205話

 さして広くも無い室内……格子の入った窓、飾り気の無い部屋の壁面には亀裂、と表現しても語弊はないであろうか、ひび割れが奔り、普段から清掃などはされてはいないのだろう事を思わせる室内のかび臭い、埃臭い空気は凡そ話し合いの場としては相応しくない、寧ろ倉庫、と言われた方がより自然な、そんなお世辞にも上等なとは言えぬ一室に置いて貧民街の顔役たちが一堂に会する会合が開かれていた。


 それでもまだ貧民街の中では比較的まし、とマリアンヌから事前に説明を受けていた事もあってかアニエスは整った眉を顰めはすれど不満を口にする様子は見られはしない……のだが、薄汚れた長テーブルを挟み同席する面々に向ける碧の美しい瞳には冷やかな、明確な侮蔑の色が宿っていた。


 他者を拒絶するかの様な氷絶が如く気配を漂わせるアニエスの気配を隣の席で嫌が応にも晒され続けている会合の立役者であり、進行役を務めるマリアンヌの額には知らず冷たい汗が滲んでいる。


 アニエスの憤りの……いや怒りの原因が決して不衛生な環境下に置かれた事への女性的な生理的嫌悪感からではない事くらいは付き合いが短いとは言え自身も貧民街と言う暗部に生き、また傭兵と云う種の人種を良く知るだけにマリアンヌにも誤解は無い。


 いや……寧ろその理由を正確に理解しているがゆえに一掃質が悪い、と、深刻な、と言うべきであろうか。


 決定的に場を壊す……決裂へと至るであろう道筋を此方側から、アニエスが自ら誘導しているに等しいこの状況を進行役として改善する一手を、マリアンヌ自身持ち得ていないがゆえに。


 こうした時、本来であればアニエスを諫め場を引き締め正せるであろう唯一の人物は、少女はこの場には居ない。


 会合の場に少女を、エレナを立ち会わせなかったマリアンヌの判断は悪意に寄らず純粋な配慮ゆえ……。


 大人の我欲の醜さを、まだ幼さすら残す純粋な少女に人が持つ醜い部分を、汚い部分を晒す事への罪悪感や伴う使命感……それらがない交ぜになった倫理観からのものではあったのだが……結果的にそれが負の方向へと流れる、と言うのは些か皮肉な話ではある。


 エレナ・ロゼとアニエス・アヴリーヌ。


 誰の目から見ても奇異な、奇妙な取り合わせであろう二人の関係性を真実、正確に見通せなかったマリアンヌを早計に非難する事は余りにも酷な話であり、なればこの流れは、この帰結は、或る種に置いて必然であったのだと言えるのかも知れない。


 「良い加減終わりにしようぜマリアンヌ、正直これ以上話し合っても時間の無駄だ」


 うんざりとした、と表現しても良いであろうか、何処か白けた場の雰囲気の中、顔役の一人の発言に居並ぶ者たちから異議を唱える者の姿は皆無であった。


 「避難なんてのは必要ねえってこった 王国と一戦交えてぇ連中は好きにすりゃあ良いし、そうじゃねぇ俺らは俺らで好きにやらせて貰うさ」

 

 別の顔役が賛同、とは些か異なりはするが同意を示す様に口を挟む。


 この場に集まった顔役たちは分派に寄って夫々に主張が異なる。


 評議会に協力して王国との戦いを望む者、中立を保ったまま静観を決め込み嵐が過ぎ去るのを待とうとする者、深い考えすら持たず混乱に乗じて利を得ようと考えている者……しかし考え方こそ三者三様ではあったが共通して一つの結論に至っている事だけは間違いない。


 「貧民街の住民の避難に男手は出せない、悪いけどな」


 更に言葉を続ける顔役の一人に誰一人反論を挟まぬのを見て取ったアニエスは無言のままに口元を歪める。


 其処には明確な蔑み……色濃く侮蔑の色が見える。


 「大体がよ……その態度がさっきから気に入らねぇんだよ姉ちゃん、最初から俺らを見下しやがって、手前は何様のつもりでいやがるんだ」


 アニエスが見せる態度への直接的な不満は総じて排他的な集団心理を呼び起こし、結果としてそよ者が訳知り顔で口を挟むな、と誰の表情からもソレは読み取れる程に意見の異なる顔役たちを悪い意味で団結させるまでに至っていた。


 「交渉は決裂、と取って良いのかしら」


 時折漏れ聞こえてくる自身への暴言とすら思える中傷すらもまるで意に介した風も無く冷やかなアニエスの問い掛けはまさに会合の、交渉の終わりを明確に示すモノであった。


 「み……皆さんもう少し冷静に、余りにも感情的になり過ぎてはいせんか? 重要な決断を短絡的な理由で決めてしまっては……」


 「良いのよマリアンヌ、エレナの手前交渉の席を持つ事には同意はしたけれど、所詮は頭の足りない野盗崩れのごろつき共に……野良犬に理を説いたところで詮無き事」


 なんとか話し合の継続を、と調停役を買って出たマリアンヌの合いの手をあろう事か交渉を求めていた側である筈のアニエスが遮る様に言を断ち切る。


 驚くマリアンヌを尻目にアニエスは席を立つ。


 「待ちなよ糞女……少し礼儀って奴を教えてやろうか」


 女一人に散々に小馬鹿にされ続けた男たちはアニエスの最後の捨て台詞に我慢の限界を迎えたのだろう……このまま黙って、大人しく帰すつもりは無いと数人の男たちが高圧的な態度でそれを示す。


 出口を塞ぐ様に荒々しく席を立った数人の顔役たちの怒声と表情に、アニエスの冷やかな眼差しはより深みを増す。


 「落ち着いて下さい皆さん!!」


 慌てて席を立ち仲裁に入るマリアンヌに、だが最早頭に血を昇らせた男たちの耳に制止の声は届いていないだろう事は明らかであった。


 顔役たち、とは言っても貧民街のソレは商工会や組合のモノとは根本からして異なるモノ、存在である。


 労働条件などに端を発する商会からの不法に立ち向かう為の労働組合の真似事……から始まり生きる為に寄り集まった集団の根底に流れるモノは、富める者たちへの鬱屈とした怒り。

 

 貧者であるがゆえに、弱者であるがゆえに、奪う事への呵責無き暴力を彼らは否定しない。


 貧民街が貧民街たる所以は貧しさ故が要因の全てでは無い……合法、非合法に寄らず己の主張を正当化する手段としての暴力を、最後は力に、暴力に頼るその在り様ゆえに、一般の者たちからは受け入れならざる異分子として隔離されていると言っても良い。


 「筋は通したわ、その上で協力を拒むのは其方の勝手、けれど私たちにも時間が無いのは話した通り……であれば此方も勝手に個別に交渉させて貰うだけよ」


 アニエスから発せられたのは提案では無く……通告。


 この期に及んでも尚、高圧的な態度を崩さぬアニエスの姿に事の成り行き静観していた一派の者たちのみならず、まさに指導、と言う名の暴力に訴えかけ様としていた男たちまでもがその不気味さに息を飲む。


 まさに時間の無駄ね……。


 アニエスの右手の五指がゆっくりと広げられ、女王の使徒たる不可視の鋼線が生き物が如く床を這い回る。


 皆殺しにしても良いけれど……後が面倒かしらね。


 アニエスは艶めかしいとすら感じさせる流し目をマリアンヌへと送り……だがその緑の瞳の先が見据えるのはマリアンヌ自身に在らず、この場に居ない少女へと向けられたモノ、であった。


 アニエスは感情の起伏が豊かな方の女性では無い。


 加えて恵まれた容姿ゆえに、知的で冷静な……この手の交渉事に長けた印象を周囲の者たちに与えはすれど、名誉の為に、と付け加えるならば本人が意図的に印象操作を行っていた訳では無いとは言え、真実のアニエス・アヴリーヌは絡め手の交渉事などはまさに不得手、と言っても良い。


 アニエスは思想に置いてエレナとは決定的に異なる部分を有している。


 この会合にしてもエレナがまず話し合いを、と譲らぬ姿勢を見せるがゆえにアニエスが譲歩したに過ぎない……はっきりと内心を吐露するならば、この手の男共に信や理を説いて協力を求めるなど……まさに時間の無駄だとアニエスは考えていた。


 はした金で呵責無く人すら殺める連中に道理を説いてなんになる……寧ろ交渉が纏まり協力を申し出られても何を持ってその約束を信用できると言うのか。


 この種の人間たちを利用するならば信や理では無く、もっと薄っぺらなモノで良い。


 単純に金や打算で十分なのだ。


 エレナ・ロゼ個人が有している資金は傭兵としては過ぎたモノであるだろう……しかし貧民街の住民の、女子供や老人たちだけに括ったとしても万に届こうかと言う人間たちを安全に送り届ける為の人員は最低でもその倍、いや三倍は必要となるだろう。


 良し悪しは置いても条件に見合う大の大人……成人男性をそれだけの数集めるともなればいくら貧民街の住民とは言えエレナ個人が賄える額ではない。

 

 だがそれはあくまでもエレナ個人であれば、と言う話である。


 エレナの協力者、と位置付けても良いだろう者たちには大手商会のカラートとロダックと言う二大商会がついている。


 エレナ自身が先じて望むかは別にしても、今のエレナ・ロゼならば両商会に金銭的な援助を頼む事に迷いは抱かぬであろうし、エレナに頼まれてレイリオ・ガラートやセイル・ロダックが両者の、各々の思惑は別にしてその申し出を断るとは到底思えない。


 であれば、資金的な制約が、問題が解決するのであれば、この場に居る連中に、組織としてすら纏まりに欠けるこの手の連中に、何もエレナが頭を下げる理由など有りはしない。


 事が全て上手く運んだとしてもエレナが真実望む結果は得られないだろう……どれ程にエレナが望もうが貧民街全体でも精々三分の一……いや、それ以下の住民たちを戦禍から遠ざけるのが良いところ。


 だが、とアニエスは思う。


 十分過ぎる……本当に充分過ぎる、と。


 理不尽に巻き込まれる女子供たちを救いたいと願うエレナの考えにはアニエスに否は無い……しかしエレナが金銭的な面の話だけではない……身や心をも削ってまで今己の前に立つ男たちの様なモノまでも救おうというのは到底理解が及ばない。


 断じて言うならば、価値が無い。


 押し付けの理想を掲げ戦禍を齎そうとする評議会の連中も、己で考える事すら放棄して張りぼての理想に縋る愚者たちも、この期に及んでまでも目先の利しか追えぬ醜悪な獣風情も……アニエスにとっては等しく同じ。


 エレナ・ロゼと言う純粋な輝きを汚す汚泥に過ぎない。


 己が全てを投げ出してまで差し伸ばされた小さな少女の手すら拒む輩など、勝手に死ねば良い、いや……害悪でしかないソレらなぞ一掃のこと……。


 ゆえにアニエスは初めからこの会合が纏まるなどと考えてはいなかったしアニエスにしても纏める気など有りはしなかったのだ。


 マリアンヌがエレナをこの場に同席させなかった事はまさにアニエスにとって都合が良い、求める状況であったと言っても良い。


 この先妙な横槍や邪魔をされるくらいならば立場をはっきりとさせた上で排除する、最悪でも邪魔をすればどうなるかを示し躾けて置かねばならない。


 今にも掴みかかって、襲い掛かって来る様子を見せる男たちを眼前にアニエスは誘う様に誘う様にゆっくりとその右手を掲げた。






会合の場となった貧民街の一角からは少し離れた街角に物乞い然とした一つの姿が路上に座る。


 薄汚れた外套で覆われたその姿は貧民街では珍しいモノですらなく、時折前を通り過ぎる者たちも誰一人気に留める様子を見せる者は居ない。


 「あんたの読み通り、交渉は決裂しましたぜ」


 当然、と呼ぶには気配を殺す様子すらなく近づいて来た男に頭上から声を掛けられ、物乞い風の男……いや男では無いであろう事は外套からは望む事が叶わぬ容貌は置いても、僅かに男を見上げた頭部からはらり、と一部除いた長い金髪が、身なりとは大凡似つかわしくない美しい金髪が、何より性別を物語っている。


 「御苦労様でした」


 と、短く答える女に、男は、会合に参加していた顔役の一人は青ざめた顔で小刻みに首を振る。


 「上手く誘導して下されたのでしょう? 感謝致します」


 答えぬ男に女はクスリ、と嗤う。


 それは透る様な、だがゾクリ、と背筋が凍る様な、そんな嫌な声音であった。


 女の声音に呼び起こされた様に、会合の席で起きた騒動を……刃傷沙汰、と簡単に現すには惨たらしい惨劇を思い出し、男は口元を手で押さえ一掃に表情を歪ませる。


 「と……兎に角、約束は果たしてくれるんだろうな?」


 「勿論ですとも、手配は既に終わっていますので今からでもお越し頂ければお渡しできるかと」


 交渉を決裂させる様に秘密裡に頼まれていた男は、その実、実際は何もする必要すらなかった内情までは女には語らない。


 結果として女が望む成果を齎したのだから敢えて此方が不利になる情報など与える必要などないのだ。


 七番倉庫に、と口にする女に埠頭での労働に従事する労働者たちを束ねていた男はすぐにぴん、と来る。


 港の倉庫街……中でも七番倉庫の所有者が誰の……どの商会が所有する倉庫なのか、を。


 「王国との正義の戦……わたくし共も及ばずながら応援させて頂きますわ」


 女の声に男は敢えて答えず詮索もしない。


 評議会と共にこの地に新たな秩序を築く……なればこそ負けられぬこの戦……しかし評議会から義勇兵に対して無償で貸し出され支給される武装では明らかに数も、そして質も足りてはいなかったのだ。


 それとこれ以上彼女たちへの干渉は不要。


 と、警告の意味を込めて付け加え掛けた女は、だがそれを口に出す事は無かった。


 男の表情を見れば自ずと知れる、それが無用な忠告である、と。


 早々と立ち去る男を見送る女は、だがその場を離れる素振りは見られない。


 半刻と待たず別の男が女の前へと姿を見せる……その光景が如実に、はっきりと、女の待ち人が一人では無かった事を物語っていた。


 「御苦労様でした」


 先程と寸分違わぬ女の言葉。


 そして男の……会合に参加していた顔役の青ざめた表情もまた同じ。


 「望み通り交渉は決裂した……ちゃんと俺たちは約束を果たしたぞ……だからそっちも約束通り……いや、二言は無いんだろうな!!」


 先程の男より遥かに余裕の無い男の表情や言動に、女はまたクスリ、と嗤う。


 先程よりも深くより楽し気に。


 「勿論ですとも、ご安心下さいませ、王国は寛大な慈悲の心で貴方の罪を許されるでしょう」


 しかるに王国への忠義を示す事が何よりも重要です。


 と、囁き掛ける女に男は青ざめた表情のままオウム返しの如く頷いて見せる。


 「あの方も貴方の働きに期待しておられる事をどうか忘れになりませぬように」


 女の言葉に先日引き合わされた王国の貴族、なのだろう男の姿を思い浮かべ、男は身震いする様に身を引き締める。


 それと、と女は先程と同じ忠告を……だが今度ははっきりと口にする。


 彼女たちにこれ以上の干渉は不要、と。


 女が態々念を押さねばならぬ理由……それは難しくも無く至って単純な理屈。


 同じ表情を、同様の表情を見せてはいてもよりどちらが間抜け、かと言えば女の目にもそれは明らかであったからだ。


 木偶人形が如く何度となく頷く男の姿に、滑稽さに女は愉悦を隠すことなく見えぬ口元からはクスクス、と嫌な嗤いが漏れ聞こえ……。


 男が立ち去り、その姿が街路から消えても尚、女の楽し気な嘲笑が街から消え去る事は無かった。


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