179話
牢獄から救い出されたエレナの身柄はグランデル子爵に預けられ、青銅騎士団の庇護下へと移された。これはハイラム・マーモット子爵と領主オベリン・シャウール伯爵、両者の失脚と更迭の公表を派兵の後へと先延ばしを決定した司法議会の思惑が働いたモノではあったが、結果として同日に覚悟の自害を遂げたラザレス・オールドマンの策謀の数々もまた表に出す事が出来ぬ為に対外上、今だ未解決の大量殺人事件の生き証人としての立場にあるエレナを憲兵隊の権限の外へと置く為にグランデル子爵が用いた苦肉の策であった。
だが無論の事それは形式上の話であり、開放されたエレナの身柄は直ぐにガラート商会へと運ばれ、現在は医師の治療を受けている。
「セイル様の御尽力なくばエレナ様の救出は困難を極めていただろう、と我が主レイリオ・ガラードも申しておりました……レイリオを始め我ら家人一同、此度セイル様から受けた恩義を決して忘れる事は御座いません」
夜の帳が下りた薄闇の中、商会の入口までセイルを見送りに出ていたアイラは、セイルに対して深々と腰を折る。
「いやいや、それは逆だなアイラちゃん、私の、エレナの為に君たちは良く協力してくれたと感謝をしていたのは寧ろ此方の方なのだよ」
にこやかな微笑みを絶やさぬアイラと不敵な笑みを浮かべるセイルはしばし無言で見つめ合う。
「時にアイラちゃん、この店は君が任される事になっていると聞き及んでいるのだが事実なのかね?」
「左様で御座います」
既に改装を終えた『フィアル・ロゼ』の外装を街路灯が照らし出し、それに視線を向けていたセイルはアイラへと眼差しを戻す。
「ガラート商会とは奇縁で結ばれた縁ではあるが、私はこれを良縁としたいと考えていてね……同じこの地で商うを行う者として今後競い合う事もあろうが、さりとて親の敵同士という訳でもあるまいし、それが良好な関係を築いくことの障害にはならぬと私は考えているのだが」
などと遠回しに長々と語り、
「ついてはまず、親睦の意味を兼ねて今度一緒に食事でも如何かなアイラちゃん」
と本題を切り出す。
「セイル様の様な方に教えを教授して頂く機会を私の様な若輩者が断る理由が御座いません……ご指導ご鞭撻の程よろしくお願いいたします」
迷い無く逡巡すらぜず、教科書通りの解答を返すアイラの言葉には、男女間の関係までの発展すら匂わせるセイルの誘いをきっぱりと拒絶する、あくまでも商売上のお付き合いでなら、と言う言い回しにセイルは渋い表情を見せるが、一筋縄ではいかぬ相手と見たのか、ではまた後日、と此処はあっさりと退いた。
正面に着けていた馬車にセイルとジルバンが乗り込み、走り出した馬車が通りの闇へと姿を消しても尚、闇夜の中、車輪の音がその耳に届かなくなるまでアイラは腰を折り頭を下げたまま、セイルを見送る姿勢を崩す事はなかった。
ガラート商会の二階、客間の一室の扉が開かれ、中から年配の女性医師が姿を見せると、扉の外の廊下でエレナの容態を見守っていたレイリオが女性医師の下へと駆け寄り、主の後方に控えるクレストの、廊下の壁に身を預け腕を組んで立つアニエスの、全ての視線が女性医師へと集まりその言葉に耳を傾ける。
「大分身体は衰弱していますが、命の危険はないでしょう」
自分に集中する視線に無論気づいている女性医師は、まず始めにこの場の全員が抱いているであろう最大の不安を払拭させる為に端的にそう述べた。
女性医師の言葉にほっと胸を撫で下ろすレイリオ。
クレストやアニエスは余り感情を表に現す種の人間では無い為にレイリオほどに表情を変える事はなかったが、張り詰めていたこの場の空気が緩んでいた事だけは間違いない。
それと、と女性医師は言葉を続ける。
このシャリアテは小さな港町に見られる医師不足などという問題とは無縁の大都市であり、医学を修得した多くの医師たちもまた多数存在している。
ましてガラート商会と言えば女性医師も耳にした事がある大手の商会の一つ……お抱えの医師も高名な医者を雇う事も容易いであろう有力者が、自分の様な色街の街医者を高額の報酬を用意してまで呼び寄せた理由を女性医師は正確に理解していた。
いや……理解出来ぬ方がおかしい。
目を奪われるほどに美しく可憐な少女の白く細い華奢な両手首に奔る擦り傷と痣……少女に投与された薬の成分と容態が……自分の患者たち……色街では見慣れた被害者の女性たちとまったく同様のモノであったのだから。
だが何が起きたのかなど問う気は女性医師にはない。
大金と引き換えに事情は詮索しない、他者に口外はしない、とする条件に異論も不満もなかった女性医師はあくまで一人の医者としてこの場に臨んでいた。
「身体に大きな外傷はありませんし、手首の痣も直ぐに消える筈……それに女性として深刻な乱暴を受けた形跡は見られません」
女性医師の言葉にレイリオは複雑な表情を浮かべる。
安堵と怒り、相反する二つの感情がレイリオの中で入り混じり、握る拳に力が篭る。
「使われた薬物は依存性の低い物ですがその分効果が強い物で、解毒薬を投与していますが薬が完全に抜けるまで丸一日は必要でしょう……それまでの間彼女の世話は年配の女性に任せて下さい。特に男性と親しい人間の面会は控えて……いいえ、医師として許可しません」
レイリオは黙って頷く。
憲兵隊が用いている自白薬が色街で女たちを篭絡させる為に使われている麻薬の一種である事はレイリオも知っていた……そしてその本来の効能が、用途が、女たちの理性を失わせる為に使われる媚薬である事も。
「もう一つこれらの薬物には共通して後遺症が残ります」
努めて冷静に告げる女性医師に対して、これには流石のレイリオもそしてアニエスですら顔色を変えて問い質そうと口を開き掛けるが……女性医師は安心させる様に手で制止してから言葉を続けた。
「個人差はありますが後遺症と言ってもごく短期間……長くても一月程度のもの……それにこれまでの多くの実例を見ても確実に完治すると約束出来るものです……ただその症状は些か厄介で身近な人間の協力がどうしても必要になってくるのです」
「詳しくお聞かせ願えますか」
今だ冷静さを取り戻せぬレイリオに代わりクレストが合いの手を差し伸べ女性医師は頷く。
「簡単に言ってしまえば記憶障害とそれに伴う認識障害です」
「もう少し分かり易く説明してくれるかしら」
「そうですね……例えば」
と、女性医師はアニエスへと視線を向ける。
「彼女は貴女を見た時、記憶の中に居る別の人間だと誤認識してしまう可能性が、恐れが有るという事です」
「そんな事があり得るの?」
「勿論、彼女の脳は直ぐにその情報が間違っていると判断し、本人がその事に矛盾を抱き自覚さえすれば認識は直ぐに修正されます。そうした矛盾を繰り返し、記憶を正しく収束させながらやがて完治へと至るのです……ただそれまでの期間、彼女は度々おかしな言動や奇妙な行動を見せることでしょう。ゆえに彼女には身近な皆さんの支えが必要となるのです」
女性医師の言葉は俄かには信じ難い……それは誰にとっても想像に難しいモノであった。
薬が完全に抜けるまでは往診に来ます、とだけ告げ処置を終えた女性医師は部屋を後に廊下を歩き出すが、レイリオは返事を返す余裕も無いのかまるで女性医師を無視する様な態度を取ってしまう。
多くの患者たちの身近な者たちが見せる同様の態度に慣れているのだろう女性医師は気を悪くした様子も見せず、馬車の手配を事前に済ませていたクレストだけが、女性医師を見送る為に部屋の前を立ち去っていく。
残されたレイリオもアニエスも、今は薬で眠っている筈のエレナが居る部屋の扉を、表現が難しい……様々な感情が入り混じる眼差しで見つめるが、それでも決して立ち去ろうとはしなかった。
今の彼らに出来る事は、只エレナの身を案じ見守ることしか出来ぬというかの様に。
派兵を翌日に控え、式典の準備に慌しさが増す街の喧騒が耳に届き、寝台から身を起こしたエレナの黒髪を窓辺から差す日の光が照らし出す。
「湯浴みがしたいな」
と、伸ばした右手が汗が滲むうなじへと触れる。
丸一日半以上、朦朧とする意識の中、まるで現実感の無い夢の中に迷い込んでしまった、そんな感覚に支配されていたエレナであったが、今はもう意識もしっかりとしているし身体も問題なく動かせる。
身体……夢の中……。
途端に何を思い出したのかエレナの顔が耳朶まで真っ赤に染まる……ほんのり、どころではない……真っ赤に。
現実感の薄い、他者の視点を借りて見ている映像の様な光景……その中で自分が見せているあられもない姿にエレナは両手で頭を抱え頭を振る。
冒涜だ……冒涜だ……と繰り返し呟くエレナは余りの羞恥に寝台の枕へと顔を埋めてしまう。
不幸中の幸い……そう……唯一の救いは不確かな記憶ながらも自分の世話をしてくれていたのが年老いた老婆一人だけであったという事……。
レイリオやアニエスには絶対に見られていない筈だ、ということだけが何とか消え入りそうになるエレナの心を支える。
むくりと起き上がったエレナは心に誓う。
この事は生涯の秘密だと、墓場まで持っていこうと、そうエレナは心に決めるのであった。
コンコン、と控え目に扉が鳴らされる。
「エレナ……レイリオだけど、入っても大丈夫かな?」
妙に余所余所しいそのレイリオの声の調子に、ま、まさか、とエレナの心臓がどくんと跳ねる。
「どどっ……どうぞ」
思わずうわずった声を上げてしまうエレナ。
エレナの返事から直ぐには扉は開かれず、やがて控え目に開けられた扉からレイリオが姿を見せた。
いつもとは明らかに異なるレイリオの雰囲気にエレナは緊張した様にレイリオから視線を逸らし、レイリオもまた頬を染めまるで恥らっているかの様に見えるエレナの愛らしい表情に動揺してしまう。
妙な空気が部屋を包み込み……。
「レイリオはアレかな……私の看病とかしててくれたのか……な?」
意を決して……だが決してレイリオと視線を合わせようとはせずエレナは核心へと迫る。
「済まないエレナ……薄情だと怒られても仕方ない……だけどどうしても片付けて置かなければならない事後処理が残っていてね、これまで様子を見に来れなかったんだ……君を心配していたアニエスにも悪い事をしたよ」
「アニエスも?」
「ああ、今日まで君の看病を任せていたのは看護の経験を持つあの女性だけだよ」
「なるほど……なるほど……」
気にしないで欲しい、とこの段に至りようやくレイリオを見つめ微笑んだエレナは、内心では幸運の女神に感謝の祈りを捧げ拳を握り締める。
そんな妙な……だが穏やかな空気に包まれた室内で二人は何気ない日常的な会話を交し合う。
それはエレナにとってもレイリオにとっても外の喧騒を忘れさせる……静かに時が過ぎ行く居心地の良い時間であった。
「いつも偉そうな事を言いながら私は君に……皆に迷惑ばかりかけてしまう」
「いいさ、君の無茶な行動には慣れっこだし、それに僕はそんな君が好きだから……それにアニエスも呆れてはいたけれど気持ちは同じなんじゃないかな」
穏やかな眼差しを自分に向けるレイリオにエレナは心から思う。
今の自分は本当に友人に……良い仲間たちに恵まれていると……。
そして自身に問い掛ける。
私はその想いに応える事が出来るのであろうか、少しでも報いる事が出来るのであろうか……と。
その答えは今だ見つからない。
「我侭を言ってもいいかなレイリオ、湯浴みがしたいんだけど……」
エレナはそんな思考の海の底へと沈み掛ける己の気持ちを変えようと、殊更明るくレイリオに問い掛ける。
「では直ぐに浴槽に湯を張るように伝えておくよ」
有難う、と微笑むエレナは思い出した様に周囲を見渡す。
「私の双剣は?」
とレイリオに問い掛ける。
「アニエスに預けてあるんだ、彼女もエレナに会いたいだろうし今呼んでくるよ」
万が一の事を考えてエレナの周囲から刃物を遠ざけていた事を悟らせぬ様に平静を装い、レイリオは腰掛けていた椅子から立ち上がると部屋を出ようとエレナに背を向ける。
「ごめんね、ダランテが傍に無いとどうにも落ち着かないんだ、悪い癖だとは思ってはいるけど……なかなか、ね」」
何気ないエレナの一言に、レイリオは驚いた様に振り返る。
「今なんて言ったんだ」
「どうしたんだレイリオ? そんな怖い顔をして」
「僕が君に預けた双剣にはそんな名称は付けられてはいなかった……エレナ、そうだろ?」
「私の剣……私の……」
エレナは一瞬考え込む様な表情を浮かべ、
「そうだね……そう……ごめん冗談だよ」
と笑顔を見せる。
恐らくは内心では激しく動揺しているであろう、エレナが自分に心配を掛けまいとして見せる笑顔にレイリオは何も言葉を掛ける事が出来ない。
アニエスを連れ立ち、エレナの下に戻ったレイリオの瞳に映るのは変わらぬいつものエレナの姿。
「アニエスにも本当に心配を掛けたね」
と、謝罪の言葉を口にするエレナの姿にアニエスもまた、もう慣れたわ、とレイリオと同様の言葉が紡がれ、エレナは思わず苦笑してしまう。
その手からエルマリュートとアル・カラミス……自身の双剣を受け取ったエレナは二人に背を向けて寝台の横へと立て掛ける。
「エレナ……君に話して置くことが、説明して置かなければならない事があるんだ」
背を向けているエレナの下にレイリオが一歩足を踏み出した瞬間――――。
その行為は余りにも不用意に、無防備に、親しき者ゆえの無警戒さゆえに。
声に反応したエレナは咄嗟に振り返り、今まさに自分に手を伸ばす男の姿を視界に捉える。
事前にレイリオからエレナの異変の兆候を聞かされていたアニエスだからこそ反応出来た――――それ程の速度。
振り向き様、鞘奔らせたアル・カラミスの一閃が違わずレイリオの首筋へと迫り、アニエスの右手の五指から放たれた鋼線が収束しその白刃を防ぐ。
刹那、鬼火が如く舞い散る火花。
殺意すらなく、害意すらなく、国の為、殺さねばならぬ男へと振るわれたエレナの迷いの無い神速の一刀は束ねた鋼線全てを断ち切る。
風鳴りを響かせ奔るアル・カラミスの刀身がレイリオの視界に光の筋を残し――――全ての時が緩やかに流れる中、エレナの感情の欠落した硝子玉の如き黒き瞳をレイリオは見つめていた。
不思議と恐怖は無い……ただ悲しい、とレイリオは想った。
今のエレナの姿は嘗ての英雄の……記憶と人生の写し身。
心を殺し、己を殺し、国の為、王の為、そして多くの民たちの為、一片の揺らぎも殺意すらなく人を殺める……優しき英雄の悲壮なまでのその姿が……堪らなく悲しかった。
――――エレナ!!。
それは想いの叫び。
瞬間、エレナの瞳に輝きが戻りアル・カラミスが失速する。
だが勢いのままにレイリオの首筋を捉えかに思えたその刀身を、続けざま放たれていたアニエスの左手の鋼線が弾き、エレナの右手を離れたアル・カラミスが宙を舞う。
次の瞬間には放心したようにエレナは力なく両膝を床へと付いていた。
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