191話


 人の気配が絶えた林道に一人、戦鎧を纏い双剣を構え佇む少女の姿を……この場をもし他者が目撃したならば異様に映ったかも知れない……しかし感の良い者、或いは武芸に携わる者であったならば気づいたであろか、少女を中心として森の生物たちすらも怯えたかの様に息を殺し、虫の音すら途絶えた異常なその光景に……。


 少女……エレナの射抜く様な眼差しの先、周囲に人の気配も姿も存在してはいない……だが右手の手甲にまざまざと刻まれた白刃の爪跡が見えざる襲撃者の存在を何よりも如実に証明していた。


 大陸の動乱期、権謀術数、数多の策謀、陰謀の渦中にあって数え切れぬほどの暗殺者たちと邂逅し対峙してきたエレナにして、存在を確信して尚認識できぬほどの高度な隠形術の使い手と渡り合った経験はこれまで一度も無い。


 「やはり大陸は広い」


 エレナの白い頬を流れる赤き血の一筋が珠となって地面へと落ち――――その声音には緊張感と同等の高揚感すら感じさせる響きを帯びていた。


 その技術や技能がどれ程に血に塗れ闇が深かろうと、極めた者に対する尊敬や畏敬の念をエレナは抱かずにはおれない……それは聖人君子ではない一己の人間として、剣に捧げてきた人生故に己が最強たらんとする剣士の業ゆえか、未だ見ぬ強者の存在はエレナの心を湧き立たせる。


 嘗てアンリと共に夢見た先……見果てぬ世界、まだ見ぬ強者の存在を連想させずにはおれない見えざる襲撃者を前に、エレナの脳裏に過去の記憶が過去視と共に濁流の如く押し寄せる――――がそれも一瞬、戦いの場に身を置き、自己の存在を強く認識している今のエレナにはそれは瞬きほどの泡沫の夢……一切の柵や思惑を、己の立場や使命すら越えて生と死の狭間で交わされる闘争の場にエレナは身を委ねる様にゆっくりと瞼を閉じていく。


 同時にエレナの下げられた両腕が交差し双剣と一対に斜め十字を虚空に象る。


 静寂と呼ぶには余りにも張り詰めた空気の中、瞳を閉じ双剣を構え佇むエレナの周囲には生ある者の存在は皆無――――しかし一瞬の間、静から動へ……しなやかにその身を反転させたエレナの両の手から放たれた神速の残光が流星の如き残滓を虚空に刻む。


 刀身すら霞ませ奔るエルマリュートの刃先が無人の虚空で何かに阻まれた様に激しい金属音を伴い蒼い火花を散らし――――対と成り奔るアル・カラミスからの手ごたえにエレナは両の瞼を開く。


 エレナの一刀の間合いの先、開かれた視界には短刀でエルマリュートを、赤錆で変色した歪な手甲でアル・カラミスの刃先を受ける陽炎の如き存在を映し出す。


 瞬間、飛び退くでもなく、まるで滑る様にエレナの剣戟の間合いから身を退いて行く影の存在を前にエレナは追撃に身を動かす事も無くその姿を目で追ってゆく。


 その影の正体は黒いぼろぼろの外套で全身を隠し、僅かに覗く両腕は素肌を窺う事すら出来ぬ奇怪な形を象る籠手で隠され……なによりも異様なのはひび割れた白き仮面に覆われたその相貌であろうか。

 性別すら判断がつかぬその姿……だが仮面から覗く蒼い双眸だけは妖しく輝く様に真っ直ぐとエレナの姿を見据えていた。


 姿を捉えた襲撃者を前にエレナは知らず口元を緩ませる。


 楽しげに微笑む可憐な少女の微笑は見る者の心を奪わずにはおかない……それほどに美しく魅惑的な表情ではあったが、この場の状況を考えれば余りにも不釣合いな、似つかわしくないモノである事は否めず、エレナ・ロゼという少女の本質に触れた事の無い者たちが見れば或るいは余り美しさ故に戦慄し恐怖を覚えたかも知れない。


 エレナの斬撃は鋼鉄すら凌ぐ硬度を有すると言われる魔物の外皮すら容易く断ち切る……それを人の身で凌ぐという事の意味を、その高度な技術を、エレナは己の剣への自負と誇りゆえに誰よりも良く知っている。


 自分の命を狙う者を前に抱く感情としては甚だ不謹慎な……我ながら呆れはするが心が浮き立つような高揚感を抑える事がエレナにはどうしても難しかった。


 エレナと距離を置き対峙する影は右手の短刀を逆手に持つと胸元にまで掲げ――――エレナの視界の先、まるでひと時の幻であったかの様に、その存在が希薄なモノへと変化していく。


 エレナが一度はっきりと意識し視覚で捉えながら、また眼前にも関わらず再度に渡り認識をずらされ存在を消失しようとしている……それがどれほどの技術かなど最早語るまでもないであろう。


 その不可思議、不可解とも云える信じ難い光景を前にエレナの両腕がゆっくりと胸元で交差し眼前に正十字を象る。


 エレナの黒い瞳に宿るのは純粋な尊敬と賞賛――――だが同時にそれは自身の全力を持って応えるというエレナの意思表示でもあった。


 次の攻防が両者の勝敗を、命運を別つ――――それを確信させる何かが、言葉などでは言い表せぬ当事者のみが……互いが感じ合う気配が其処には確かに存在していた。


 だが両者の決着がこの場で着くことは無かった。


 エレナの耳に遠くから近づいてくる複数の馬蹄の音が聞こえ……同時に視界から消失していた気配が自分から遠ざかって行く気配を感覚で悟る。


 エレナは直ぐにそれが自分とクラウディアを追い駆けてきた青銅騎士団の騎士たちであろうと気づくが、襲撃者が去り自身を襲う危機が去って尚、その表情は何処か冴えぬものであった。


 自分を……いや、クラウディアの身を案じ後を追ってきた彼らの行為を無粋な、などと断じてしまうことが酷な事は理解はしていても、最高の瞬間に水を差されたとエレナが落胆にも似た複雑な心境を覚えてしまう事は、その気質を鑑みても無理からぬ事ではあったのかも知れない。


 だがそれも束の間、近づく馬群を視界に映す頃にはこの現状をどう説明しようかとはたとエレナは悩む……事を荒立てる気など毛頭無いエレナにして見れば、まさかクラウディアに刺客を差し向けられました、などと説明する訳にもいかず、さりとて上手い弁明など咄嗟に思い付く筈もなくそんな事を思い悩む内に馬上のローレンスたちがエレナの眼前へと遣って来てしまっていた。


 その段に至りエレナはようやく気づく――――自分も身を隠してしまえば良かったのだ、と。


 だがそれも後の祭り、そんな機会などとうに逃していた。


 「エレナ殿……これは一体……」


 既に双剣は鞘に収めていたとは云え、額から血を流し佇むエレナの姿に、馬上からローレンスの緊張を孕んだ声がエレナへと掛けられ……。


 「ば……馬車からうっかり転落してしまいまして……」


 と引き攣った笑顔で答えるエレナの姿にローレンを始め青銅騎士団の騎士たちの表情が固まる。


 「クラウディア殿はいかがされたのですか?」


 「恥ずかしさが先に立ちまして……心配して頂いたのですがこの場で別れました」


 笑顔で語るエレナとは対象的にローレンスたちに安堵の気配などは当然なく、真剣な面持ちでローレンスはフェリドへと目配せを送り、小さく頷いたフェリドが数名の騎士と共に林道の先へと馬を走らせて行く。


 事の経緯は不明であっても何かが起きた事だけは間違いない……そう感じ取ったローレンスがクラウディアの安否の確認を優先させたのであろう事はエレナでなくても容易く察する事が出来た。


 元より無理は承知……だがこうなればもう押し通すしかない、とエレナは笑顔の裏で覚悟を決める。


 「エレナ・ロゼ殿……我らは袂を別ったとは云え決して相容れぬ敵同士ではない……そう理解しています」


 ローレンスは困った様な、言い難いそうな表情を浮かべながらも、一つ大きく息を付き馬上からエレナへと手を差し伸べる。


 「傷の手当もありましょうし、万が一があっては困りますので御送り致します」


 全てを察していた訳ではないのだろうが、少なくともエレナがこの場でクラウディアを害そうとした筈は無い、と信じている様子のローレンスの態度にエレナは感謝の言葉を述べその手を取る。


 単純だとアニエスあたりには叱られるかも知れないが、こんな状況にも関わらずローレンスの自分を尊重してくれる態度を目にして好感を抱かぬ方が難しい。


 「有難う……騎士殿」


 自分の腰に小さな両腕が回され、耳元で囁かれるエレナの……少女の感謝の言葉以上に魅惑的な声音にローレンスは抑えきれぬ胸の高鳴りを覚えてしまう。


 まだまだ自分も修行が足りない……。


 そんな場違いな事を内心思いながらもローレンスは馬体を極力揺らさぬ様、慎重に手綱を引きながら馬を走らせるのであった。



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