38 心理的圧力

 日曜の朝、菊乃は電話の着信音で目が覚めた。


 眠い目をこすりながら枕元のスマホを探りあてて「ふぁい。もしもし」と、電話に出る。


 電話の主はカズだった。

『おはよう藤村さん』


「あ、おはよ……」

『今日の予定なんだけど。いいかな?』


「ん? 予定?」


 天井を見上げながらカズの話を聞く。

『昨日の夜、なんとか容疑者を特定することができたんだ。で、勝春と大志はこれからそいつの所に乗り込むことになった』


「へぇ……そうなんだ」

 寝起きで頭が回らない。起き上がるのも億劫だ。

 寝不足で身体がだるい。


 昨夜は、大志にキスし損ねたことを何度も思い出して中々眠れなかったのだ。


『藤村さん、今日は大丈夫? 午後からボク達と合流できるかな?』

「あ、うん。大丈夫。午後からね」


『それじゃ一時にF駅で。森野さんにはボクから連絡しておくから』

「うん。わかった」


 電話を切ってから菊乃は寝転んだまま大きく伸びをした。

 そしてベッドから起き上がる。


(そっか。今日がリミットなんだっけ……)


 ふと時計を見ると九時を回っていた。

 カーテンの隙間から差し込んでくる光は活き活きとしている。


(天気、良さそうだな)


 今日は忙しくなる予感がした。

 昨日のことは忘れて、今日は自分も頑張らなくてはならないと菊乃は決心した。


     *    *    *


 勝春と大志はターゲットが出てくるのをじっと待った。


 情報ではターゲットは日曜の朝に必ず車を洗うという。

 ただ、その時間が分からない。

 それなので止む無く二人は古いアパートの前で張り込みを続けているのだ。


「出てこないネ。まだ寝てるンじゃないかナ」

「随分、待たせやがるな。今日ぐらい早起きしやがれ」


「ハハ。そういうわけにもいかないでしョ」

「もうすぐ十時だぞ。毎週、洗車するというのはガセネタじゃないのか?」


「いや。確かな情報なんだけどネ……て、ホラ。アイツじゃない?」

「ああ。間違いない」


 二人の視線の先にはアパートの階段を下りてくる一人の若い男の姿があった。


 男は、だるそうに階段を下りると、ひとつ大きなあくびをして道路に出た。

 そして手の平で車のキーを弄びながらトロトロとどこかに向かう様子。


「ヨシ。行くヨ!」

 勝春の合図で二人は作戦を開始した。


 まずはターゲットに気付かれないように後ろから距離を詰める。

 そして頃合を見計らって勝春が声を掛ける。

杉本泰三すぎもと たいぞうさん、ですネ」


 その男は、ふいに名前を呼ばれてビクッと立ち止った。

 そして振り返って怪訝な顔を見せる。


 大抵の人間は見知らぬ人間にいきなりフルネームで名前を呼ばれると驚いて動きが止まってしまうものだ。


 その隙を利用して勝春が畳み掛ける。

「重要な話があるンですヨ。ただ、ここで話すにはマズイ内容なんでネ。あちらの喫茶店に行きましょう」


 この場合『行きませんか?』ではダメだ。

 相手に拒否させないためにはキッパリと言い切ること。

 その方が効果的に誘導できる。


「な、な、何?」と、杉本がギョロ目を剥いて言葉に詰まる。

「さあ。行きますヨ」


「ちょ、ちょっとちょっと!」と、抵抗する杉本。


 そこで、すかさず大志が杉本の腕をむんずと握る。

 そして無言で睨みつける。


 背の高い大志の上からの鋭い視線に杉本が怯む。


 しかも、大志は一言も発しない。

『無言のプレッシャー』


 これも勝春の戦略だった。

 一言もしゃべらない人間を同席させることで相手を心理的に追い込むのだ。


「逃げると不利になりますヨ。つまり法的に極めてマズイ立場になりますネ」

「な? お前等いったい……」


「残念ながら、会社側はアナタを訴える事を検討してますヨ。既にネ」

「な、何のことだよ。全然、意味わかん……」


「損害賠償金。払えますかネ? あなたに」

「ソンガイバイショウ? 何だよそれ!」


「だから重要な話なんですヨ。さ、ついてきてください」


 怖いお兄さん役を演じる大志。

 にこやかな表情ながら厳しく言葉で責める勝春。


 訳が分らない杉本はすっかり混乱してしまったらしく、おとなしく二人に連行される。

 

 喫茶店に場所を移して勝春と大志は杉本にプレッシャーをかけ続ける。


 主に話を進めるのは勝春だ。

「杉本さん。アナタ、ミート・ポップの工場に勤務してますよネ?」


「あ、ああ。そうだけど」


「実はネ。ミート・ポップ社はあなたを名誉毀損で訴えるつもりなンですヨ」

「な、なんで?」


「牛肉100%に豚肉を混ぜているという噂。その件についてですヨ」

「は? あ、あれはガチだろ?」と、杉本がしらばっくれる。


 勝春は笑顔を浮かべたまま、きっぱりと否定する。

「いいえ。ガセネタですヨ。あれはあなたが意図的に流したデマです」


 杉本は目をギョロギョロさせながら言い張った。

「は? デマっていう証拠があるの? 偽装していないなんて証明できないでしょうが!」


「できますヨ。DNA鑑定すればすぐに分りますからネ。豚肉を混入していたら一発で分かりますヨ」


 勝春の言葉を聞いて杉本は自らの動揺を隠すかのように捲し立てる。

「無理でしょ、それは! う、うちの会社の場合は出来ないはず。だ、大体、製品が無いんだから。だから鑑定なんて出来っこないはず!」


「なるほどネ。作り置きが存在しないから、ですか?」


「そ、そうだよ! スーパーとかで売ってりゃ別だよ。商品調べれば一発でしょ。でもうちの会社は給食専門だから。全部、その日のうちに消費されちゃうから。サンプルが無きゃ証明のしようが無いだろ」


「確かにネ。ミート・ポップ社の製品は作ったその日にすべて給食に回される。だから保存料など一切なしが売りでしたよネ」


 勝春の言葉を聞いて杉本が徐々に勢いを取り戻してきた。

「でしょでしょ! だから豚肉が混ざってなかったとは誰も証明できないんだって!」


 勝春はゆっくりとティーカップを口に運びながらチラリと杉本の顔を見た。

「ところがネ……それができちゃうんですヨ」


「え? 何言ってんの! だって……」


「通常ならネ。アナタの言う通り、給食で全部食べられちゃうからサンプルは存在しないはずなんです。けどネ……」

 そう言いながら勝春はニヤリと笑った。


 そしてカップをお皿に置いてから顔を上げる。

「おとといの金曜日。一校だけあったんですヨ。学級閉鎖がネ」


 その瞬間、杉本の表情が強張った。


 勝春はゆっくりと説明を続ける。

「ですからネ。一クラス分のハンバーグがまるまる残ってたんですヨ。今、これを検査に出しています。月曜の夜には結果が出るでしょうネ」


 これは勝春のハッタリだった。

 本当は学級閉鎖という事実は無い。

 検査に出しているというのも嘘だ。


 だが、杉本の自信を喪失させるには充分な手応えがあった。

「マジで? そんなことって……」


 明らかに動揺する杉本に勝春は追い討ちをかける。

「遅かれ早かれ、鑑定結果が出たらアナタのTVでの証言は嘘だったことがバレるでしょうネ」


「ちょ、ちょっと待ってよ! 何で俺なの? TVに出たのは俺じゃないかもしれないでしょうが!」

「イイエ。それはないですネ」


「な、なんの証拠があって?」

「TV局ですヨ。あなたを取材した人。あれ、ボクの『いとこ』なんですヨ」


「は? マジで?」

「モザイクかける前の映像見せてもらったんですヨ。その証拠にすぐアナタを見つけることができたでしょ」


「な、TV局の奴に……聞いたの?」

「ハイ」


「クソッ! 話が違……」と、言いかけて杉本がハッとする。


 勝春はそれを見逃さない。

「話が違う、ですか。ついに白状しましたネ!」


「い、い、いや。そ、それは」と、杉本がどもる。

「マ、こちらはすべて調査済みなんですがネ。で、なんであんなデマを流したのかその理由も突き止めましたヨ」


「ま、マジで?」

「お金の為でしョ。つまり、ある人物に依頼された」


「そ、そんな事までバレてんの?」

「とぼけるのは結構ですが……」と、前置きして勝春がトントンとテーブルを指でノックした。そして急に険しい表情で宣告する。

「800万円。最悪の場合、払って頂くことになりますネ」


「は? お、俺が?」

「言っておきますケド、一日につき800万円ですからネ」


「な、な、何い!?」

「工場の休業で発生する損害だけじゃありませんからネ。あなたのデマで会社が失った利益、専門用語では逸失利益いしつりえきといいまして」


「イシツリエキ?」

「ハイ。この逸失利益も含めますと、ざっとみて一日あたり800万円。かける休業日数分」


「無理っ! そんなの払えるワケない……」


 とんでもない金額を掲示されたのもあるが勝春が急に険しい顔をしたことが杉本の心理に影響を及ぼした。

 今まで『にこやか』だった相手が急に態度を変えると小心な人間はたいてい参ってしまう。


「ただネ。今ならまだ被害が最小限に食い止められるかもしれませんヨ」


 わざと地獄に叩き落しておいて、ちょっと優しい言葉をかけてやる。

 これも勝春のテクニックだ。


 案の定、杉本が救いを求めるような表情で勝春にすがってきた。

「ほ、本当に? なんとかなるのかい?」

「あなたがデマだったことを認めれば良いンですヨ」


「そ、そんな……」

 初めにわざととんでもない要求をしておいて徐々に水準を落としていく。

 これは交渉を有利に進めるためのセオリーだ。


「損害賠償は何千万単位になると思いますヨ。いくら貰ったかは知りませんけどワリに合わないんじゃないですか? それに比べれば非を認めるぐらいどうってことないでしょ」


 勝春の誘導尋問に杉本はすっかり参ってしまった。


 ここに到るまでに勝春は巧妙な心理戦を仕掛けてきた。

 勝春は杉本が小心者と見るや、あの手この手で杉本の心理を揺さぶって完全に落とした。


 これでもう杉本は黙ってこちらの言うことを聞くようになるだろう。


「サ、大志。さっそく手配を」

「わかった。本部に連絡してマスコミに働きかける」


 ここまでは作戦通り。

 あとはTV局を使って杉本に懺悔させなくてはならない。


 いよいよ忙しくなりそうだ。

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