188話


 王国への独立宣言から翌日、新たに発足した評議会から幾つもの法令の改正法が公布されシャリアテの人々の間での話題を攫う中、それに隠れる様に色街の住人たちをざわめかせる一報が同時に齎されていた。


 高級娼館『エラル・エデル』の解体。


 或る意味当然の帰結であった筈の評議会の決定に対して、此処まで色街の住人たちが驚きと動揺を示したのには相応の理由がある。


 支配人であるラザレス・オールマンの陰謀と企みの数々が露見し、当人の死亡が評議会から公表された事で、解体も止む無し、と言う見方が大勢を占める一方で、クライディア・メイズが役職こそ持たないが、今や評議会の掲げる自由と平等の象徴として扱われている状況を鑑みて、クラウディア主導の新体制で新たな建て直しが行われるのではないか、と言う噂もまた同時に広まっていたのだ。


 そうした錯綜する思惑や噂の中、齎された王者の失墜は君臨する者なき色街に生じるであろう、新たな混沌と……そして同じだけの期待を住人たちに予見させ皆は一様に息を呑む。


 宙に浮く事となる『エラル・エデル』の数多の美姫たちの争奪戦を始め、それらに伴う勢力争いに費やされるであろう莫大な金は新たな職や雇用を生み出し結果的には色街全体を活気付かせるのではないか、と。


 多くに者たちは不安と同じだけの期待を抱き、先の未来の理想ではなく今の生活を送る為に、彼らは慎重に……だが乗り遅れぬ様にと注意深く今後の動静を固唾を呑んで見守っていた。



 そんな色街の話題の中心に……渦中にあると言っても良い高級娼館『ラ・レクシル』の支配人室には、組合の代表の一人として評議会との会合に参加していたミランダ・ミーゼルの姿があった。


 「少しお休みになられた方が宜しいのでは?」


 城内で宿泊したとはいえ、状況を考えても気など休まらなかったであろう、ミランダの体調を心配する副支配人の男にミランダは笑い掛け、問題はない、と示す様に軽く片手を振る。


 「しかし……戻られてからも働き詰めでは流石にお身体に障ります」


 「心配を掛けて済まないとは思うけど、片付けて置きたい事が多くてね……」


 と、ミランダは苦笑を浮かべた。


 ラザレスの失脚で組合の執行部を纏める筆頭理事となったミランダは、必然的に評議会との交渉の窓口として重要な立場に就いていた……しかし今ミランダが忙殺されている案件は評議会絡みの問題だけではなかった。


 ミランダの脳裏にこの世の者とは思えぬ程の美しき美姫の姿が浮かぶ。


 全体の会合とは別に行われた個別の交渉の席で傾国傾城の美姫クラウディア・メイズは或る提案をミランダに持ち掛けていた――――それはミランダが組合の意見を束ね評議会への支持を正式に公表する事。


 その対価としてクラウディアは現在自分が所有している『エラル・エデル』の土地建物の権利の譲渡と働く娼婦たちの優先的な斡旋をミランダに提示した……それが何を示唆する事なのかを分からぬミランダではない……つまりそれは事実上『ラ・レクシル』が『エラル・エデル』を完全に併合する事を意味している。


 法令に基づき執行される『エラル・エデル』の全ての財産は評議会へと押収される事とはなるが、大きな騒乱を引き起こしたであろう陰謀を未然に防いだ最大の功労者として免罪され、特赦の一つとして土地と建物の権利だけは自分に残されたと微笑むクラウディアの姿を思い返し、ミランダの背筋にはまた冷たい汗が流れる。


 本当であるならばラザレスの共犯者として死罪は免れなかったであろうクラウディアは、身内同然に扱われていたラザレスを密告同然に告発した事で罪に問われなかったばかりか、その功績を認められ今では評議会にその身を置いている……しかも今度はその評議会の為に己に残された最後の私財すら投げ出そうとしているのだ。


 ミランダにはクラウディアの矛盾すら抱える行動の真意が読み切れず……ゆえに底知れぬ畏怖にも似た感情をクラウディアに抱いていた事は否めない。


 自由と平等などという理念にもしクラウディアが真実、その身の全てを捧げるつもりだとしたら……それは最早、神に全てを捧げる殉教者たちと同じ世捨て人と変わらない……しかしだからこそ……損得や利害を越えたクラウディアからの提示はミランダにとって余りにも魅力的なモノあった事もまた事実であった。


 『エラル・エデル』を併合すればミランダの夢は実現する……己の力と才覚でラザレスを……『エラル・エデル』を追い落として色街に名を成すという野望は果たせずに終わる事にはなるが、結果として辿り着く先が同じであるのならミランダに迷いなどある筈もない。


 ミランダ自身、既に気づいていたのだ……その場でクラウディアの申し出を受けなかったのは、考える猶予を欲していた訳ではなく、足を踏み出す為の理由づけに僅かな時間を必要としていただけであったのだ、と。







 「組合への工作は順調に進んでいるのだな」


 「はい……快く協力して下さる御方が……間違いなく御力を貸して頂けるかと」


 一糸纏わぬ女性の背に回していた男の手がその黄金の髪を撫で、女性もまた男の胸に頬を埋めて瞳を閉じる――――繁華街の一角、高級宿の一室の寝台で寄り添う男女間の愛の語らいと言うには甚だ不釣合いな会話が其処では交わされていた。


 「商工会の方は?」


 「残念ですが商人の方々の説得は難しいかも知れません……」


 正味の話、評議会と組合、商工会との交渉は左程難航していた訳ではない。


 今後もこの街で生活を、商いをしていく以上は、互いに一定の利益を共有する……或る種の共存関係にある両者が決定的な決裂を迎える結末を避けようとするのは当然で……始めから考え難い話。


 ゆえに両者の間で話し合われていたのはお互いに出し合った条件に折り合いを付る為、時に譲歩し、時に譲らず、妥協点を探し合う……いわば作業の様なモノ……時間こそ掛かるが、それは評議会側にとって困難な道程であった訳では決して無い。


 ――――只一つ、両者の間を隔てる大きな難題を除いては。


 評議会が望む協力体制の明文化――――しかし国内外にそれを示してしまえば、それは評議会の掲げる思想を容認している事と同義であり、王国の制裁の対象となる事は疑い様も無い。


 ゆえに各国の都市や街に本店や支店を構える商人たちが大きな不利益を被ってまでも評議会に肩入れする事など有り得ぬ話ではあったのだ。


 評議会側も当然そうした事情が分からぬ筈もなく、王国からの独立を宣言した評議会に対して中立の立場を崩さずに水面下の協力を約束する事は出来ても、商人たちの寄合組織である商工会が正式に評議会の支持を表明する事は現実的には不可能であろうと言う見方が大勢を占めていた。




 男は名残惜しそうに女性の髪を撫でる手を止めると徐に寝台から立ち上がり、床に乱雑に散らばっていた己の服を手に取ると着替え始める……しかし女性の方は男が居なくなった寝台から上体を起こしはするが動く様子は見られない。


 「住民たちで構成される組合が評議会の支持に回るのならばそれで良しとするべきだろうな……クラウディア……これでお前の望み通り協会が評議会を支持する為の良い追い風となるだろう」


 着替えを終えた男から発せられたその一言に、クラウディアは、はっ、と男を見つめ感涙の涙を流さんばかりに声を揺るわせ頭を下げる。


 「協会がこの『エラル・エデル』の支持を表明すれば王国とて早々無茶な真似も出来まいし、傭兵たちを扱い易くなれば騎士団の負担も軽減できよう」


 「これも全て導師様の御尽力のお陰……感謝の言葉も御座いません」


 男……フリスト・バルトロメイは、高位の魔法士にしか許されぬ金糸と銀糸が編み込まれた法衣を纏うと、テーブルに置かれていた協会の象徴であるカラグナを模した銀の首飾りを首へと掛ける。


 「今更確認するまでもない事ではあるが、クラウディア……此方からの条件は全て受け入れる……そう理解していて良いのだろうな?」


 「はい……勿論で御座います」


 と、微笑むクラウディアにフリストは歩みを寄せるとその耳元で幾人かの者たちの名を囁き――――まるで世間話の続きであるかの様にこう続ける。


 反対派の主要な面々であるので其方で対処して置くように、と。


 微笑を崩す事すらなく従順に頷くクラウディアの姿に満足したのだろうか、フリストは屈み込みクラウディアの形の良い唇に口付けすると一人部屋を後にする。


 部屋に残されたクラウディアもまた寝台から立ち上がろうと足を床へと付けた刹那――――よろめく様に床へと倒れ込み激しく咳き込み始める。


 己の両の手を真っ赤に鮮血で染め上げ、吐血するクラウディアの流す血が床に滴り赤い染みを作り上げていく。


 短くない時間クラウディアの発作は続き……白き己の裸体を自らの血で染めて……しかしクラウディアが最初に心配したのは宿に迷惑を掛けてしまった、という罪悪感であった。


 発作の頻度と症状からも自分に残された時間がもう幾許も無い事を悟るクラウディア。


 「叔父様……クラウディアももう直ぐ其方に参ります……ですがもう少し……後少しだけ私に時間を与えて下さい……」


 クラウディアにはまだ成して置かねばならぬ事があった……想いを託すグランデル子爵には背負わせてはならぬ業があった……まだ此処で倒れる訳には往かなかったのだ。


 クラウディアが天を仰ぎ願う相手が己が直接その手に掛け殺めた者である事は、知らぬ者たちが目にすれば皮肉の極みであったのかも知れない。


 だが真実、クラウディアの想いを理解していたのはラザレスだけであり、クラウディアには他に縋れる相手など存在してはいなかった。

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