第1話 深い水底

 朱嶺あかみね玲子れいこは扉を3回ノックした。

 扉の向こうからは、「どうぞ」と短い返事があった。

 玲子は無遠慮に扉を開け放ち、薄暗い室内に目を凝らした。灯りのいていない美術準備室の最奥さいおうには、パイプ椅子に腰を下ろす、一人の少女がいた。彼女は、首にげた小さなライトを頼りに読書を続けている。紫月しづき冬子とうこだ。

 「灯り、点けないのか?」

 「必要ないわ。読書の灯りはこれで十分。むしろ、この方が集中できるくらいよ」

 「蛍雪の功ってわけでもあるまいし。まぁ、それはいいや。トーコがここにいるって聞いて飛んできたんだけど、何してんだ?」

 「、最初の依頼よ」

 「おぉ、前に言ってたあれか! ん……でも、学校の許可は取れたのか?」

 「まだよ。必要なのは、5人の部員と、部室と顧問。部員は私とレイレイの2人だけだけれど、まぁ、幽霊部員を適当に連れてくれば解決できるわ」

 「問題は部室と顧問か」

 「そう。実は、その問題についても、この美術部の依頼を解決すれば、美術準備室を都市研の部室として使わせてもらえて、かつ、美術部の顧問が都市研の顧問を兼任してもらえるよう確約を得たわ」

 「なるほど、ここにいるのはそういうわけね。それで、依頼っていうのは?」

 冬子は読んでいた本を閉じ、椅子から立ち上がると、壁に並んだ棚から2枚の絵画を取り出し、部屋の中央にある作業机の上にそれらを並べた。部屋の灯りは消えたままだったため、それらがどんな絵なのかはわからない。

 「もう、灯り点けてもいいよな?」

 「えぇ、お願い」

 長時間、暗所にいた冬子は、まぶしそうに右手で目を覆った。

 暗闇の机上に、2枚の絵が浮かび上がる。

 「これが4月1日に、こっちが4月8日にこの美術準備室に突如として現れた絵画よ。それも、美術部部長のものと摩り替る形でね」

 「へぇ、それは面白いな」

 「依頼の内容はこうよ。この事件の犯人を見つけ出し、摩り替えられた絵画を全て取り戻すこと」

 「シンプルでいい。とりあえずは、この2つの絵画を手掛かりにするしかないわけか。そういや、何の本を読んでたんだ?」

 玲子はパイプ椅子の上に置かれた本を一瞥いちべつしてたずねた。

 「絵画に関する都市伝説をまとめた本よ。例の古書店で昨日手に入れたのだけれど、すでに研究を済ませたものばかりで、退屈な内容だったわ。レイレイも来たことだし、早速、この依頼の調査を始めましょう」

 「そうだな。まずは、この絵が何を表してんのか……。まぁ、芸術ってのは、どうもよくわかんないんだが、これは子どもが描いたのか?」

 「そうね。絵のつたなさから言えば、作者はちょうど、この絵の少年くらいの年齢かしら」

 「あと、この2枚の絵は酷似してるよな。どっちも、同じ顔、同じ格好をした子どもが真ん中に立っていて、背景のベンチと大木もそっくりだ。服装から察するに、季節はどっちも夏って感じだが、ん……よく見ると、2枚目には、車が描かれていないな。1枚目には、柵の外に車が1台停まっているみたいだが」

 「そうね。その他にも、2枚目の方が1枚目よりも、少年が少し小さく描かれている点が異なるわ。背景のベンチや木の大きさが変わっていないということは……」

 「この子どもが後ろに下がっているってことか?」

 「そう……まさに、する絵画ね」

 冬子はしたり顔で玲子の顔を見た。

 「今のは、絵が摩り替ったという意味の交代と、少年が後ろに下がったという……」

 「いや、わかるんだけどさ……そういうつもりで言ったわけじゃなかったんだが……。話を戻すと、この子どもは何をしてるんだろうな。どっちも、同じポーズ……こう、両手を広げて、何かを叫んでる感じだ」

 「そうね……助けを求めているようにも見えるし、楽しそうに何かを口遊くちずさんでいるようにも見える。まぁ、他に気になる点が9つほどあるけれど、それは部長さんに話をいてからにしましょうか」

 冬子は視線を2枚の絵画から入口の扉の方へと移動させると、その閉じた扉に向かって声を掛けた。

 「どうぞ、入って下さい」

 その声を合図に、入口の扉がゆっくりと開かれる。

 「失礼する。例の件の調査は進んでいるかい?」

 現れたのは、今まさに訪ねようと考えていた美術部部長の黒部くろべだった。ノックをする前に扉の向こうから声を掛けられ、少し戸惑っている様子だった。

 「時間通りに来ていただいて感謝致します。依頼については、手掛かりになりそうな点は整理できましたから、あとは、部長さんからお話しを聞いて、現地調査をすれば解決できるかと」

 「それは本当か? 紫月さんに相談して正解だった。職員室で君を見掛けたのは幸運な巡り合わせだったな」

 「職員室で何してたんだ?」

 玲子は冬子に耳打ちした。

 「都市研の顧問探しよ。運動部、文化部問わず、手当たり次第、打診していたの」

 「もう一人、オカルトに詳しい奴がいたんだが、どうもそいつは神隠しがどうだとか騒ぐばかりで……いや、その話は置いておこう。訊きたいことっていうのは何かな?」

 「まずは、技術的なことです。この1枚目と2枚目の絵画は、同じ人が描いたものだと思いますか?」

 「えっ……そうか。勝手に同じ犯人が描いたものだと思い込んでいたから、その発想には至らなかったな。そう言われてみると、この部分の雲の描き方や、ここの、葉や枝の描き方が微妙に違うな……」

 「次に、1枚目と2枚目では、紙質の劣化に大きな差があるように思えるのですが、どうですか?」

 「そうだな、1枚目の方は明らかに劣化が進んでいる。2枚目はもしかしたら、ごく最近に描かれたものかもしれないな」

 「次ですが、この2枚目の絵にある、円形の染みは何だと思いますか?」

 冬子は2枚目の絵の下の方を指差して訊ねた。

 「本当だ、よく気づいたね。……絵の具の類、ではないようだけれど、何か水滴が落ちたような跡だね……」

 「次に、これらの絵を発見した当時の状況について、もう一度詳しく話してもらえますか?」

 「なるほど、君が、紫月さんが言っていた友人だね。わかった、改めて詳しく話そう。まず、1枚目の絵だが、あれは、4月1日の入学式が終わった後のことだった。僕は先生の所に行って次のコンクールの話をしていたんだが――紫月さんが都市伝説研究部の顧問を探しているのを見掛けたのも、この時だったが――どうやら、この美術準備室は鍵が開いたままだったらしい。話を終えて、ここに戻って来てみたら、この机の上に1枚目の絵が置かれていた」

 黒部部長は、部屋の中央にある机に触れて、この辺りだと示した。

 「最初は、誰かが棚に仕舞わずに置いて行ったのだろうと思ったんだが、コンクール用の自分の絵もまた、同じような位置に置いたままにしていたことを思い出したんだ。それで、棚を探してみたが、結局見つからず、というわけさ」

 「それは、どんな絵だったのですか?」

 「風景画だよ。僕はよく週末に自転車で遠出をするんだが、そこで観た風景を描くんだ」

 黒部部長は脳裏に風景を浮かばせるようにして語った。

 「人物画は描きますか?」

 「そういうテーマじゃない限り、進んで描くことはないな」

 「絵には誰の作品かわかるような印がありますか?」

 「絵の裏側を見れば、描いた人のサインが入っているから、それを見ればわかるね。この2枚の絵には何も書いていないが」

 「ありがとうございます。2枚目についても、お願いします」

 「2枚目の絵が見つかったのは、1週間後の4月8日、昨日の午後だった。やはり、この準備室に誰もいない間の犯行だったらしく、気づけば俺の作品は消え、この2枚目の絵が置いてあった」

 「その2枚目の絵が置いてあった状況は、1枚目のときと同じでしたか?」

 「あぁ、そうだ。同じように、この机の上に置いてあったんだ」

 「消えた部長さんの絵は、コンクール用のものですか?」

 「いや、今度は、コンクール用の絵ではなかったな。練習用に描いた1枚だった」

 「では、絵の内容についてですが、部長さんはこの絵の少年の表情について、どのように感じますか?」

 「そうだな……1枚目は、暗い表情をしているが、どこか、希望の色が見える。それに対して、2枚目は……」

 「2枚目は、どうですか?」

 「とても、悲しそうだ……。深い、深い……水底に沈んだような表情をしている」

 「私も同感です」

 玲子は何度も頭を振っては2つの絵を見比べ、間違い探しを続けていた。

 「これは重要な質問なのですが、この公園に見覚えはありませんか?」

 「この公園? ……大きな木が一つ、その側に、ベンチがあって……どこかで見た……気がする。ずっと昔に、何度も訪れたような場所……」

 「それは、水縞みずしま公園ではないですか?」

 「水縞公園? ……そうか、たぶん、小さい頃にいつも通っていた場所だ。青いベンチがあった、その側の大きな木に登ったんだ。ブランコもあった。そこで……いつも、遊んでいたんだ」

 「最後の質問です。部長さんは、この少年を知っているのではないですか?」

 「この少年を……僕が知っている? そんなはずは……いや、思い出せそうなんだが、あと少しのところで思い出せそうなんだが、記憶が途切れてしまうんだ。誰なんだ……よく知っている、誰か?」

 「無理はしないで下さい。思い出せないことというのは、思い出すべきことばかりではありません。訊きたいことはすべて訊くことができました。あとは、私と、朱嶺に任せて下さい」

 「……ありがとう。そうだな、思い出したら、必ず連絡する。後は頼んだよ」

 黒部部長は、どこか沈痛な面持ちで部屋を出て行った。

 「さぁ、現地に向かいましょう」

 思案している玲子を他所に、冬子は外出の準備を終えていた。

 「あ、うん……。部長は一体何を知っているんだ? この絵の少年を知っているというのは本当なのか?」

 「真実を知りたければ、犯人の登壇を待つのが一番よ。今はかく、私たちは裏方の作業に徹しましょう」

 「現地っていうのは、さっきの水縞公園か? 何でこの絵がそこだってわかったんだ?」

 「都市伝説を追うのに、フィールドワークは最も重要な活動の一つよ。この市内にある場所はほとんど頭に入っているわ」

 「恐れ入るよ、トーコのそういうところ。よし、行くか! 水縞公園」

 玲子が通学鞄を肩に背負うのを確認すると、冬子は足早に美術準備室を後にした。

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