177話


 「お待ち下さい!!」


 一触即発……空気が軋むかの様に、悲鳴を上げているかの如く、痺れるほどに張り詰めていた空気を切り裂き発せられた女性の声に、ヴォルフガングやクルスだけではない、アニエスもまた声の主へと視線を向ける。

 

 彼らほどの経験と熟達した技術を持つ傭兵たちの戦いは文字通り刹那の攻防、魂を削る鬩ぎ合い、余人には計り知れない境地での死闘。

 一瞬の揺らぎが生死を別つ戦いの場にあって言葉一つで彼らに意識を向けさせる……それほどにその声には無視出来ぬほどの意思の力が宿っていた。


 「その方はわたくしが御呼びした御方、ヴォルフガング様、クルス様、どうか剣をお納め下さい」


 塔の入口が開け放たれ、発せられたクラウディアの予期せぬ言葉に、姿に、僅かに逡巡するクルスとまるで品定めでもするかの如く眼差しを送るヴォルフガング。


 「叔父様に雇われた御二人に直前まで御伝えする事が出来ずにいた己の狭量さには恥じ入るばかりではありますが、どうか……どうかこのクラウディアの話に耳を傾けて頂きたいのです」


 クラウディアの足は迷う事なくアニエスの下へと向かい、男たちの間を通り抜けていく。


 制止の声を上げるクルスと無言でクラウディアの姿を目で追うヴォルフガングが異なる対比を示す中、クルスの制止が聞こえぬかの様にクラウディアの足がアニエスの領域へと一歩踏み込まれ……だが女王の忠実なる僕たちの白刃が振るわれる事はなかった。


 傾国傾城の美姫クラウディア・メイズ。


 エレナの護衛を勤めるアニエスがその名を知らぬ筈はない。

 だが初めて目にしたその女の儚さを漂わせる美しさは同性であるアニエスの目から見ても純粋に美しいと、賛美に値すると思わせる絶世と呼べるほどの美女の姿が其処にある。


 エレナのまだ幼さを残す未成熟さゆえの冒し難い処女性と神秘性を秘めた可憐な美しさとはまた違う、クラウディアの成熟した女としてありながらも清楚で淑やかな美しさは、女のさがとして己の容姿を気に掛け、自負を持つアニエスから見ても羨望や嫉妬にも似た複雑な感情を向けざるを得ない、神々の祝福を与えられた者の姿であった。


 だがエレナ・ロゼという少女の傍らで少なからぬ時を過してきたアニエスにとって、見た目の美しさだけで男たちの様に魅入られるなどという事はない。


 戦いの場に不用意に、無防備に足を踏み入れたクラウディアにアニエスが手を止めた理由……それは魅入られた訳でも同性に気を許した訳でもない。

 

 クラウディアの青き宝石の如き澄んだ輝きの中に、揺ぎ無い覚悟と信念を、貫き通そうとする強き意思を垣間見たからであった。


 似ている――――。


 素直にアニエスはそう思っていた。


 異なるとは言え共通する容姿の美しさなどではない……抱く信念と現実が乖離する境界線上の狭間を、もがきながら。傷つきながらも抗うことを止めず踏み出し歩むエレナが宿す瞳の輝きと、クラウディアの眼差しは同じモノであると。


 まるでエレナ本人を前にしている様な錯覚すら覚えるクラウディアの瞳を前に、既にアニエスの戦闘意欲は失われていた。


 「叔父様の警戒心が僅かに緩むであろう、この日しか……この機会にしか私が皆様に接触できる好機がありませんでした……これは私にとっても大きな賭けであったと……どうかご容赦下さい」


 深々とアニエスに腰を折り頭を下げるクラウディアに、アニエスは掲げていた両腕を下ろす。

 

 己の領域に足を踏み入れた者を前にして展開していた鋼線を収める……それは一重にこの剣呑で血生臭い戦いの幕引きを意味していた。


 無論クラウディアには不可視にも等しいアニエスの鋼線の存在を見知っても、まして見定める事など出来る筈もなかったが、周囲の空気が変わった気配を感じ短く安堵の息をつく。


 「余り時間がありません、手短に……核心のみをお話いたします」


 クラウディアの私室があるこの塔の周辺は、ラザレスが雇う私兵たちの中でも限られた者たちしか立ち入りを許されていない特殊な場所……ゆえに今この場所には警護を担っているヴォルフガングたちしか存在していない筈ではあったが、もしラザレスが表の騒ぎを聞きつければ用心の為に人員を送ることは容易に想像が出来た。


 その為クラウディアとしても長々とこの場で説明をする事は出来ない。


 クラウディアは一度、三人を見つめる様に視線を送り語り出す。


 二年にも渡り叔父と慕うラザレス・オールマンが行ってきた暗躍の数々を。

 上位貴族ハイラム・マーモットと結託して起こそうとしている陰謀と簒奪の全てを。


 「本来であればこの場に証拠の全てを揃え御渡しすべき処でしたが、流石に其処までは上手く事を運べず……申し訳ありません……」


 悔しげに瞳を伏せるクラウディア。


 「見取り図のもう一つの印はその証拠の在り処……間違いはないのね?」


 「はい、『エラル・エデル』の財を保管する金庫室、警備は厳重でありますし、錠前も特殊な物を用いてはおりますが皆様方ならば、と」


 クラウディアの言質を取り、楼閣へと向かおうとするアニエスをクラウディアは、お待ち下さい、と制止する。


 アニエスにして見れば陰謀や簒奪など、やりたいのならば勝手にやれば良い、欲に塗れた醜い権力闘争になど興味はない、といった思いが根底にある。

 アニエスにとっての大事は、優先せねばならぬ事は一つだけ、エレナの身の安全と救出だけであり、その道が開けたのならばこの場に留まる理由がなかった。


 「最悪の場合を想定してこれを持って屋敷を離れて頂きたいのです」


 クラウディアが懐から取り出しアニエスへと差し出したソレは。


 告発状。


 クラウディア自身が直筆で記し署名したラザレス・オールマンの不正を暴く明確な証拠。


 「これをグランデル子爵様に……面識は御座いませんが民に親しく、中立で公正な方と、信に置ける御方と伺っております」


 グレゴリウス・グランデル子爵の名はシャリアテに来て日が浅いアニエスにとっては余り馴染み深い名ではない。


 動乱期の大陸、魔女の災厄と数多の英雄たちが大陸全土に名を馳せた時代は過ぎ去り、国という概念は残しつつも都市単位街単位で人々の営みが完結し終息してしまう今の大陸では一部の地方で勇名を轟かす者は居ても大陸全土に新たに名を残す者は存在しないと言っても良い。


 ゆえにアニエスがオルバラス地方で高名な『隻眼の獅子』の名を良く知らぬのも無理からぬ事ではあったのだ。


 しかしクラウディアが補足した説明でアニエスは納得する。

 

 これのみではラザレスとハイラムを繫ぐ物証としても陰謀を暴露する決定的な証拠にも成り得ない……例えこの告発状が表に出たとしてもハイラムはラザレスを切り捨てる事で如何様にも言い逃れが出来るであろうし出処次第では握り潰そうとするだろう。


 しかしグレゴリウスの手で公の場に出されればハイラムは兎も角として、少なくとも確実にラザレスは身を滅ぼす事となる。


 そうなればラザレスとの関係を切る為に己に関わりの無いエレナへの干渉は断とうとするであろうし、もしハイラムがエレナを害そうとしてもグレゴリウスの後ろ盾があれば、例えアニエスが強引な手段でエレナを奪い返したとしても大きな問題には発展しないだろう。


 つまりこれはクラウディアが自身の計画にアニエスたちを協力させる為の保険……言い方を変えるのであれば、それは見返りであった。


 「親しき者を欺き滅ぼしてまで貴女は何を求めるの?」


 始めからラザレスに協力せぬという選択肢すらあったであろうクラウディアが、此処にきて正義感や義憤の為に叔父と慕う、言わば肉親すら裏切って行動を起こしたとはアニエスにはどうしても思えなかったのだ。


 自分には理解が及ばぬその心情に、アニエスはどうしても問わずにはいられなかった。


 アニエスの問い掛けにクラウディアからの返答は無い。


 だがクラウディアは憂いを帯びた眼差しをアニエスへと向け……そして寂しげに笑った。


 エレナと同じ眼差しで……同じ微笑を浮かべるクラウディアに、アニエスは黙ってその手から書簡を受け取る。


 「借りだと思っておくわ」


 黙って首を横に振るクラウディアに背を向けアニエスは駆け出す。


 駆け出すアニエスをヴォルフガングもクルスも制止する事はせず、アニエスの姿は庭園の木々の中へと消えていく。


 「御二人にはご迷惑をお掛けします」


 「俺たちの契約はあんたの周辺警護だけだ、別に契約違反なんざしてねえぜ」


 ぶっきらぼうにそう呟くヴォルフガング。


 「ではこの先は私と個人的に契約を交わしては頂けないでしょうか?」


 「それに見合うだけの報酬を、対価をあんたが支払えるのならな」


 「私にお支払い出来るモノなどこの身一つしか御座いませんが……それで宜しければこの身体、如何様にもお使い頂いて構いません」


 そっと両手を自身の胸に添えるクラウディアの姿にヴォルフガングは一瞬真剣な眼差しを向けるが、直ぐに表情を崩して豪快に笑う。


 「この先あんた見たいな別嬪を抱ける機会なんざもうねえかも知れねえしな、いいぜ俺はその条件で」


 クルスはそんなヴォルフガングの姿に呆れた様子を見せてはいたが、傭兵らしい、と言えば良いのか祭りを楽しむ子供が如き表情を束の間垣間見せ、続く様に頷いて見せた。


 「それで俺たちに何をして欲しい?」


 ヴォルフガングの言葉に、これを、とクラウディアは懐から特殊な形状をした鍵を取り出す。


 それはラザレスがクラウディアのみに所持を許した金庫室の錠前の合鍵であった。


 「楼閣に向かわれた方々に助力して、可能であればこの鍵を御渡しして欲しいのです」


 「ならばその役割は俺が引き受けよう、この図体のでかい熊野郎は目立ちやがるからな、問題を起こして騒ぎを大きくする方がお似合いだろうしな」


 クラウディアから鍵を受け取るクルスを渋い表情で見据えるヴォルフガングであったが、其処は適材適所と言うべきか、口を挟む真似はしなかった。


 「私はこれから叔父上の下へ、最後の説得を、お願いをしに参ります」


 「それならどちらかが付いて行った方がいいんじゃないのか」


 クルスの心配は最もであり、仮に二人の間に肉親の情に近い感情が、関係が築かれていたとしても、全てを聞かされたラザレスが激昂するであろう事は想像に難しく無い。

 その果てに、感情のままにラザレスがクラウディアを害そうと、クラウディア自身の身に危険が及ぶ可能性は極めて高い。


 「いえ……最後だからこそ二人だけで話がしたいのです」


 クラウディアの口調は変わらず物静かなものではあったが、其処には揺るがぬ決意と覚悟が感じられ、クルスはそれ以上は口を挟む事を止める。


 雇い主が望んで危険に飛び込むというのであればそれを止める義理はない。

 冷めた物言いではあるが、クルスはクラウディアに肩入れして契約をした訳ではない……あくまでクルスなりの損得を踏まえた上での判断であり、忠告を無視したクラウディアが仮に命を落としたとしても、惜しいとは思えど所詮それはそれだけの事とクルスは割り切っている。


 ある種ヴォルフガング以上に傭兵らしい傭兵、クルス・ガリアスとはそういう男であった。


 



 ラザレスは騒がしい周囲の喧騒の中、自室の寝台から起き上がる。

 睡眠を取ってはいても決して深い眠りにはつかない……これまでの経験からそうした癖が身体に染み付いていたラザレスは時ならぬ騒ぎに不審げに眉根を寄せる。


 コンコンッ、とまるで申し合わせたかの如きタイミングで扉が叩かれ、姿を見せた人影にラザレスは寝台から立ち上がり歩みを寄せる。


 「これは一体何の騒ぎだ、クラウディア」


 クラウディアは開けられた扉を後ろ手で閉めると無言のまま、すっ、とラザレスの下へと身を寄せる。


 まるで抱擁を求めるかの如きクラウディアの姿にラザレスは疑念を抱く間も無く、両腕を広げ迎え入れ――――その胸にしな垂れ掛かる様に身を寄せたクラウディアの姿を瞳に映したままラザレスの表情が固まる。


 ラザレスの胸元から溢れ出す血が瞬く間にその足下に血溜まりを作り出していく。


 クラウディアが両手で握り締める短刀が違わずラザレスの心の臓を貫き……その胸元から流れ出す血を薄め様とするかの様にクラウディアの瞳から流れる涙が頬を伝わり床へと落ちる。


 「叔父様……叔父様……」


 と、うわ言の様に繰り返し子供の様に泣き叫ぶクラウディアの姿に、呆けた様に固まっていたラザレスの表情が苦痛を噛み殺しながらも真摯なモノへと変わり、最後の力を振り絞ったのであろう、震える両手がクラウディアの頬に添えられるとその瞳の涙を拭う。


 そしてそのまま弱々しく背へと回された両手でクラウディアを抱きしめた。


 それがラザレスの最後の意思表示であった。


 クラウディアは力が抜け落ち急速に重さを増したラザレスの身体を支えきらずその場に両膝をついてしまう。

 自分に身を委ねたまま温もりを失っていくラザレスの身体を強く、強く抱き締めたままクラウディアは子供の様にただただ泣き叫び続ける。


 ラザレス・オールマンが最後に抱いた感情など最早本人にしか分かり得ぬモノではあったが、その半生を野望と復讐に費やした男の最後の表情は何処か穏やかなものであった。


 

 少なからぬ時間、室内に木霊していた泣き叫ぶ少女の如き慟哭はやがて掠れ消えてゆく。


 「居るのでしょうバルザーク」


 ――――此処に。


 「叔父様は自害なされました……当初の契約通り、これより先、お前たちは私の指示に従いなさい……宜しいですね」


 ――――承知。


 最早生ある者はクラウディア只一人である筈の室内で闇が答える。


 闇と会話を交わすクラウディア。

 

 だが赤く充血した瞳にはもう滲む涙の跡は見られなかった。

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