206話

 富める者も貧しき者も、力持つ者たちも、力持たざる者たちも、不条理な理の……不合理な世界の円環の中に生きる者たちにはそれでも等しく与えられた、等しく平等な『権利』……いや、視えざる『制約』は存在する。


 望むと望まざるとに関わらず、流れ往く時の奔流は全ての想いを飲み込んで……此処シャリアテの街に今、戦禍の狼煙が上がろうとしていた。


 運命の日、日は高く昇り少女の見上げた中天には青々と澄み切った群青の空が広がりを見せていた。


 王国が示した期限の、期日が過ぎ去り迎えた開戦の刻、それでも空は刻み続ける時の中、穏やかな、変らぬ日常の一片を見せつけるが如きその光景は……まるでこの地に住まう人の愚かしさを嘲笑うにも似て……それは無常さやある種の滑稽さをもすら感じさせるモノであった。


 「望み多き事は罪ではない……じゃが欲深き者の末路は得てして悲惨なモノ、と相場が決まっておる、主は良くやった……ゆえにこれ以上余り望み過ぎぬ事じゃ」


 空を、いや……その先の何かを見据えているが如く佇む少女に、魔法士であろう特有の身なりの老人が声を掛けて来る。


 実に魔法士らしい言い回しで慰労とも忠告ともつかぬ言葉を投げ掛けて来る老人に、少女は……エレナは寂しそうに、しかし異を唱える事もなく黙って微笑んで見せた。


 肯定とも否定ともとれるエレナの態度を前に、老人……フルブライトは何とも言えぬ感慨を胸中に抱く。

 

 エレナは以前己を評する際に、自分は人の痛みが分からぬ欠陥品だ、と自虐的に述べた事があると言う。


 アインス・ベルトナーと言う英雄を、個を、良く知るフルブライトだからこそ、その発言が、自己分析が、酷く的外れである事を知っている。


 曰くアインス・ベルトナーは人として、人間として凡庸な青年であった。


 剣に才は無く、知に見識浅く、政に柔軟さを欠く、一見して酷い評価の様にも思えるが、人と云う種の大半の者たちがそうであるが故に例えて平凡、凡夫……つまり特筆する点など見当たらぬ、欠陥品と評すには余りにも普通の若者であった。


 そんな普通の若者を時代が、運命が、一人の英雄へと作り変えたのだ。


 理念、思想、使命……そして何よりも名誉、名声を妄執的にすら求め続けた若者の……そう生きねば為らなかった人生がフルブライトには余りにも不憫であり憐れでならない。


 人の痛みが分からぬのでは無い……己すら欺き続け分からぬ振りを通さねば進み続ける、歩み続ける事が出来なかったのだろう、その半生に。


 或るは人の持つ醜さを、清らかさを、強靭さを、脆さを、色濃く内に秘めた青年であったがゆえに、カテリーナもエリーゼも初めは些細な好奇心や興味からアインス・ベルトナーという個に対して関心を抱いたのでは無いか、と同じ魔法士としてフルブライトは思う。


 その後に置いて両者が向ける愛情がどの様な経緯から育まれたモノであるかは世俗に疎いフルブライトには合点の往く論拠など示せる道理も無いのだが、齢百歳に近い己より遥かに年長であった両才女もまた魔法士であると同時に一人の女性であった、と推察するべきであろうか。


 とは言え、自分を今尚、友と呼ぶこの青年を、少女を決して嫌えぬからゆえにこそ、己もまたこの場に居る事を考えれば類は友を、という様に自身に返る刃に無用な邪推は必要ないのであろう、とフルブライトは胸中で苦笑する。


 「マリアンヌさんと子供たちは無事出立を開始しましたが、予想よりも集まった数が多く……順調に推移しても日中の内に全体の撤退を完了するのは難しい状況です」


 両陣営に対して交戦の意思は無い、と加担する事を否定しているエレナは当初からシャリアテからの離脱を明言している。


 ゆえに今、貧民街の住民たち、協会関係者そして傭兵たち、と雑多な人種が犇めく正門前の広場にはエレナを始めその関係者たちもまた一堂に会していた。


 「会合での交渉が決裂したって聞いた時は正直覚悟していたが、こうして多くの人間が集まったのは悪い面ばかりじゃないだろ」


 アイラの言をクロイルが引き取る様に重ねるが、この場に置いてその発言に賛同を示す者は少ない。


 騎士であり貴族でもあるクロイルはどちらかと言えばエレナ寄りの価値観を、考え方を持っている、と言っても良い。


 しかしこの場に居る他の面々は、と言えば……レイリオの意を汲むアイラや魔法士たるフルブライト……何よりアニエスなどは寄り鮮明に異なる心情を有しているのは疑い様も無い。


 彼らにとって一番に憂慮せねばならぬのはエレナの身の安全であり、エレナを街から、戦火から遠ざける術として、方便として、貧民街の住民たちの撤退に助力しているに過ぎず、その行為の前提にあるモノは決して善意やら慈愛やらとは掛け離れた打算的なモノ。


 貧民街の住民とは云わばエレナ・ロゼの付属品。


 建前を取り払えばそれが正味の、偽らざる本心と言えようか。


 思う以上に、予想を超えて付属品が増え過ぎたゆえに、当のエレナの撤収が戦火を交えようとする日中に間に合わぬともなれば、彼らにして見ればまさに本末転倒と言わざるを得なかったのだ。


 アイラにしてもアニエスにしても、会合の決裂後に何ら顔役たちからの妨害行動が無かった点に僅かな違和感を抱きはしたが、アニエスが示した通りより大きな暴力に対して萎縮した、と捉えるならば、さもあらん、といった程度の認識しか彼らの存在に持ち得ていなかった事も誤算に拍車を掛ける結果に繋がった、とも言えようか。


 無論エレナを前にしてそんな本心を吐露出来る者など居る筈も無く……アニエスですら力説するクロイルに対して冷ややかな眼差しを向けこそすれ異論を差し挟む様子は見られない。


 「エレナ嬢、ウチの連中の大半を先発させちまって本当に良かったのか?」


 「ええ勿論です 此処連日の都市外での大規模な人の動向に魔物たちがどう反応するか未知数な部分が多い上に、受け入れ先である赤銅騎士団の陣営の様子も伝わって来ない現状では、シャリアテ随一の傭兵団である鋼の鎖の皆さんのお力だけが頼りですから」


 偽りなど見られぬエレナの眼差しを向けられ、鋼の鎖の団長であるルーザーは何とも言えぬ表情で頭を掻く。


 契約上の雇い主であるレイリオ・ガラートからはエレナ・ロゼの護衛を第一に、と厳に念を押されていた手前、団員の大半を対象者から遠ざける選択など本来ならば有り得ぬ筈の選択なのだが……言葉こそ柔らかく、強要とは掛け離れたエレナの言動や態度とは裏腹に其処には威圧とは質の異なる……だが断れぬ程のナニか、が確かに存在し……。


 ルーザーはアイラに目線を送るが、意を挟まぬアイラの姿勢を目にした事で腹を決める。


 代理権限を持つアイラが異を唱えぬのであれば断る道理はないであろう、と。


 エレナを中心としてこの場にはアニエス、アイラ、クロイル、フルブライト、そしてルーザーを筆頭とした鋼の鎖の団員たち、加えてシャリアテを離れたセイル・ロダックがエレナの助力の為に選別した鉄の輪の団員たち。


 シャリアテの二大傭兵団である鋼の鎖と鉄の輪。


 総員では無いゆえに数でこそ百にも満たぬ少数の集団ではあったが、シャリアテに置いてエレナ・ロゼを中心とした第三極……今や王国、評議会に次ぐ第三勢力が形成されていた事だけは疑い様も無い。


 協会の全面的な協力もあり、協会の指示の下、傭兵たちや係員たちが身振り手振りで、時には怒声を交えて開け放たれた正門へと人々を誘導していく。


 まったく混乱が無い、といえば嘘にはなるが今が戦時下という事を踏まえるならばその歩みは順調、と評しても過言ではないであろう。


 「アイラさんも早めに街を離れて下さい」


 「エレナ様も決してご無理だけは……」


 受け入れ先である赤銅騎士団との交渉役としてアイラの存在は不可欠であろう事は言うまでも無く、また自身が荒事に対して無力な存在である事を自覚しているアイラは只一言だけエレナに告げる。


 「直ぐに私も後を追いますから」


 と、エレナはアイラに微笑んで見せる。


 始まるであろう湾内での評議会と王国の海戦……南北両端に位置する正門とシャリアテ港の位置関係や距離を考えても、直ぐに王国の兵がこの場に押し寄せる事は考え難い。


 だが最悪……例え王国に刃を向ける結果になろうともこの正門を死守せねばならぬ以上、自分がこの門をくぐるのは最後の一人となった時、とエレナは決めている。


 遥か彼方から小さく……だが確かに響き出す銅鑼の音。


 周囲の喧騒の中、幻聴では無くはっきりとエレナは耳にする。


 厳しい眼差しで振り返るエレナの視界の先、遥か群青の空に無数に開戦を知らせる狼煙が立ち昇るのであった。

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