187話


 翌朝、今だ戻らぬ主の帰りを家人たちが待つガラート商会の敷地から、静かに一台の馬車が通りへと消えていく――――朝日が照らす街並みの街路には人の姿は無く、車道を走る馬車の前方や後方にも他の馬車の影は見られない。


 美しい朝焼けの空の下、目的地へと向かい走る馬車の窓からそれを眺めるエレナと同行しているアニエス、フルブライトの姿がある。


 エレナたちを乗せた馬車が幾つかの通りが交差する交差路や、主要な大通りに差し掛かると、その要所要所には必ず青銅騎士団の立哨の姿が、通りを巡回している小隊の姿が見られ、誰何され馬車を止められる事こそ無かったものの、今シャリアテの街には厳重な警戒態勢が敷かれている事を窺わせていた。

 

 やがて馬車は商業区画とシャリアテ港とのほぼ中間に位置する或る商会の敷地の前にまで遣って来ると御者は手綱を引き馬車を止める。


 恐らくは周辺の通りの状況にまで監視の目を付けていたのだろう、馬車が止まると直ぐに商会の裏手から姿を見せた警備の者たち……傭兵然とした複数の男たちが取り囲む様に馬車の下へと遣って来る。


 胡乱げな眼差しを御者へと向け近づく男の一人に馬車の小窓を空けて声を掛けたエレナの姿を目にした男は硬直した様にその場に固まる。


 男の瞳にありありと浮かぶ賛美と恐れ。


 その反応が男たち……『鉄の輪』の傭兵たちがエレナ・ロゼと言う人間を認識している事と同時に、抱いている感情をも如実に現していた。


 端的に訪問の意思を伝えるエレナに対して男はお待ち下さい、とだけ短く告げると商会の入口へと姿を消していく。

 残された男たちが遠巻きに馬車を見守る奇妙な沈黙と空気の中、直ぐに戻ってきた男は御者に一言声を掛け馬車を裏手へと誘導する。


 エレナたちは今、ロダック商会へと遣ってきていた。


 まだ朝方の……それも予期せぬ突然の訪問であった筈にも関わらず、案内された私室で待っていたセイルは身なりを整えた紳士然とした姿でエレナたちを出迎えていた。


 「嬉しいよエレナちゃん、君の方から逢いに来てくれるなんてね」


 「いいえセイルさん……御迷惑とそして尽力頂いた私の方が感謝の意を示す為にも足を運ぶのは当然の事……本当に有難う御座いました」


 そう深々と頭を下げるエレナにセイルは少し照れ臭そうに鼻を掻く仕草を見せ、頭を上げる様にエレナを促す。


 今セイルの私室にはセイル本人とそしてエレナたち三人の姿しかなく、普段ならば影の様にセイルの身近くに従う『鉄の輪』の傭兵たちの姿はこの場には無い。


 それが如何に異例な事なのかはセイル・ロダックと言う男の人となりを良く知る者たちならば目を剥いて驚いた事であろう……慎重で用心深いセイルが例え女と老人の前であろうとも帯剣した者を一人で出迎え、まして傍に寄せるなど想像すら付かぬ姿であったであろうから。


 「それでエレナちゃん、態々こうして私に逢いに来てくれたのは直接それを伝えたかった……だけなのかな?」


 友好的な笑みを崩さずセイルはエレナたちに席を勧める。


 テーブルに用意されていた杯は三つ……それは前回とは違い、エレナ以外の二人に対しても客として接する、と言うセイルの意思が暗に示されていた。


 「セイルさん、貴方に商談の話があります」


 セイルに促され席へと着いたエレナは余談を挟む事なく本題を口にした。


 そのエレナの言葉にほうっ、と驚いた仕草を見せるセイルではあったが、口元に浮かべる笑みはそのままに僅かに細められた瞳に宿る輝きは鋭さを増している。


 「好意や信頼という感情は商談の席に置いては有効な武器になる……エレナちゃんがそれを利用しようとするのは至極当然で交渉事とはかくあるべき、とすら思ってもいる……けれど、それだけで全てが纏まるほど商人の世界は単純ではないという事も理解して貰えていると嬉しいのだけれどね」


 求めるのならばそれに見合うだけの見返りが必要、と問うセイルにエレナは短く、だが迷う事なく一言で告げる。


 貴方を大陸全土に名を残す大商人にしましょう――――と。


 生じた沈黙の中、自分を見つめる黒い瞳を逸らす事なく真っ直ぐに見据えたまま、セイルはエレナを促す様に手の平を無言で翳す。


 「このままではこの街が辿る事になる末路を貴方も予期している筈……でももし血を流さず、彼らの理想を潰えさせる事もなく、貴方に莫大な利益を齎す方法があるとしたらどうしますか?」


 「そんな都合の良い、魔法染みた話が本気であると?」


 頷くエレナの姿にセイルは懐疑的な眼差しを向ける。


 確かにこの街の命運は既に尽きている……しかし商工会としてならばまだまだ十分な利益を上げられる機会は多く残されてもいた。


 難破船から逃げ出す者たちを尻目に悠々と積まれたその財宝を手にする機会を……それを棒に振ってまで得られる物……この少女が語った夢物語をこの場でセイルが信じられる筈もなかった。


 「王国への再度の帰順を示し、希望者を集って……望む者たちを連れて新たな土地に移住する」


 エレナの言葉に促される様にフルブライトは懐から大陸の地図を取り出すとテーブルへと広げる。


 エレナの細い指が地図の上をなぞり或る一点を指し示す。


 「ラテーヌ地方……」


 エレナの指の動きを追っていたセイルの瞳が見開かれ驚きの声が漏れる。


 オーランド王国地方領――――ラテーヌ。


 中央域との国境を接するラテーヌ地方は動乱期、ベルサリア王国との戦いにおいて激戦地となった土地である……しかし災厄以降は中央域との近しい距離ゆえに見捨てられ今は人が住めぬ土地となっていた。


 「ラテーヌ地方には、当時の大戦の爪跡が深く残るあの地には、捨てられた城砦も多く残されている……そうだよね爺さん?」


 「だのう、そしてこのラテーヌは嘗て争奪戦が繰り広げられるほど、争いが絶えぬほどに恵まれた鉱山資源を持つ土地であった……特に」


 と、魔導船技師として鉱石の鉱脈に詳しいフルブライトは地図の北西の山脈を指で指す。


 「この辺りにはまだまだ多くの魔石が眠っている可能性が高いのう」


 枯渇する資源が大きな問題と、課題となっている今の大陸にあって、新たな鉱石と魔石の資源確保が仮に可能となるならば、その発掘と流通に携わる事に寄る利益はそれこそ莫大なモノとなる。

 それはロダック商会がこれまで積み上げてきた財すらも越えるほどの利益を生み出すと言っても過言ではないかも知れない。


 「ラテーヌ地方への移住ならば王国も流刑として国内外への示しもつくだろうし、何より内陸部の新たなる開拓が急務であるのは王国も同じ筈……例え彼らが彼の地で死に絶えたとしても見せしめとしての意味を果たす事になり、もしも彼らが内陸部で生き残れる環境を構築できたなら、それは新たな一歩を踏み出す可能性にもなる……難しい交渉にはなるとは思うけど王国側にも譲歩の余地はあると思う」


 「なるほど、では仮に全ての交渉が上手く行ったとしてあの地に人が住めぬという根本的な要因はどう解決するつもりなのかな?」


 ラテーヌ地方には天災とすら呼ばれ、畏怖の象徴とされる上級位危険種が数多生息していると言われている……この辺りとは比較にならぬ程に高位の魔物たちが跋扈する土地で非力な人間たちがどうやって生き残るのか……それが大きな問題である事は間違いない。


 「目的の山脈に近い堅牢な城砦を使えば修繕は必要だとしても生活の場は確保出来る筈……そして彼らの進む道に魔物が立ち塞がるというのなら、彼らの想いを、その理想を潰えさせなどしない……奪わせなどしない……その全てを私が狩り尽くす」


 エレナの黒い瞳に宿る輝きに、その余りの美しさにセイルは魅入られた様に息を呑む。


 だが、とセイルは思考する。


 例え荒唐無稽としか思えぬエレナの言葉を全て信じたとしても、魔導船を使った輸送の確保などに必要なそれら多くの費用は、初期投資となる資金は、セイル個人の資産では賄えぬほどの額になる事は間違いない。


 何よりそれ以前にグランデル子爵を説得し王国との交渉を纏め、その上で民衆の同意を得ねばならないエレナが示す構想の前提条件は余りにも至難の道であり、到底可能であるとはセイルには思えなかった。


 「今の時点ではその話に乗る事は出来ない、済まないねエレナちゃん」


 その明確なセイルの拒絶の言葉にもエレナには失望した、動揺した様子は見られない。


 「分かっています、だから今は貴方が私に抱く好意を……いいえ、私の身を救い出してまで得ようとした思惑を利用させて下さい……一介の傭兵でしかない私がグランデル子爵と話せる道筋を付けて貰いたんです」


 「勿論その程度の協力なら構わない、けれど当然それにも見返りは必要だと理解した上での言葉だと受け取っても良いんだね」


 頷くエレナにセイルは満足そうに手を差し伸べる。


 「嬉しいよエレナちゃん、レイリオ君ではなく私を選んでくれて」


 その言葉に差し伸べられたセイルの手を取ろうとしたエレナの手が僅かにだが一瞬止まる――――それは刹那の瞬間……それに気づいた者は誰もいなかった。


 「聡明なエレナちゃんなら気づいているとは思うけど、此処まで周到に時間を掛けて計画されたこの離反劇の結末をグランデル子爵……いや、あの傾国傾城の美姫が予想していなかったとは思えない」


 「まだ次の一手が残されていると?」


 「この劇を悲劇や喜劇で終わらせぬ為の何か隠し玉を持っていると考えて臨んだ方が良い、と私は思うがね」


 何処までが計算の上であったのかは分からないが、セイルにはクラウディアに対して思うところは当然残っていた。


 結果として良いようにクラウディアに利用されたセイルとしてはエレナに協力する事で意趣返しをしたいという考えが無かったと言えば嘘になる。


 だがそうした感情論は別に置いても、クラウディア・メイズの打算を排した行動や思想には読み切れぬゆえに何をするか分からぬ恐ろしさをセイルは感じていた。


 「それでも話し合う機会が今はどうしても必要です」


 王国が完全に方針を定めてしまえば全ては手遅れとなってしまう……全てが終わってしまわぬ前にどうしても今動かねばならなかったのだ。


 同じ理想を抱き願う者だからこそ話して置かねばならぬ想いがエレナにはある……例え分かり合えぬとしても伝えねばならない言葉があった。


 罪なき者たちに犠牲を強いる道の先に救いなどないという事を……。

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