第3話
二人の間で契約が交わされてから二日。
ベナンの街ではある噂で持ち切りとなっている……それは街頭で、酒場の席で、好奇の的として酒の肴として話題に挙がる或る男女の恋愛話は、暗い話題が多い今の時世の中で、気兼ねなく盛り上がれる種の明るい話の一つとして広まり易かったとは言える。
街一番の豪商であるガラート家の御曹司と亡国の貴族の令嬢とのラブロマンス。
身分違いの恋、という大衆が好む物語であったとは言え、瞬く間にこの二人の噂が街中に広まったのには、多くの人々たちが関心を寄せ、興味を寄せる理由は必ずしもそれだけではなかった。
御曹司の恋愛の相手である令嬢……エレナと呼ばれるその娘の美しさが、この物語に華やかな色を添えていたのだ。
人目を憚る事もなく街中で逢引を楽しむ様に仲睦まじく歩く二人の姿を、寄り添う様に歩く若者たちの姿を、多くの者たちが目撃し、そして皆一様に少女の美しさに息を呑む。
或る者はまるで熱に侵されたように。
或る者は羨望の眼差しを向けながら。
或る者は嫉妬に目を曇らせて。
語られる美しき少女の姿はまるで天上の女神のようであったと。
性別を問わず目を奪われてしまう……そんな人々を魅了する魅力が少女にはあった。
いつしか街の人々はそんな二人の動向に注目し、或るいは気に掛け、事ある毎に話題に上る関心事となっていく。
そんな中事件は起きた。
「こんな手間を掛けずとも家を捨てる覚悟があったならいつでも出来たろうに」
南に向かう貿易船の甲板に佇む二人の男女の姿がある。
強い海風を受けて靡く長い黒髪を少女は鬱陶しげに手で押さえ、そんな少女の姿を微笑ましそうに男が眺めている。
「父との決別は決定的だったけど、だからと言って、はい、さようなら、とは簡単にはいかないさ」
レイリオにとって父親であるノルトは尊敬に値する人物であった。
小さな貿易商に過ぎなかったガラート商会をベナン一の豪商にまで押し上げたその手腕を高く評価もしていたし、又息子である自分に惜しみなく注がれていたであろう愛情も十分に感じてもいた。
だがとうとう最後まで父親であるノルトとの間に生じた価値観のずれを埋めることが出来なかったことに対しては今だレイリオの中でも後悔は残っている。
商人として世界を見て廻り、自分の商会を大陸中に広めたいという夢を馬鹿馬鹿しいと一笑に伏した父の姿がレイリオの脳裏に浮かぶ。
確かに父の言う通り、今のこの世界は先の災厄以降、魔物の台頭により陸路を使った交易は困難を極めている。
今この瞬間にも魔物に襲われ多くの村や街が滅んでいるかも知れない……それほど内陸部の魔物による被害が深刻である事くらいはレイリオとて知っている。
しかし……いや、だからこそ完全に分断されてしまっている陸路による交易は、大きな可能性と商機を秘めているのではないのか、とその強い思いがレイリオの中にある。
南部の一部の豪族との取引に固執している様に見える父のやりようは、外への可能性に目を閉ざし、小さく纏まっている現在に満足している様で、どうしてもレイリオには受け入れ難かった。
そして父の後を継ぐということはそのしがらみをも引き継ぐという事に他ならない……南部域の比較的大きな商会の会頭となり、慎ましやかに商会を守っていく……そんな生き方はレイリオには耐え難い人生であった。
この時代に男として、商人の子として生を受けたのならば、夢を追いたい……叶えたい……それが例え遥かな道行の先にある僅かな可能性であったとしても自分の力を試したい、とレイリオは願ってしまった。
それを諦める事など、気持ちを抑える事など、もう今のレイリオには出来なかったのだ。
そんな葛藤の中、エレナと呼ばれるこの少女との出会いはまさに天啓であったのかも知れない。
「跡取りである僕が、家業を継ぐのが嫌で家を出奔したと思われればガラート商会の信用に傷が付く事になるからね」
「駆け落ちという体裁なら傷は付かないと?」
「だからこそ相手によるのさ」
そう、だがらこそレイリオは街中にある噂を流していた……魔物によって滅ぼされた小国の貴族がこの街に流れ着いた、と。
だが今の大陸の状況ではこういった話は目を惹くほどの珍しい話では決してない……それだけのことなら大した噂になることなく消えていったかも知れない……だからこそレイリオは自分とその貴族の令嬢との恋の噂を同時に流したのだ。
全てを失ったとはいえ一度爵位を受けた貴族の令嬢と、街の名士であったも只の商人の息子でしかないレイリオとが結ばれることは本来なら決して無い。
そして結ばれる事のない恋人たちの悲恋は得てして大衆うけするもの……。
レイリオの予想通り噂は瞬く間に街中に広まった。
その時点でレイリオの計画の下地は出来ていたといえる……後は二人で街を出るだけで勝手に大衆が話しを作り上げてくれる事は想像に難しくは無い。
家を捨て愛に殉じた二人。
自ずと美化され脚色されていくだろう、この手の噂に概ね多くの者たちは好感を抱くであろうし、そうで無くても露骨に不快感示す者は少ないはずだ、とレイリオは確信を抱いていた。
その理由の中には当然エレナの容姿による効果も大きい。
この少女が相手ならば、と多くの者が納得してしまう程の魅力がこの少女にはあったのだから。
これで親子の不仲による出奔という汚名よりは幾分かましな理由を作れ、加えてそんな事実は初めから無いのだからこの国からお咎めを受けることも無い。
後の始末は父親であるノルトに丸投げしてしまう格好にはなるが、情報を扱う事に長けた父ならばぬかり無く上手く治めてくれると、そして商会の名を貶めず家を出れたのならばこの辺りが自分としての落とし所ではないか、とレイリオは考えていた。
「よく判らないけど、そういうもんなのかね……」
その事にさして興味が無いのか、エレナは一面に広がる水平線に瞳を向け眺めていた。
「もう少し、もっと近い理由で君の存在が必要だったということもあるよ」
「というと?」
「街を離れるとなると護衛は必要になるからね、かといってベナンで人を集めようとすれば必ず父の耳に入ることになる」
そうなればこうして簡単に南方行きの貿易船に紛れ込むことは出来なかっただろうことは想像に難しくなかった。
「なるほどね、ちゃんと考えてるんだ、随分性急だったから行き当たりばったりの行動だとばかり思ってたんだけど……」
「お褒めに預かり光栄ですよ、お嬢様」
そんなエレナの言葉におどけたように一礼してみせるレイリオ。
「それとこの先のことなんだけど、明日にはリドアの港に到着するからそこからは陸路で王都マルテナに向かうことになる。そしてマルテナから魔導船に乗れば一日足らずでオーランドの王都ライズワースに着けるはずだよ」
「魔導船か……」
エレナにとって懐かしい……いや忌まわしい記憶が蘇る。
魔導船とは魔法技術の粋の結晶ともいえる空を翔る飛行船。
エレナ自身、魔法力を使い飛んでいるという簡単な原理しか判ってはいなかったのだが、その建造には莫大な費用と時間が必要なことだけは知っていた。
魔女カテリーナ討伐にビエナート王国は虎の子の魔導船『グイレゴリウス』を投入し、中央域での激しい戦闘の末、魔物の大群のただ中に不時着する羽目に陥る。
その船に搭乗していたエレナが結果としてカテリーナを討つ事になるのだが、あの時の凄惨な光景は今も脳裏に焼きついて離れない。
あの災厄の折に各国が保有する魔導船の多くが戦場で破壊され小型船を含め現存する魔導船は今や大陸全土でも三十隻もないのではないかとすら言われている。
それ程にあの戦いは熾烈を極めたものだった。
「エレナは魔導船に乗った経験があるのかな?」
エレナの表情のちょっとした変化に気づいたレイリオが注意深くエレナを見つめる。
「いや……ないけど、そんな船に一般の人間が乗れるのかなと思って」
「ああ……この国が保有する魔導船は小型の輸送用のものだからね、一応は誰でも乗れることになってるんだよ、もっともとんでもない金額を払うことにはなるけどね」
「でもいいのか?俺の為のそんな大金を使って?」
「君の為じゃないさ、僕の新たな人生の始まりが北の大国オーランドというのも悪くないしね、それにその程度の金を惜しむほどこれからの僕の人生は安くはないよ」
その言葉に偽りは感じない……そんなレイリオをエレナは改めて見つめていた。
「あんた……いやレイリオ、君も大概面白い男だと思うよ」
エレナから初めて名前で呼ばれレイリオの胸が高鳴る。
何処か子供染みた、初心な少年の如く動揺してしまう自分の姿に羞恥が勝り、咄嗟にレイリオはエレナに背を向けてしまう。
「風も強いし、そろそろ船室に戻ろう。明日からは危険な陸路を行くのだし身体を休めておいた方がいいだろうしね」
少し上ずってしまった自分の声音に驚くレイリオ。
女性の扱いには慣れていたはずなのにエレナを相手にするとどうも勝手が狂ってしまう。
そんな自分に戸惑いながらも気恥ずかしさが込み上げ、船室に向かう自分の後ろをついてくるエレナの気配を知らず意識してしまうレイリオであった。
▼▼▼▼
――――それは泡沫の夢が如く。
その瞬間のことはよく覚えていない……あの時の事を思い出そうとするとまるで靄でも掛かったかのように情景が霞む。
それでも一つだけはっきりと目に焼きついて離れない光景があった。
俺の剣が彼女の首筋を凪ぐその一瞬。触れ合う程間近で見た彼女の表情を。
それは刹那の時。
最後の瞬間。
彼女は寂しそうに、それでいて少し困ったように笑ったように見えた。
深遠の魔女カテリーナ。
人々の憎悪とそして畏怖の象徴である彼女には似つかわしくない、ひどく違和感を感じさせるそんな表情をしていた事だけは今もはっきりと覚えている。
「アインス、そろそろ起きなさいな、英雄さん」
深く沈んでいた意識がその声に反応して覚醒を始める――――アインスの焦点の定まらない瞳が虚空を彷徨い、映し出すその視界には見知らぬ天井があった。
「此処は……」
寝かされていた寝台から身を起こそうとしてアインスは身を強張らせる。
混濁する意識の中にあっても直ぐに自身の異変に気づく……全身を襲う拭えぬ違和感は何かが異なる……などという生易しい感覚ですらなく、アインスは慌てて身を起こそうともがく。
「よしよし、魂の定着は上手くいったようね、やっぱり私は天才だわ」
己の意思に反してまるで思い通りに動かぬ身体と格闘を繰り返し、何とか寝かされていた寝台から上体だけを起こしたアインスは、不意に掛けられた声の方へと顔を向ける。
其処には見知った女性の姿があった。
「エリーゼ……これは一体どういう――――」
とても自分が発したとは思えない涼やかな可愛らしい少女の声音にアインスは驚きの余り思わず両手で自分の口を塞いでしまう。
「色々説明するのは正直、面倒くさいのよね……」
エリーゼはそう言うと事前に用意していたのであろう、自分の横に置いてある等身大の鏡台に被せていた布をとった。
エリーゼに促されるままに鏡へと目を向けたアインスの瞳には、寝台から上半身を起こしたままこちらを見つめる少女の姿が映る。
長い艶やかな黒髪に夜空を宿す神秘的な黒い瞳をした美しい少女は両手を自身の唇へと当て、驚いた様な表情を浮かべてアインスを見つめている。
「紹介するわ、その子の名前はエレナ。私が創造した最高傑作の魔法人形よ」
鏡に映るエレナと呼ばれた少女の姿に……鏡に映る己の姿に……アインスは言葉すら失ったかの様に呆然とソレを眺めていた。
驚きの余り固まっているアインスの姿に満足したのであろうか、自慢げに胸を反らせてみせるエリーゼ。
だがそんなエリーゼの様子などまったくアインスの視界には入ってはいなかった。
大陸に一般的に普及している魔法人形『マジック・ドール』とは魔法を用いて製造する文字通りの人形……だがあらゆる用途で活用されるそれらの定義は幅広い。
劣化防止の付加魔法『エンチャンタ』を施されただけの民芸品として売られている木彫りの人形から、擬似生命とさえ呼ばれる程の精巧な愛玩用の人形まで一括りでそう呼ばれる魔法人形たちは、だがその全てに置いて共通する点が一つだけ存在する。
酷く当然で、当たり前の常識として其処には魂などと言うモノを宿してはいないという点だ。
「つまり……今の俺の意識はこの人形の中に在るということなのか」
今だ混乱を脱せず理解の外にある現状を前にして、だがそれでもアインスは聞いておかねばならぬ事を口にする。
「その通り、飲み込みが早い子は好きよ」
嬉しげにその問いに答えるエリーゼにそんなことが可能なのか、とはアインスは聞かない……そういった質問をエリーゼが極端に嫌っている事をアインスは知っていたからだ。
起きている事象は事象として今はそれを受け止めるしかない……馬鹿な質問をして彼女の機嫌を損ねるのはこの状況では非常に不味い……。
と、アインスは咄嗟にそう判断する。
巷では賢者などと呼ばれ名を馳せている彼女の本性が、その名声とは掛け離れたものであることをアインスは短い付き合いではあったが身を持って良く知っていた。
そんなアインスの胸中で渦巻く葛藤など知らぬとばかりに、楽しげな様子を見せるエリーゼはテーブルに置かれていた紅茶が入った杯を手に取るとアインスに手渡す。
「飲んでみて」
と、杯を差し出すエリーゼの姿にあからさまな怪しさを感じていたアインスではあったが、此処は素直に従う事にする。
まさか毒など入っている訳ではないだろうな……。
などと、言葉には出せぬ悪態を付きながら小さな喉を鳴らして紅茶を飲むアインスの姿を楽しげに見つめるエリーゼ。
「どうかしら?」
「どうかしらって……普通の紅茶じゃないのか? 気になる点といえば正直冷めてて風味が消えてしまっているってことくらいかな……」
「実に興味深いわね」
「紅茶の感想がか?」
「…………」
一瞬エリーゼの目が可哀想な者を見る目つきに変わるが……アインスは敢えて気づかぬ振りを押し通す。
「魔法の知識に疎い貴方に理解するのは難しいとは思うけど、本来その子に味覚なんて存在してないのよ、いいえ、味覚だけじゃない……そもそも五感と呼ばれる感覚自体が備わってはいない筈なのよ」
エリーゼの視線は虚空へと移り、傾けられた美しき面差しには思慮深き聡明な賢者と呼ばれる女性の姿が其処にある。
「そう作らなかったんじゃない、そう作れないの、良く似せても所詮この子は只の人形に過ぎない……人を創造しうるのは神のみという事なのかしらね」
「正直良く分からないが、じゃあなんで俺は紅茶の味を感じるんだ?」
その質問に珍しくエリーゼが真顔を見せる……彼女のこうした表情は中々お目に掛かれるものではない。
「今の時点では貴方の魂を定着したことで何らかの影響を及ぼしているとしか言えないわ……もう少し観察してからじゃないとはっきりした事は分からないでしょうね」
まさか実験材料にされたのでは……などという不穏な考えが脳裏に浮かぶが、此処は話を逸らさずにそろそろ本題を切り出すべきだろう、とアインスは腹を決める。
「エリーゼ、俺の魂がお前の魔法でエレナという人形に宿ったというのは……まぁわかったよ。でもどうしてそうなったんだ……俺の身体は?」
本人はいたって真剣な面持ちで語っているのだが、傍から見れば少女が可愛らしく駄々を捏ねている図にも見えなくも無い。
「じゃあまぁ、蛇足になるけど」
と前置きし渋々といった態でエリーゼは語りだした。
あの死闘の折、少し遅れてその場に辿り着いたエリーゼが見たのは息絶えたカテリーナの傍らに倒れるアインスの姿であったという。
エリーゼ曰く、死に際のカテリーナから放たれた魔法は呪いとなり、周囲の空間そのものを蝕むその呪いの影響は最早手が付けられぬほどのモノだったとエリーゼは語る。
無論アインスにはその時の記憶は朧げで……だが急速に意識を刈り取られる何かが起きた、という事だけは微かに覚えがある。
魔女が残した最後の呪い。
正直それは相当に厄介な代物であったらしく、そのまま放置すればアインスの死に留まらず、新たな災厄の引き金になりかねないと判断したエリーゼの手によってアインスの身体ごと周囲の空間そのモノが封印された。
その際にアインスを救う為に禁忌に触れる禁呪を使用せざるを得なかった、とエリーゼは語るが、果たして禁呪などと呼ばれるほどの大魔法が何の事前準備もなく扱えるものなのだろうか、とアインスは疑念を抱く。
普通に考えれば理解に苦しむが、常識から逸脱したエリーゼならばこんな好機を逃す手はない、と考えても不思議な話ではない……。
自分がエリーゼの人体実験の道具として使われたのでは、という思いをアインスはどうしても拭う事が出来ずにいた。
「大分はしょったけどこんなところかしらね」
「…………」
「それで、呪いはいつ頃解けそうなんだ?」
その言葉に驚いたようにアインスを見つめるエリーゼ。
「貴方、私の話ちゃんと聞いてた? 解けないから封印したんじゃない、それに封印によって進行は遅れているけど、このままだと貴方の命ももって後二年てとこね」
あっさりと告げられた死の宣告に一瞬唖然とするアインス。
「魂の定着という魔法は一見、不老不死さえ可能にするほどの魅力的な魔法に見えるけど実は重大な欠点があるのよね……他の器に魂を移しても元の身体との繋がりは完全には切れないのよ、つまり本来の身体が死を迎えれば、繋がっている魂もまた消滅する。これは幾人かの研究者からの資料で実証済みなの、残念だけどね」
「つまり、俺に残された時間は残り短いという訳だ」
「そういう事になるわね」
「まぁ、仕方ないか……」
もう少し絶望すると思ったがエリーゼの予想に反して、驚いてはいるが決して我が身を悲観している様子はアインスからは見られない。
「安心しなさい、残りの余生は私がちゃんと観察……もとい面倒見てあげるから、貴方に不自由はさせないつもりよ」
「気持ちは在り難いけど、そういう事なら俺にはやりたいことがある」
自分を見つめるアインスに何を、とはエリーゼは聞かない。
「そう、なら好きに生きて見なさい、それを止めるつもりはないわ、ただ暫くはここに留まってその体に慣れておくことをお奨めするけどね」
そのエリーゼの奨めに異論は無い……いやむしろその必要性はアインスが一番感じていたかも知れない。
以前の身体とは何もかもが勝手が違う借り物の少女の細い華奢な身体に、アインスは意志の力を篭め、寝台から起き上がり一歩を踏み出す。
そして少女の身体で初めてアインスが経験した事は、踏み出し様よろめいて床と口づけを交わすという些か不本意なものであった。
▼▼▼▼
小高い丘。
周囲から隔絶されたようなその場所で一人、黒髪の少女は舞っていた。
それはまさに剣舞と呼ぶに相応しい、一切の無駄な動きを排したその動作には完成された美すら感じさせ、少女の肢体がリズムを刻み、流れる様な両腕から振るわれる双剣が虚空に軌跡を描いていく。
神の祝福の全てを体現したかの様な可憐で美しい少女の姿は、見る者の目を奪わずにはおかない魔性のような魅力を放っていた。
一連の型を終えたアインスは乱れた呼吸を整えるように大きく息を付くが、荒い息遣いと共に小さな肩が胸の鼓動に合わせて小刻みに震えている。
季節は巡り――――アインスがエリーゼの屋敷に滞在を始めてから三月が過ぎようとしていた。
当初、数週間程度は覚悟していたアインスが、その予定を大幅に遅らせてまで今尚エリーゼの屋敷に滞在していたのには相応の理由がある。
その原因はこの新しい身体――――。
違和感が多少は残るものの、歩行や動作などは数時間あればそれなりに慣れることが出来た……だがアインスが最も憂慮したのはその心肺能力の低さであった。
始めの数日などはちょっとした移動だけでも息切れを繰り返すほどに脆弱なこの身体ではまともに剣を握れるまでに多くの日数を必要とし、結果的にアインスは貴重な時間の大半を日常生活に支障がでぬ程度の体力作りの為に費やさねば羽目に陥っていたのだ。
平均的な女性の体力すら大きく下回る今のアインスの姿に流石のエリーゼも首を捻っていた。
エリーゼ曰く、恐らくアインスの魂と魔法人形であるエレナの身体との間で何らかの拒絶反応が現れているのでは無いか、という事であったのだが当面は様子を見るしか出来ないらしい。
そうなるとアインスに出来る事といえば単純ではあるが一つしか思い浮かばず、以前からそうしていたように、こうして日々の鍛錬を行っていた。
本来成長するという概念すら存在しない筈のこの身体に、人間と同様の鍛錬などは意味を成さない行為ではあるのかも知れないが、だが数日続けただけで明確に違いは現れ出していた。
それに手応えを感じたアインスはこうして日々鍛錬を重ねている……何よりアインス自身、初心を思い返すことでこの三ヶ月新たに得られたこともある。
呼吸を整えたアインスは双剣を鞘に収めるとゆっくりと背後を振り返る。
「気配を殺して現れるのは癖なのか、それとも魔法の類か」
忽然と背後に現れたエリーゼの姿にアインスは呆れたような表情を浮かべる。
だが問われたエリーゼはと言えば満面の笑みを浮かべてアインスをただ眺めているだけで、その問いに答える様子は見られない
「その剣、どうやら気に入って貰えたらしいわね」
エリーゼの言葉に釣られるようにアインスは腰の剣に視線を落とす。
その腰と背に吊られている剣は以前アインスが使っていたものとは異なっていた。
アインスの愛剣であった対の双剣『ダランテ』は大陸一の名匠と名高い人物の手による名剣ではあったが今のアインスには重量が勝ち過ぎまともに扱う事すら難しく、そこでエリーゼが宝物庫から引っ張りだしてきたのがこの二振りの長剣であった。
女性の体格に合わせて作られたであろうその長剣は精巧な細工が施された儀礼用の物ではあったが、実用に耐えうる業物であることは刀身を見ただけで直ぐに窺えるほどに見事な物である。
エリーゼはその名声もあり各国の王族とも親しい。
これらの剣は何かの折にそれぞれ贈られた物であったらしいが、持ってきた時の埃の被り様を見るにどうやら彼女の琴線に触れる代物ではなかったらしい事は間違いない。
「作者が違うからそれぞれ癖が違うけど、悪くない」
「そう、それは良かったわ」
何気ない動作で不意にアインスに手を伸ばしその頬に触れるエリーゼ。
「ひゃっ――――」
柔らかい手の感触にアインスは思わず少女らしい嬌声に似た声を洩らしてしまう。
「まぁ、可愛らしい」
そのアインスの姿にうっとりと愛でるような視線を送るエリーゼの姿に慌ててアインスが距離をとる。
「あんた……確か男嫌いじゃなかったのか」
「性別としての男性が嫌いな訳じゃないわ、ただ殿方のむさくるしい姿見が苦手なだけ……ねえアインス、今の貴方になら私の身体を預けても良くてよ」
エリーゼはアインスから見ても妙齢の美女……その彼女に迫られれば男である以上、正直悪い気はしない……しかし今はそんな気にはとてもなれない……いや余裕が無いと言い換えた方が適切だろうか。
「見た目で判断されるのは男の沽券に関わる問題だな」
「そうかしら、確かにエレナは私が求めた美の結晶……それが今は貴方の身体なんですもの、それに惹かれるのがおかしいとは思わないのだけど……それに貴方もその身体が女性として正常な反応を示すかどうか試して見たくはなくて?」
「いや……遠慮しておく、本当に……」
「そう、残念ね」
自分から不自然に距離をとっているアインスにエリーゼは不満げな眼差しを向け抗議の意志を示すが、しかしそれ以上何かを迫ろうとする様子は見られない。
「でもこれからは自分の見た目には常に注意を払いなさいな、貴方を見て惹かれない者はいない、男女の性別を問わずね、この先その事が貴方に幸運も不運も等しく齎すことになるでしょうから」
この予言めいたエリーゼの言葉をアインスは直ぐに痛感する事となるのだが、流石に神ならざる人の身であるアインスにその事は知る術は無かった。
それから後、三ヶ月――――実に半年という期間をアインスはエリーゼの元で過ごす事となる。
残された時間を考えればそれは決して短い期間とはいえない……だが事を急いて命を落としたのではまさに本末転倒……故にアインスもこれは必要な準備期間であったと納得していた。
そして旅立ちの日、アインスを館の外にまで見送りに出たエリーゼの姿があった。
「これが最後になるかも知れないから聞いておきたいことがあるのだけど」
その問いにアインスは頷いてみせる。
「英雄さん、世界を救った実感はあるのかしら」
唐突なその質問にアインスは戸惑う。
これは虚勢でも謙遜でもなく、そんな実感などアインスには有る筈も無い。
自分がカテリーナを討てたのは其処に至るまでに多くの者たちの命懸けの挺身があったからこそ……自分の手柄などと慢心したことなど一度も無い。
世界を救ったのはそれら人々の想いなのだから。
そうした思いが顔に出ていたのだろう、アインスを眺めていたエリーゼがそれを察したように短く嘆息する。
「無知とは罪なのかしらね、それとも救いなのかしら」
謎掛けの様なその問いにアインスは答えられない……そもそもエリーゼの意図する真意が理解できないでいた。
「まぁせいぜい、頑張って生きてみなさいな」
「世話になったな、エリーゼ」
半年もの間、共に過ごした男女の別れの言葉にしては些か味気ないものではあったが、それがアインスとエリーゼの別れの言葉となる。
遠ざかっていくアインスの背中を見つめるエリーゼ。
――――本当に世界を救おうとしていたのは果たして誰であったのかしらね、英雄さん……貴方はこの先その真実と向かい合うことになるでしょう……それが貴方が犯した罪への報いなのだから。
季節は移り変わり、冬の訪れを告げる冷たい秋風が二人の間を吹き抜けていく……一人はその背中を見つめ、一人は振り返ることなく道を進む。
二人の間の距離は離れていった。
「エレナ、エレナ!!」
掛けられたレイリオの声に我に返るエレナ。
「どうしたんだエレナ君らしくもない、本当に大丈夫なのかい?」
「ああ、少し考え事をしていただけだ、大丈夫」
いつものエレナらしくない姿に心配したような表情を浮かべるレイリオ。
しかし考えて見ればエレナはまだ若い娘……気の休まる暇もない旅の中でこうして気が緩む瞬間があってもおかしな事ではないとレイリオは考え直す。
「もうすぐ港に着くらしいから船を降りる準備をしておいた方がいい」
「わかった、有難う」
既に準備を終えていたレイリオは先に船室を出て甲板へと向かい、エレナはそれを見送ると自身もまた荷造りを始めるのであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます