トンネルの向こう側

HELIOS

トンネルの向こう側

 この四月から中学一年生になった私のお小遣いは、一カ月で千円札が一枚。小学六年生だった三月までは、六百円だった。母から直接渡された野口英世を見ると、四百円アップの嬉しさが込み上げてき、何でも買える気がした。

 四百円も増えたのだから、欲しかった綺麗な色のペンが買える。駅前の苺がたっぷり入ったクレープも食べることができる。使い道を色々考えるのは楽しかった。

 考えていると、母の誕生日が近いことに気付いた。いつも誕生日プレゼントは、肩叩き券や家事のお手伝い券、手作りの小物だった。

 初めて貰った千円札だ。最初くらいは大切に使おう。

 私は、千円札を母の誕生日プレゼント代として使うことにした。


 そう決めたのは、先週のこと。


 桂木晴香かつらぎはるかは休日を使い、可愛いと口コミで見つけた雑貨屋に来ていた。明日はいよいよ母の誕生日だ。財布と相談しながら商品を見て回る。

 春とはいえ、まだ寒い時期だ。暖まれる入浴剤セットなどどうだろう。

 三つ程の入浴剤が一緒に包まれた、桃色のギフトを手に取る。花弁のような入浴剤、塩のような入浴剤、小ぶりな球状の入浴剤。どれも可愛いが、これだと普通過ぎるだろうか。あっと驚くような物を用意したい願望がある。

 目線を横へスライドさせれば、チョコレートの香りの入浴剤があった。その隣には苺のショートケーキの香りもある。

 晴香は苺のショートケーキの香りを想像した。頭の中に浮かんだのは入浴剤を溶かしたバスタブではなく、大きな苺が乗った本物のショートケーキだった。

 ケーキ。その手もある。物ではなく、美味しいケーキを探すというのはどうだろう。母は自分の為にケーキは買わない人だ。買ったとしても、コンビニの小さなケーキくらいである。


 晴香は雑貨屋を出ると、そこから一番近いケーキ屋へ向かった。ここは口コミが良いことで知られる、白くて清潔感のあるケーキ屋だ。入口の大きなガラスの扉から中の様子が伺える。ショーケースに並んだケーキと、棚に置かれたクッキー。客は五人程入っていた。

 一人でケーキ屋に入るの初めてで、緊張した。ショーケースには定番の苺のショートケーキからロールケーキまで、色々な種類のケーキが置かれていた。どのケーキもシンプルで綺麗である。

 家族は、自分と両親の三人。買うケーキを今のうちに決めておこうと、値段を確認した。

「ショートケーキは──……」

 四百円。「うっ」と心の中で言った。三人分のケーキを買えば、千二百円。予算を二百円もオーバーする。御年玉は母の手元だ。言えば貰えるが、これは母へのプレゼント。どうにか千円で収めたい。

 値札だけを目で追い、百九十円の数字を見つけた。

 何かと見れば、シュークリーム。コンビニ等で売っているシュークリームより一回り大きく、食べごたえはありそうだ。だが、欲しいのはあっと驚く物だ。シュークリームでは、家のオシャレな皿に盛って紅茶を付けたとしても、私なら驚かない。

 晴香は他の物も見たが、結局三人分買える物はなく、ケーキ屋を後にするのだった。


 その後、手当たり次第にプレゼントを探し回ったが、ピンとくるものは見つからなかった。

 疲れた足を引きずって、晩御飯ができているであろう家へ向かう。

 お腹が空いた。今日の晩御飯は何だろう。頭に栄養が回っていないからだろうか。甘い物が食べたい。そう、今日見たケーキのような……甘い。


 その時、強い突風が晴香の体を左へ押した。晴香は膨れたスカートを押さえ、踏ん張った。

「凄い風……」

 風を追うように左を見る。真っ暗なトンネルの真ん前に立っていることに、晴香は気付いた。

 晴香は後退あとずさった。このトンネルは嫌いなのだ。


 小学一年生の頃、学校の帰り道。私はその日、通学路であったトンネルの前で足を止めた。野良猫がそのトンネルに入って行くのを見つけたからだった。

「ねこちゃん!」

 声を掛け、逃げ出した猫を追い掛け、私はトンネルの中へ入った。学校の帰りに寄り道はしないという先生の注意は、頭の中から消え去っていた。

 トンネルの中は暗く、すぐに猫は闇に溶けてしまった。それでも、先にいることは分かっていて、恐れなどなかった私は、戻らずに進んだ。猫を追い掛けていることに夢中で、背後の光が小さくなっていることなど気にしなかった。

 進む程に目の前は暗くなっていき、足元の確認が難しくなったころ、私は何かに躓いて転んだ。

 膝の痛みに耐えることができずに、私は泣いた。

「おかあさぁん」

 いるはずのない母に向け、手を伸ばす。そこで、私はやっと周りの暗さに気付いたのだった。急に怖くなって、私は何度も母を呼んだ。返ってくるのは、反響した自分の声。暗闇で独りぼっちになり、私はその場に蹲って泣き続けた。時折聞こえる化け物のような声が恐ろしかったのを覚えている。

 怯え切った私を助けてくれたのは、通り掛かった自転車乗りのおじさん。自転車のライトが見えた時は化け物の目だと勘違いした。おじさんは私に優しい言葉を沢山掛けてくれ、家まで送ってくれた。


 それから、私は昼でも暗いこのトンネルが嫌いだ。今でもトンネルの先には、化け物の住む世界が広がっていると信じている。



 母の誕生日当日。

 その日の授業を終えると、晴香は手早く荷物をまとめた。今日の帰り道、他のケーキ屋を探してみることにしたのだ。

 昨日の夜考えた結果、頭からケーキの存在が消えず、誕生日プレゼントはケーキにすることにした。何にするか決めてしまえば、それを見つけるだけなので楽になる。ケーキでピンとするものを探し出すのだ。

 晴香は学校を出て、駅前のパン屋へ向かった。

 駅から家へ帰る時、母と寄ったことのあるパン屋で、ケーキも売っていたことを晴香は覚えていた。


 パン屋に着くと、焼きたてのパンの香りが晴香を誘った。学校帰りの空きっ腹にこの匂いは堪らない。いつかここでパンを買うことを決め、ショーケースのケーキを見に行く。

 安い。苺のショートケーキ一つ、二百五十円だ。これなら家族分が買える。

 しかし、晴香は店を出た。

 安くて、美味しそうなケーキではあった。だが、ピンとは来なかったのだ。もしも、他に買えるケーキがなかった時に来ることにしよう。

「どうしよう……」

 他に知ってるケーキ屋など知らない。明日友人に聞いてみようか、自分で手作りしてみようか。

 晴香はそこから一番近いスーパーへ足を運んだ。


 スーパーを出た晴香は、重い足取りで家路を辿った。

 スーパーで分かったことは、千円ではケーキを作ることが出来ないということだった。

 苺だけで、資金の半分が無くなる。そして、生クリームで四百円、五百ミリリットルの牛乳で百円、合計千円だ。卵と薄力粉が家にあるとしても、バターが買えない。欲を言うならば、もっとデコレーションに力を入れたい。チョコで名前を書き、アラザンでキラキラと豪華さをプラスしたいと思った。

 苺以外の物で作ればいけるのではと考えたが、ここまで苺に拘ってきたのに、今更変える気は無かった。

 最終手段は、二百円のホットケーキミックスでケーキを作るという選択。ホットケーキミックスに卵と牛乳と切った苺を入れて混ぜ、炊飯器で焼くというもの。だが、見栄えは素っ気なくなってしまう。

 現段階での選択肢は、パン屋のショートケーキを買うか、手作りするかだ。納得いかない。

「本当に千円しか無いのかなぁ……」

 晴香は財布を出し、金額を確認する。小銭を集めれば、もう少しあるかもしれない。足を止め、小銭を数えるが、あるのは百円にも満たない。そういえば、先月菓子が食べたくて使ったのだった。過去の自分が憎い。

「本当に千円しか無い」

 ピラッと千円札を取り出し、野口英世の顔を見る。貰った時は笑って見えたのに、今は悲しそうに見えた。


 ゴオォォ……。


 晴香はその不気味な音に体を固くした。ゆっくり左を見ると、大きく口を開けたトンネルが笑っていた。苦手なのに、またトンネルの前にいたらしい。

 その口から逃げようと、一歩踏み出そうとした瞬間、トンネルが深く息を吸った。まるで自分を飲み込もうとするかのように。

「あ、嘘ッ!!」

 その吸引力によって、千円札は左手から抜けて、トンネルに食べられてしまった。

「英世ーー!!」

 叫ぶ声はむなしく、千円札は帰ってこない。

「ありえない……」

 伸ばし掛けた手をゆっくりと下した。

 最悪だ。資金が無ければ何もできないではないか。何のために、私は歩き回ったというのだ。

 何のために…………。

 晴香は下唇を噛んだ。財布をしまい、仁王立ちでトンネルと向き合う。

 きっと千円札は、入ってすぐの場所に落ちているはずだ。少し入って、すぐ見つけて、とっとと出れば済むことだ。ここで諦めたら、私の行動はすべて無駄になってしまう。せっかく貰った千円札も無駄にできない。

 ジッと見れば至って普通のトンネルじゃないか。笑ってもいない。ただ中が暗いトンネルだ。

 晴香は胸いっぱいに息を吸うと、トンネルへ入った。後ろの光を気にしながら、足元に落ちているであろう千円札を探す。

「ない……?」

 少しずつ吐いていた外気を出し終えると、急に不安になった。

「どうしよう」

 晴香は視線を上げた。

「あれっ?」

 見えたのは、トンネルの出口と思われる光。

 おかしい。昔入った時は真っ暗な道が永遠と続いていたはずなのに、あんな近くに出口がある。

 不思議と興味が出た。この先に何があるのだろう。

 あるのは、本当に化け物の住む世界なのだろうか。そんなことは有り得ない。現実的じゃない。分かってる。

 それでも、昔からそう思ってきた晴香にとって、この先が恐怖の世界であることに変わりはなかった。

 小さな、小さな好奇心を頼りに、晴香は光を目指す。暗闇から抜け出したい気持ちも背を押してくれた。


 そうして、先に広がっていたのは──。ごく普通の町だった。山が見え、建物があって、道には人がいる。綺麗な町だ。化け物らしき生き物は見当たらない。

 ホッとして、気が抜けた。

「なんだ。わっ──?」

 背に吹き付ける風で、晴香は一歩前に出る。

「また風……。お金!」

 千円札のことを思い出し、振り返る。すると、タイミングよく千円札がトンネルから出てきた。さっきの風に乗ってきたらしい。

「おかえり、英世!」

 愛しい千円札を拾い上げ、丁寧に財布へ入れた。本当に良かった。

「さてと、っと」

 晴香は、もう一度町を見て笑った。折角だから探検しよう。奥に見える白い建物を目指した。目に留まったという、それだけの理由だった。

 山に向かって伸びる坂を、晴香は足取り軽く進む。

 周りを見ながら進んでいると、大型犬を連れた女性とすれ違った。鼻筋が通った、美しい白い犬だ。初めて見た。何という犬種なのだろう。

 そして、その後ろからは仲の良さそうな夫婦。

「やっぱり、買うならここのケーキよね~」

 ケーキ箱を嬉しそうに持って、それについて話しているようだ。

「ケーキ?」

 この先にケーキ屋があるのだろうか。評判は良さそうである。期待で歩く速度は上がった。

 また一人、男性がケーキ箱を持っている。出てきたと思われる店は、目指した白い建物だった。遠くからは分からなかったが、可愛い店だ。白の壁に卵色の窓枠、苺を思わせる扉。まるで、ショートケーキのよう。

 このまま勢いで行こう。

 晴香は、ケーキ屋に入ることにした。

 赤い扉を引くと、金色の鈴が鳴る。温かみのある明かりで照らされた、可愛らしい店内に一瞬で惚れた。まだケーキを見ていないのに、と思った。

「いらっしゃいませ」

 若いお姉さんが笑顔で私に言った。私は会釈だけをして、中へ入る。お姉さんも素敵だ。緩く巻かれた茶髪が可愛い。

 私はショーケースに向かった。丁度客足が落ち着いたのか、私一人だ。緊張する。

「うわぁぁ~」

 ショーケースのケーキを見て、思わず声を出した。

 美しく、可愛らしいケーキがずらりと並んでいる。偶然、目の前にあったケーキはハート型だった。一番上の部分は苺色で、艶々している。その下は苺クリーム色で、ムースのように見えた。そして、デコレーションは一輪の真紅の薔薇が特徴だ。何でできているかは、晴香に想像できない。その周りには銀色のアラザンと、くるっとカールしたホワイトチョコレート。食べたい。

 晴香は、そのケーキの一段上にあるケーキを見た。丸形のフルーツタルトだ。苺、ブルーベリー、マスカット、オレンジ、林檎……。艶々輝く果物がたっぷりと乗っている。これも食べたい。

 つい、目的を忘れそうになる。晴香は苺のショートケーキを探した。白い生クリームを纏った三角形のショートケーキ。赤と白の断面。絞られた生クリームと共に上に乗った、大粒の真っ赤な苺。見つけた瞬間笑顔になった。

 これが良い。

 始まりは入浴剤を手にしたことだった。探し回って、やっと理想のケーキに会えたのだ。そう思うと、さらに愛おしく見える。

 ここで忘れてはならないのが値段だ。晴香は、目を逸(そ)らしていた値段を確認する。

 一つ──三百円。

「これ三つ下さい!」

 反射的に発した。急に声を出したもので、お姉さんは少し驚いてから「かしこまりました」と笑顔で答えてくれた。お姉さんはショーケースから苺のショートケーキを一つづつ取る。晴香はその隙に財布から千円札を取り出し、出す準備を整えた。

 野口英世の顔を見ると、微笑んでいるように感じる。長い間連れ添った相棒だ。手放すのは寂しいが、この店に渡すなら納得してくれるだろう。

 晴香はトレーに千円札を丁寧に置いた。お姉さんがそれを受け取り、レジを打つ。

「お釣りが百円になりますね」

 渡された銀色の硬貨を財布へしまった。

 こんなに可愛いケーキが三つも買えて、お釣りまで返ってくるなんて嬉しい。他のケーキもリーズナブルな価格だ。置いてあるクッキーも美味しそうである。家でケーキを食べて美味しかったら、またここへ買いに来よう。

 お姉さんが苺のショートケーキが入った紙袋を渡してくれた。その時、出来立てのケーキを持ったおじさんが現れた。ここのパティシエだろう。

 黒混じりの白い顎髭を短く生やした、おじいちゃん寄りのおじさんだ。暖かな笑顔だが、怒ると怖そうな顔付きである。

「こんにちは。来店は初めてだね」

「は、は、はいっ」

 凄い。来店した客の顔を覚えているのだろうか。

「君……」

 おじさんは私の顔をジッと見た。私の顔も覚えようとしているのかもしれない。晴香は顔を含め、全身を固くして動かないようにした。

 その甲斐あってか、おじさんは「あー」と声を出した。何の特徴も無い自分の顔を覚えられたのだろうか。

「君、昔迷子になった子だろ?」

 晴香は目をパチクリさせた。

「違ったかい? 人の顔を覚えるのは得意なつもりなんだが……。そこのトンネルで迷子になってた子にソックリだと思ったんだけど、人違いなら悪いね」

「いえ、あります!」

 それは、私のことだと思った。

「やっぱり! 私のことを覚えていないかい? トンネルで君を見つけたおじさんです」

「…………ええーーっ!?」

 店の中にも関わらず、大きなの声を上げてしまった。お姉さんが苦笑いしたのを見て、慌てて口を閉ざす。

「懐かしいねぇ……。転んで泣いていたあの子が、こんなに大きくなって。時の流れは早いなぁ」

 転んだことも知っている。間違いなく、この人は私を助けてくれたおじさんだ。

「あの時は、お世話になりました!」

 六年前のお礼が今になって言えた。

「いやいや。あそこのトンネルは本当に暗いからね。泣いちゃうのも仕方ない。今日はあのトンネルを通って来たのかい?」

「はいッ。嫌いでずっと避けてきたんですけど、初めて通ってきました」

「ほう、初めて。怖かったかい?」

「今はもう平気です!」

 すると、おじさんはニコッと笑った。

「踏み出してみれば、案外平気なものだろう?」

「…………」

 晴香は満面の笑みで言った。


「はいっ!」


 応えたところで、ちょうど客が入ってきた。キリが良かったのでお姉さんからケーキを受け取り、また来ることを告げ、私はケーキ屋を後にした。



 家に帰ると、理想のケーキを見つけるまでの話をしながら、家族三人でケーキを食べた。

「──それで、ケーキを見つけたんだぁ。あのトンネルの向こう側に、素敵なケーキ屋さんがあるなんて知らなかったよー」

「色々探して、見つけてくれたのね。ありがとう、晴香」

 両親は凄く笑顔で、幸せそうな顔をしてくれた。

 少し強面のおじさんの作った、可愛くて美味しいケーキのおかげだ。晴香は、両親を笑顔にさせるケーキを作ったおじさんに感謝した。

 次は父の誕生日にでも訪れよう。次は英世を二人くらいは連れていけたら良いな。

 晴香は大きな苺を頬張った。

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