178話   


 「気に入らないな」


 アニエスからの報告を受け、テーブルに置かれたクラウディアからの書簡を前にして、セイルは一言端的にそう述べた。


 レイリオの私室で事態の行方を見届けながら状況に対処する為に集まっていた面々もセイルに追従こそしないものの、黙して語らぬのは決して否定的な意見を持つからではない事は各々の表情からもそれが窺える。


 「お膳立てが過ぎる……余りにも出来過ぎた話だね」


 レイリオにしては珍しく歯切れの悪い物言いは内に秘めた葛藤の深さゆえであろうか、迷いが窺えるその表情には何時もの冴えは見られない。


 レイリオやセイルがクラウディアの提案に難色を示すもの無理からぬ事で、問題なのは此方にはクラウディアの提案という名の誘いに乗る以外の選択肢が無いという点にあった。


 巧妙な罠と言う物は何も完全に相手を欺く為に用意された周到な計画だけを指す言葉ではない……罠と知りつつも乗らざるを得ない状況を作り出す事もまた然り。

 

 無論これがそうした類のモノなのか、この事でクラウディアが得られるであろう利益が分からぬ以上、今の段階であれやこれやと邪推して見たところで時間の無駄である事などは皆も承知している。


 尻尾に火が付いている鼠は此方だという事に。


 「ニコラスたちからの連絡は?」


 「『エラル・エデル』に張り付かせている連中からはまだ何も」


 セイルの警護の為にこの場に同席していたジルバンは短く端的に答える。


 「エレナの身柄の確保を最優先に、クラウディアという女性の案を採用させて貰おう、もし証拠が入手できたなら同時進行でも構わないだろうしね」


 「問題になるのはそのグランデル子爵という方が本当に噂通りの人物かという点なのですが」


 「いやアイラちゃん、その心配ならば無用だよ、あの石頭は本物の堅物だからね」


 セイルはアイラの憂慮を杞憂だと否定して見せる。


 それは当然根拠に基づく物であり、ロダック商会とグランデル子爵の間には浅からぬ……いや、深からぬ因縁が存在していた。


 このシャリアテで三大商会の一つ、ロダック商会の支店を任されているセイルは今矢面に挙げられているハイラムを始めとした有力な貴族たちとの繋がりを持っている。

 それら貴族たちと知己を得る方法は様々あれど、その中でもやはり最も効果がある鼻薬は金、である。


 セイルが必要経費としてばら撒いたそれら貴族たちへの賄賂は莫大な額に上り……だがその賄賂を頑なに受け取らぬ者たちもいた。


 それがグランデル子爵とその家門の貴族たちである。


 手を変え品を変えてセイルが贈った賄賂の数々を受け取らぬ処か、気遣い無用、などと直筆の書面を送りつけてくる辺り、どういった意図かは別にして中々に皮肉が効いていると感心してしまったほどであったのだ。


 クラウディアという存在を排して考えた時、この書簡を誰に託すかと請われれば、セイルの脳裏に一番に浮かんだであろう人物がこのグレゴリウス・グランデルであった事は間違い無い。


 「アイラ、済まないが今から書簡を携えて子爵の邸宅に向かい、今日中にエレナの身柄を保護出来るように事を進めて欲しい……金で動かない男なら情に訴えてもいい、説得する為の手段は問わない……だから任せたよ」


 「では特別区画の通行証はうちの物を使うと良い、それとグランデル家に近しい貴族に口利きを頼んで置こう、少なくともこれですんなりと面会の約束は取り付けられる筈だ」


 それとアイラちゃんに警護の人間を付けてあげなさい、と告げるセイルにジルバンは廊下で待機していた数人の男たちにセイルの言葉をそのまま伝える。


 お任せ下さい、と書簡を懐へと仕舞い部屋を後にするアイラ。

 廊下を歩くアイラの背後を数人の男たちが続くように姿を消して行った。


 「クレストは憲兵隊の支部に赴いて子爵の許可を取り付け次第、エレナの身柄の保護を」


 「承知致しました、レイリオ様」


 「アニエスは最悪の場合、エレナの身柄を確保して欲しい」


 「分かったわ」


 夫々が与えられた役割を果たす為部屋を後にしていく。


 エレナが拘束されてから三日目。


 時間的な猶予の限界を見定めたレイリオは最悪の事態に備え、アニエスとエレナの逃走経路の確保と船の手配を始め、セイルもまたジルバンに幾つもの指示を出している。


 だが二人が見せる晴れぬ表情が、共通して抱いているだろう、ある種の確信が、霧深き道を歩むが如き不安を抱かせるのだ。


 自分たちは重要な何かを見落としている、と。


 全てを紐解く鍵を、この謎合わせを解く為に必要な欠片を、自分たちは手にしてはいないという事に。





 ギッ……ギィィィィィッ……。


 監獄の鉄の扉が錆びついた音を立てながら開かれる。


 小用を済ませ戻った男の視界に、鉄の格子の外に簡易的に用意していた長椅子の背凭れに体重を預け、小さな丸テーブルに両足を乗せて寛いでいる相方の背中が映る。


 「おいっ!!」


 と、苛立った声を上げる男にも相方の男は反応を見せない。


 ちっ、と舌打ちし、居眠りを決め込んでいる相方の男の下へと踏み出しかけた男の足が不意に止まる。


 突如天啓が如く男の耳元で囁かれた悪魔の誘惑は、鬱屈した男の欲望に激しい炎を燃え上がらせ理性の箍を外させる。

 

 足音を立てぬ様に気配を忍ばせ、男は壁に掛けられていた鉄格子の鍵を手に取ると、その横に置かれた棚から液体の入った瓶を残る手で握る。


 男は相方の男に注意を払いながらも躊躇う様子も見せず鉄格子を開き、自らは牢の内へと身を忍ばせてから鉄の格子の隙間に手を回し外側の錠を掛ける。


 鍵を持つ自分が牢の内側にいる事で例え相方の男が目を覚ましても、もう手出しは出来ない……その優越感が男の感情をより高ぶらせ、色濃くその口元を歪めた男がエレナの前へと立つと、力なくうな垂れるその頭に顔を寄せるようにしゃがみ込む。


 「全てを認めれば開放してやる……楽にしてやるぞ」


 エレナの黒髪から覗く小さな耳元に男は顔を寄せ。息を吹き掛けるように囁く。

 

 耳に触れるその感覚にエレナは身を震わせ、ジャリッ……と手首を拘束している手枷から伝わる振動で鎖が軋み音を立てる。


 「話すことは……何もありません……水……水を……頂け……ません……か……」


 掠れたエレナの声に男は嫌な笑みを浮かべ嗤う。


 そうだ……この女は何も喋らない。


 拘留してからもう三日……個別の尋問に余りにも時間を浪費し過ぎていた、このままではいつ第三者の介入があるか分からないそんな状況の中、男もまた追い込まれていたのだ。

 もしこの違法な尋問を知られたら、もしこの女が口を開いたら、自分たちは……主であるバッフェルト男爵は身の破滅。


 殺さなければならない、今此処でこの女を……もう時間切れなのだ。


 滾る欲望の捌け口を求めるその思考は、最早矛盾を覚えぬほどに男の理性を失わせていた。


 男はエレナの顎を掴み上を向かせると、蓋を開けた瓶を小さな唇に押しつげ液体を流し込もうとするが、唇を結び抵抗の意思を示すエレナは顔を背けようと抗い、身体を揺らし、激しく擦れ合う鎖の音のみが牢の薄闇の中木霊する。


 此処まで投薬を続けてきたこの少女が、これだけの量を時間を空けず再度投与されれば間違いなく自我を崩壊させ廃人になるだろうと男は知っていた。


 それで構わない。


 後はゆっくりと少女の身体を貪り尽くし、最後にその首を刎ねてやろう、と。


 自我を失い快楽に支配されれば恐怖を抱く事なく死ねるのだからこの少女も幸せであろう、と。


 これは少女に慈悲を与える為の行いなのだ、と歪み壊れた妄想に取り憑かれた男は、少女の予期せぬ抵抗に激しい苛立ちを覚える。


 普段であれば二人掛りで一人が少女の鼻を塞ぎ、息苦しさに開かれた口を押さえ、もう一人が薬を流し込む。そんな容易い行為であっても一人でそれを行おうとすれば難しい……まして対象が抵抗しているのだから尚更だ。


 血走った眼差しをエレナに向けたまま男は一度エレナの顎を掴む手を離し、怒りのままに拳を握り締め振り上げる。


 瞬間――――男の視界の隅に何かが映り込む。


 其処に在るのは無機質な壁。


 壁――――。


 人間の脳とは、視覚情報とは、認識出来なければ無いモノと同じ……居ない者と同じ。


 はっ、と息を飲み込む男の首筋に刹那、鈍い痛みが奔り、男の振り上げられていた右手がゆっくりと喉元へと触れる。


 指先に触れる濡れた血の感触……だがそれはほんの掠り傷。



 「うがあああああっ……!!」


 男は突如叫び声を上げ床へと崩れ落ち、のたうち回る。

 

 まるで地獄の業火に焼かれているが如く己の両手の爪で喉を掻き毟り、その瞳から血の涙を垂れ流し、血の泡を吹く男の顔色は見る間に土気色へと変貌を遂げていく。

 身の内を焼き鏝で抉られているかの様な激痛に、男は救いを求める様に牢の外に居る相方の男へと眼差しを送る。


 ――――カクッ、と壊れた人形そのままに男に背を向けたまま、だが己の背にぶら下がる様に、有り得ぬ角度まで首を捻じ曲げた相方の男の、白目をむいた表情を血に染まる赤き視界に映し、男もまた絶望の中で事切れる。


 ピクッ……ピクッ、と時折身体を跳ねさせる男の死体の前に立つ人影……今のエレナの虚ろな視界ではそれが男なのか、女なのか、性別すら判別できない。


 人影はエレナの存在に関心を示す素振りすら見せず床に落ちていた鍵を拾い上げると鉄の格子を開け放ち、通路の闇へと消えていった。





 「まったく……俺は何時までこんな雑務を……」


 バッフェルトは己の執務室で一人愚痴をこぼす。


 下らぬ愚民どもの座り込みの対処と後始末、妙に増えた別件の残務処理……他者からの目を気にするバッフェルトはこの二日、まともに地下の監獄での尋問に立ち会う事が出来ずにいた。


 やはり殺してしまおう。


 この段に至りバッフェルトは己の判断に後悔を覚えていた。


 三日という拘留期限を経て、明日には審問官の立会いが行われる……それは規則を遵守させねばならぬ立場であるバッフェルトには拒絶が難しく、色々と口実や期限延長の言い訳を考えては見たものの、そう易々と上手い理由など思い浮かぶ筈もなく……正直、面倒になってしまったのだ。


 当初、簡単に事は済むと高を括っていたバッフェルトにとって予想外に長引いてしまった今の現状が想定外であったことは間違いない。

 しかし心中でそう思いながらも己の支部の地下牢であるという、何時でも殺せるという安堵感ゆえかバッフェルトには危機感を抱いているという様子は余り見られなかった。


 既にバッフェルトの視界の隅、部屋の窓からは夕日が沈み掛けている。


 「担当した被疑者が不審死なとど末代までの恥……ではあるが、そうも言ってもおられぬか」


 と、腹を決め席を立とうとしたバッフェルトの正面、執務室の扉が荒々しく開け放たれる。



 「失礼いたします」


 と、一礼してから室内へと姿を見せた黒い礼服を着こなす初老の紳士の登場に、バッフェルトは呆気にとられ言葉を失っていたが、続いて姿を見せた男を前にその目を見開く。


 「これはローレンス卿……随分と騒々しいご登場ですな」


 「黙れ、この糞野郎」


 烈火の如く怒りに満ちた眼差しをバッフェルトへと向け、凡そ貴族らしからぬ物言いを口にするまだ二十代前半であろう若き騎士の名は。


 ローレンス・アルヘルム男爵。


 青銅騎士団の大隊長を務める純貴族の姿が其処にあった。


 「事前に約束も取らずこの様に押し掛けるなど若さゆえとは言え、些か無作法

が過ぎますぞ」


 この若造め、とバッフェルトの目がローレンスを睨む。


 「貴様が尋問している娘御をさっさと此方に引き渡せ……バッフェルト、貴様からも後で話を聞かせて貰うからな」


 自分の言葉を完全に無視して話を進めるローレンスに、突然の出来事に状況を理解出来ていなかったバッフェルトも流石に事態の異変を察する。


 開け放たれた扉の外に待機している者たちが憲兵隊員ではなく、青銅騎士団の騎士たちである事に気づいたバッフェルトの表情が見る間に青ざめていく。


 「き……騎士団が司法に口を挟むなど……越権行為ですぞ……この様な無法、直ぐにハイラム様に御注進せねばなりませんな」


 「ハイラム・マーモットは最早司法議会には関わり無き人物、近衛騎士長でもない、といえばお前の足りない頭でも事態が理解できるか」


 ずかずかとバッフェルトの下にまで歩み寄ったローレンスは右手でバッフェルトの襟首を掴み上げると右腕一本で持ち上げる。


 つま先まで宙に浮くバッフェルトの身体。


 「ぎゃーぎゃー騒いでねえでさっさと案内しろ、いいなこのクソ鼠が」


 長身とはいえ細身にすら見えるローレンスの凄まじい腕力に、締め上げられ息の出来ぬバッフェルトは瞳に涙を滲ませながら何度も頷く。


 ローレンスはその襟首を掴んだままバッフェルトを引き摺り部屋を出て行き、黒服の紳士……クレストもその後に続く。


 その光景に騎士たちはと言えば、ローレンスの直情的な性格を嫌と言うほど知っている彼らは、一様に苦笑を浮かべるのであった。



 地下の牢獄の開け放たれた鉄の扉の先、二人の男の変死体を前にバッフェルトは驚きの余りその場にしゃがみ込み、ローレンスたち騎士たちもその異様さに言葉を失う。


 しかしそれも一瞬。


 開いた鉄の格子の先に両手を拘束されたまま鎖に繫がれた少女の姿を目にしたローレンスは怒りを爆発させる。


 座り込むバッフェルトの顔面にローレンスの右の拳が突き刺さり、折れた前歯が宙を飛ぶ。


 「護るべき、か弱き女性に対してなんたる所業……断じて許せん、この程度では済まさんぞ!!」


 怒りの余り声を震わせるローレンスは顔面を両手で押さえ、潰れた蛙が如き悲鳴を上げて蹲るバッフェルトへと一歩詰め寄り――――二人の間にクレストが割って入る。


 クレスト殿、と足を止めたローレンスが不審げな表情を浮かべるが、クレストはそのままバッフェルトの下へと身を寄せる。


 「バッフェルト様、鍵はどちらに?」


 無論それがエレナを拘束する手枷の鍵である事をこの場に置いて理解出来ぬ筈も無く、バッフェルトは驚く程素直に置かれた棚を指差した。


 有難う御座います、と慇懃に頭を下げ、そしてすれ違い際バッフェルトの耳元でクレストは何かを囁く。


 驚き顔を上げるバッフェルトと穏やかな表情を崩さぬクレストの眼差しが交差し――――。


 「ひぃぃぃぃぃぃっ!!」


 狂った様に叫び出したバッフェルトは壁際へと這いずる様に逃げ出すと、頭を抱えて震え出す。


 二人の様子を窺っていたローレンスは尋常ではない怯えた姿を見せるバッフェルトと、クレストの背中を交互に見やり、ゾクリ、と冷たい震えが全身に奔るのを感じるのであった。



 拘束を解かれたエレナの身体を毛布で包み、クレストが抱き上げる。


 意識はあるのだろうが、数日、水もまともな食事すら与えられずに投薬を続けられていたエレナには、今や視界に映る人物が誰であるのかすら認識出来ぬほどに意識は混濁し身体は衰弱していた。


 だが自分を抱き上げる人物が誰なのかは分からずとも、その温かな気配にエレナは大丈夫、と安心させ様と微笑んで見せる。


 「遅くなり……本当に申し訳御座いません……」


 そんな強く……そして健気なエレナの姿にクレストは言葉すら失い、ただ一言、それだけを口にする事しか出来なかった。


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