第4話

 ベナンの街から帰航した交易船がここリドアの街の港に停泊していた。


 港の桟橋では船から積み荷が降ろし始められ、船員たちが慌しく駆けずり廻っている中、そんな周囲の喧騒を尻目に船を降りる人影が二つ……無事航路を渡りリドアの街へと辿り着いたエレナとレイリオの姿があった。


「よし、まずは宿を探そう。数日滞在する可能性も考えて、多少割高でも安全性を重視した方がいいだろうな」


 そのエレナの言葉に少し不思議そうな顔をするレイリオ。


 「エレナ、まだ日は高いよ、このリドアから王都マルテナまでは馬車に乗れば半日も掛からない、少し急げば今日の夜にはマルテナで宿が取れるんじゃないかな」


 エレナはレイリオの提案を首を横に振り諌める様に口を開く。


 今の不用意な発言からもレイリオが旅慣れていないことが良く判る……一度でも街道を渡った経験を持つ者ならば、絶対にそんな軽率な発言を口にする事などないからだ。


 「レイリオ、馬車とは乗合馬車のことを言っているのか?」


 「そうだよ、最も頻繁に旅をする者は個人で馬車と護衛を雇うことくらいは知っているけど」


 乗合馬車とは旅人が街道を移動する為の一般的な交通手段である。


 複数人が馬車と護衛の料金を運賃として支払う為、個人で傭兵を雇うよりも遥かに割安となり、広く陸路を渡る移動手段としては一般的なこの方法は地域によっては寄合馬車という呼び名で呼ばれる場合もある。


 「じゃあ聞くけど、その寄り合い馬車が魔物に遭遇せず次の街に着ける可能性はどれくらいだと思う?」


 「少し暴論だね、それは条件によって変わるとは思うけど……でもそうだね、八割くらいじゃないのかな」


 エレナはレイリオの答えにまた首を横に振る。


 「五割以下だ、そして運悪く複数の魔物に遭遇した場合の生存確率は三割に満たない」


 カテリーナの災厄以降、内陸部の状況は以前とは一変したといえる……今陸路を移動するのは戦場を駆けるのと変わらない……まさに命懸けなのだ。


 「少しでも生存確率を上げるためには、馬の状態、御者の経験、そして護衛の力量を正確に測らなければならない。この街の乗合馬車がその水準に達していないのなら、時間と労力を掛けても個人的に代わりを見つける必要がある。レイリオ……安易に人に命を委ねる事は自分の命を軽視するのと変わらない。覚えておいた方がいい」


 エレナにまざまざと自分の認識不足を指摘されレイリオは絶句する。


 だがそれはエレナへの反発からでは無い……大きな夢を語り家を飛び出しておいて、こんな基本的な事すらおざなりの知識に満足し、危機感すら持てず安易な判断を下そうとしていた自分が許せなかったのだ。


 命の危険と隣り合わせという深刻な状況を情報としてしか捉えていなかった己の軽率さをレイリオは恥じる。


 「君を護衛として雇ったんだ、エレナの意見に従うよ」


 レイリオは冷静さを装いそれだけいうのがやっとだった。


 「君のそういうところが本当に好ましいよレイリオ。君は自分の夢を叶える為にきっとこの先多くの護衛たちを雇うことになると思う。だから一つだけ忠告しておきたいんだ」


 エレナはそこで一度言葉を切りレイリオを見つめる。


 レイリオはその黒い美しい瞳に魂すら奪われそうな、そんな錯綜した思いに思わず囚われてしまう。


 「護衛とは魔物に遭遇した時に雇い主を護るのが本分じゃない、如何に安全に雇い主を目的地まで連れていけるかが腕の見せ所だと思う。だから何があっても自分が護るなんて豪語する人間を簡単に信用しては駄目だ。人は魔物に対し余りに無力な存在……残念だけど其処をちゃんと認識することから始めないとね」


 まただ……とレイリオは目を見張る。


 自分より二、三歳は年下であろうエレナが随分と大人びて見える。


 女性は男よりも、と良く言われるがそういった次元の話では無い……その剣の腕前といい、これまで一人で旅を続けて来たであろう彼女の生い立ちが決して恵まれたものではない事は想像に難しくはなかったが、それを考慮しても余りに異質な何かをレイリオはエレナから感じていた。


 「ではまず宿探しからだ」


 エレナは目深に外套を被る。


 こうすると元々身長が高くないエレナの顔はフードを覗き込まない限り確認するのは難しくなる。


 先に歩き出すエレナに歩調を合わせるようレイリオもまたそれに続いた。




               ▼▼▼▼



 リドアの街一番の高級宿『バリトン・ベイ』はこの国の貴族たちも逗留することがある格式の高い宿の一つであった。


 今その受付に現れた一組みの男女に受付の男は揉み手をしながら対応している。


 その理由は明らかで、前金として渡された小さな皮袋には少なくても数枚の金貨が入っていた……昨今これ程気前の良い客は珍しく、受付の男からして見れば間違い無く上客と言えたのだろう。


 「ではお客様、滞在日数は変動があるという事ですので此方はお預かり金として預からせて頂いてよろしいのですね?」


 「ああ、もしかしたら急な出立もあるかも知れないからね、その時はそこから宿代を補填して欲しい。当然何も無ければ別に宿代は清算させて貰うよ」


 「畏まりました、それでは最高のお部屋をご用意させて頂きます」


 受付の男が案内を担当している男に目配せを送る。


 「それと、妻は顔に傷を負ってしまっていてね、余り人前に出るのを好まないんだ」


 促されるように受付の男は青年の妻だと言う連れの女性へと視線を送るが、頭から被っている外套のせいでその表情までは窺えない。


 「それはお気の毒に……それでは食事の方も食堂の方では無くお部屋に運ばせるように申し付けておきますので」


 「気を使わせて悪いね」


 青年は受付の男にそっと数枚の銅貨を握らせる。


 これに気を良くしたのか受付の男は、案内を担当する男に連れられ二人の姿が広間から見えなくなるまでその背に深くお辞儀をし見送っていた。


 「随分と大盤振る舞いじゃないか」


 部屋に通され案内の男が姿を消すのを確認してから、エレナは外套を脱ぎ捨て見るからに高級そうな寝台に腰を下ろすと、伝わってくる柔らかな感触に僅かに目を細めた。


 「この手の宿の評価は直ぐに街全体に広がるからね、いずれこの街で商売を始める時それが役に立つ。その為の投資を兼ねていると思えばそう高い出費とは思えないかな」


 「成る程ね」


 この手の感覚は商人特有のものなのだろう、とエレナは思う。


 エレナにとっては思いもよらないことでもレイリオの中では計算の上で成り立っている事柄が多数存在し、そうした価値観の違いも騎士時代には無縁のものであった今のエレナには実に興味深かった。


 「食事までは少し時間もあるし、この機会に少し君の事を聞いてもいいかな?」


 テーブルに用意されていた暖かい紅茶を杯に注ぎながらレイリオはそう切り出した。


 「俺の身の上話しなんか面白いとは思えないけど」


 「そんな事はないさ、実に興味深いよ、例えばそう……その男言葉とかね」


 レイリオは入れた紅茶の杯の一つをエレナへと手渡し、それを受け取ったエレナは少し思案したような表情を浮かべ、


 「レイリオは私に女性らしく振舞って欲しいのかしら」


 と切り替えした。


 そのエレナの甘い誘う様な声音に慌てたレイリオが紅茶が入った杯を危うく落としかける。


 こうして女性らしい話し方をされるとエレナは完璧な深窓の令嬢にしか見えず、その容姿もそして涼やかで澄んだその声音も男を魅了するに十分な妖しい魔力の様なものすら感じさせた。


 エレナがそう意識しなくとも周囲の者は彼女に惹かれずにはいられないのだ。


 「女が一人で生きていく為には男に媚びるか、そうでもないなら舐められない様に虚勢を張るしかないからな、この言葉使いは一種の自衛手段なんだよ」


 最もらしいことを言ってはみたものの、その実、言葉使いに関してはエレナの素が出ているだけである……色々理由をつけては見たが全てはただの後付に過ぎない。


 「演技にしては随分と堂に入ってるね……」


 レイリオは少し半信半疑といった複雑な表情を見せるが概ねその理由には納得がいったのかそれ以上その事に追求することは無かった。


 「まぁ、この先話す機会があるかも知れないけど、今はまずマルテナに無事辿り着く事に集中しないか、話はそれからでも遅くないと思う」


 エレナの声の調子は拒絶と呼ぶほど強い否定では無かったが、レイリオも女性の身の上話しを強要するような無粋な真似は好むところでは無い。


 話したくない事情があるのなら無理強いするつもりなど毛頭なかったのだが、同時に彼女の事をもっと良く知りたいという欲求にも似た衝動もまた確かに存在していた。


 「じゃあ、マルテナに着いてからの楽しみに取っておくとしようかな」


 レイリオはそうエレナに微笑み掛ける。


 彼女との旅はまだまだ続く……此処で焦る必要はないのだ、と……少しづつ彼女との距離を縮めていけばいい。


 そして旅の終わりにはこの想いを彼女に伝えよう。


 エレナと添い遂げるそんな淡い未来を想像し、だがレイリオは僅かに頬を引き締める……その為には自分が彼女に相応しい人間であることを示さなければならないのだ、とレイリオは決意を新たにする。


 紅茶が少し熱かったのだろうか、慌てて杯を離し小さな舌を出して顔を顰めているこの可憐な少女を護れるような、そんな男になろうとレイリオは心に誓うのであった。




               ▼▼▼▼



 無人の街道を馬車が駆ける。


 それは通常の速度では無い――――まさに疾駆であった。


 全力で駆け抜ける馬車に併走するように三騎の騎馬がそれに続き、広大な原野には他に生き物の気配は見られない。


 恐らくこの地域一帯は以前は田園地帯であったのだろう、手入れをされず放置された稲穂らしき残骸が嘗ての情景の名残を残し哀愁すら感じさせる無残な光景が広がっている。


 舗装された街道の道も遠目にはまともに見えるが、実際走っているとあちらこちらに陥没や亀裂が広がり、此処近年まともな補修がされていないであろう状況が垣間見える。


 時折馬車の車輪が溝や亀裂に接触し悲鳴を上げる。


 前方を走る騎馬が大きな損傷のある箇所を身振りで示し、馬車を回避させてはいたがその全てを避ける事は不可能に近く、その為か馬車の車輪部分は一際強固な作りをしており、こうした運用が日常的に行われている事を窺わせていた。


 「ラドック、足元ばかりに気を取られて前方の警戒を怠るなよ」


 馬車の右側面を走る騎馬が前方の騎馬へと注意を促す。


 何十回となくこなして来たとは言え、馬車の護衛は毎回が命懸け……僅かな油断が依頼人どころか自分たちの死に直結する。


 「ミローズ、左前方にいるぞ!!」


 ミローズと呼ばれた騎馬が馬車の左側面を走る騎馬の声に促され其方を見やる。


 ミローズの視線の先、まだ遥か前方ではあるが街道沿いの原野に幾つもの人影を映し……当然ではあるが馬車の進行方向である為に次第にその人影との距離が縮まっていく。


 ぼんやりと見えていた人影は馬車との距離が近づくにつれはっきりとその姿を現し出し……いやそれを人影と表現するのは些か適切ではないだろう。


 ずんぐりとした胴体に野太い両足、一際巨大で不自然に長い両腕……そして決定的に人間とは異なるのがその頭部であろうか。


 人間ならば本来当たり前に存在する目、鼻、耳といった基本的な部位の一切が欠落したのっぺりとした頭部には、だらしなく伸びた頭髪と不自然に巨大な赤い口だけが存在している。


 その形状のせいだろうか、まるで笑っているかのような口元が生理的嫌悪を嫌が上でも駆り立てられる。


 その魔物の名は愚鈍なる暴徒『アンダーマン』


 この地方では人もどきと呼ばれる最も遭遇率の高い魔物の姿であった。


 その魔物、アンダーマンたちが馬車の気配に気づいたのであろう、街道の方へと歩みを進め始める……その動作は酷く緩慢ではあったが馬車との距離を考えても十分にその進路を塞ぐ事は可能に思えた。


 「カロッソ!!」


 ミローズが左側面の騎馬に叫ぶ。


 その声に応える様にカロッソは手綱なら両手を離すと、背中に背負っていた弓を左手に持ち、右手で腰に釣っていた矢筒から矢を取り出す。

 そしてカロッソはそのまま徐に鉄を仕込んだ靴底に矢尻を擦り合わせると、音を立ててその先端に炎が点る。


 大量の油と発火用の特殊な金属を仕込んだこの矢尻は対魔物用に開発された一般的な火矢である。


 カロッソは慣れた様子でその火矢を弓に番え、まだ距離がある前方のアンダーマンへと放った。


 放たれた矢は放物線を描きながらアンダーマンと街道との間へと落ち――――刹那、地面と接触し砕けた矢尻から大量の油が溢れその周囲に火の手が上がる。


 眼前で突然発生した炎にアンダーマンたちの足が止まる。


 ミローズはそうしてアンダーマンと街道を隔てるように二の矢、三の矢を放っていった。


 馬車がそうして出来た炎の壁の横を走り抜けていき、アンダーマンたちは燃え上がる炎の壁を越えられず呆然と立ち尽くし馬車を見送っていた。


 馬車を含め、馬の速度に追いつける魔物は稀であり、こうして一度かわしてしまえば基本的に後ろから追いつかれる心配は無い。


 馬車の護衛とは遭遇した魔物を討伐することではない……こうして馬車の進行を塞ぐ魔物を排除してその進路を確保する事が主な役割であったのだ。


 今かわしたアンダーマンたちをまともに討伐しようとすれば一体に数人掛かりで挑まなくてはならず、それ程に危険な魔物が……アンダーマンだけでも恐らくこの地域には数万は生息していると言われていた。


 如何に腕に覚えがある命知らずの傭兵たちであろうと、魔物を相手にまともにやり合うなどそもそも正気の沙汰ではない。


 「相変わらずいい腕だなカロッソ」


 周囲の安全を確認したミローズが既に顔馴染みであるカロッソに笑い掛ける。


 カロッソだけではない、馬車の前方を担当しているラドックともミローズは何度か仕事を共にしていたのだが、リドアの街で一、二を争う二人と同時に仕事をこなすのはミローズもこれが初めての経験であったのだ。


 「これが最後の仕事になるからな、気合も入るさ」


 三人にとって今回の依頼主は嘗てない程の上客であった……その中でもカロッソはこの依頼に特別な感慨さえ抱いていた。


 既に前払いで報酬も貰い、これまで貯めてきた金と今回の報酬を合わせれば、もう魔物を相手に危険な仕事をこなさなくとも家族共々生活していけるだけの額は稼いでいたカロッソには……。


 妻と子供たちの為にもこんな危険な稼業からは足を洗う……ようやくそのカロッソの望みは叶おうとしていた。




 街道を疾駆する馬車の中には若い男女の姿がある。


 油断無く格子が付いた窓から外の様子を窺う美しい黒髪の少女とは対照的に、若い男性の方は渋い顔で俯いている。


 「だから不用意に喋ろうとすれば舌を噛むと注意したんだ」


 黒髪の少女、エレナは窓の外から視線を外すことなく少し呆れた声音で連れの男性、レイリオへと語りかける。


 「不用意も何も――――」


 その瞬間また馬車が、ガタン、と大きく揺れ、レイリオは慌ててまた口元を押さえるがどうやら今回は無事、事無きを得たようだ。


 「揺れる車内で喋るにはコツが必要なんだよ。それを今説明しても実践できるとは思えないし、こういった経験も最初は必要なのさ」


 明らかに面白がっている節が見えるエレナの言葉に不貞腐れたような表情を浮かべるレイリオ。


 二人は結局、寄合い馬車の搭乗を見合わせていた。


 エレナの眼鏡に適う精度がリドアの街の寄合い馬車には無かったのが大きな理由であり、雇い主であるレイリオがそのエレナの判断を尊重した事で、二人は一からマルテアまでの馬車の手配を始める事になる。


 エレナたちは個人で馬車と御者、それに馬の手配をすることになったのだが、そこはレイリオの手腕を生かし街の有力者と話しをつける事で解決していた。


 肝心の護衛に関しては寄合所が斡旋する傭兵たちの質に中々エレナが納得しなかった事もあり些か難航したのだが、街の噂を当たり直接本人たちを見定めるという時間の掛かるやり方ではあったが、何とか護衛の件も解決を見る事となった。


 結局エレナたちが全ての準備を整え、リドアの街を出立するまでに四日という日数を費やしていた。


 「もうすぐ行程の三分の二に達するはずだからもう少しの辛抱だ」


 王都の勢力圏内に入ってしまえば道中も比較的安全になる。


 どの国も自分のお膝元だけは騎士団を動員してでも安全を図ろうとするのは変わらない……それが悪い事だともエレナも思わない……だがそれで夜を安心して眠れるのは王都に住む一部の者たちだけなのだ。


 この国の中でも比較的大きなリドアの街ですらいつ魔物の襲撃を受け滅んでしまうか分からない……それが魔物という脅威に見舞われている今の大陸の偽らざる現状であった。


 「王都に着いたらとりあえず体を伸ばしたいな、長時間馬車に揺られるのがこんなに苦痛だとは正直思わなかったよ」


 「そうだね――――」


 合槌を打とうとしたエレナの言葉が途切れ、そのエレナの真剣な面持ちに気づいたレイリオは表情を改める。


 「どうしたエレナ?」


 窓の外、その一点を見つめるエレナ。


 「鉄の蜥蜴『アイアン・リーパー』――――」


 窓の外、馬車に向けて原野を疾走する黒い集団を見つめエレナは呟いていた。

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