してしまうほどに美しかった。
欄間のような装飾に、文字の書かれた掛け軸。
西洋の雰囲気を纏いながらも、どこか日本を思い起こす造りになっている。
光る石に目を奪われていると、女性が得意気に説明してきた。
「綺麗だろう? それは特殊な燃料で光っていてね、名を
「……すごいですね。石も、内装も」
「ふふ、そう言ってくれると鼻が高い」
どうやら、この部屋の調度品は彼女が管理しているらしい。
ハルトの賞賛を受けて、女性は素直に嬉しそうだ。
彼女は手荷物を置くと、近くのドアに手をかけた。
「さて、キミが仕事をするのはここだよ」
少し重い音を立ててドアが開く。
そこにあったのは、ハルトには馴染み深い形状の部屋――厨房だ。
複数人でも余裕で作業ができそうな広さになっている。
手入れも行き届いていて、思わず感心するほどだ。
「今から仕込みを始めるから、その手伝いをしてほしいんだ」
「……仕込み、ですか」
聞き慣れ、やりなれているはずの作業。
しかし、今はその言葉を聞くだけで心臓が跳ね上がった。
胸が早鐘を打ち、手足にしびれたような感覚が広がる。
「僕がちゃんと監督するからね。やってくれるかな?」
物腰は柔らかで、気圧される要素はない。
なんとか頷こうとした瞬間、ハルトの脳内に嘲るような声がフラッシュバックした。
――『佐々来、ちゃんと言うことを聞けよ! お前一人だけ早くても意味がないからなぁ!?』
女性からの頼みにかぶせるかのような言葉。
そう、常日頃から、自分はプレッシャーを掛けられてきた。
その時は、確かに跳ね除けられていた重圧。
しかし、今の自分がそれを乗り越えられるとは思えない。
ガチガチと、うるさい音が響く。
幻聴ではない。自分の歯の音だった。
気がつけば、足がすくんでいた。
怖い。その一念がハルトのすべてを支配する。
こんな状態で、まともな仕事ができるはずがない。
このままでは、また烙印を押されてしまう。
料理人として、失格の――
「――そういえば、自己紹介がまだだったね」
ポンッと、両肩に手を置かれた。
黒く塗りつぶされそうになっていた思考が引き戻される。
見れば、女性が正面から微笑んできていた。
「僕はミト。この『料亭みとり』の店主だよ」
ミト。それがこの女性の名前らしい。
まさか、店名はミトという響きから取ったのだろうか。
そんな考えがハルトの頭に浮かんだ。
しかし、ミトがじっと見つめてきているため、物思いに耽ることもできない。
「キミの名前が聞きたいな」
「佐々来、春人です」
名を告げると、ミトは楽しげに首をかしげた。
「ササライ、ハルト? 面白い響きだね。サライと呼んでいいかな」
「完走直前の人かなにか?」
思わず突っ込まずにはいられなかった。
そんな略され方をしたのは初めてである。
ふざけているのかと思ったが、ミトは深刻そうに訪ねてきた。
「も、もしかして気に障ったかい?」
「いえ……大丈夫ですけど。それなら普通に春人と呼んでもらった方が嬉しいです」
「ふふ、そうか。ならばハルトと呼ぼう」
「ありがとうございます」
危うく応援歌の親戚にされるところだった。
ハルトは本名を死守したことに安堵する。
「それで、落ち着いたかな?」
「…………え」
一瞬の沈黙。
彼女に指摘され、ハルトは気づいた。
先ほどの沈鬱な気分が晴れている。
ミトとの毒気のない会話で浄化されてしまったのだろう。
心がクリアになっていた。
「お気遣い、ありがとうございます」
ハルトは改めて前を向く。
もう、ここで立ち止まるのはやめよう。
これは宿を確保するために必要なことなのだ。
料理のことを考えると寒気が走るが、先程よりは幾分マシになった。
今はただ、心を無にして為すべきことを成し遂げるのみ。
そのためには、自分の弱いところは見せたくない。
「やるだけ、やってみます」
包帯を巻いた手を握りしめながら、ハルトは力強く告げたのだった。
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