176話


 無機質な監獄の壁に、淀んだ薄暗い空気に、少女の……エレナの小さく漏れる荒い息遣いが、苦しげな喘ぎが染み込む様に消えていく。

 

 ジャリッ……ジャリッ……。


 と、エレナが身を僅かに捩る度にその両手首を拘束している鉄の枷に繫がれた鎖が擦れ合い微かな金属音を上げる。

 荒い少女の息遣い、白雪の様な柔肌から流れ落ちる汗が床を濡らし色濃く染みを作り出している。

 

 美しき蝶が蜘蛛の糸に絡め取られて尚、その羽を瞬ろがせ抗う如き姿に男はごくり、と生唾を飲み込む。

 

 まだ熟れ切らぬ少女の肢体を目の前にして、本来であればこの年頃の娘など女として見ず、嗜好の外である筈の男の目はまるで己を誘うかの様に時折肢体を揺らす少女の妖しげで艶っぽい姿に、抗せぬほどの女の色香を前に、職務すら忘れて魅入ってしまう。


 この世には人には抗えぬ魅力というモノが存在する。


 今この少女を襲っている快楽と苦痛がどれ程のモノなのか、男の身である自分には生涯分かりえぬ、理解の及ばぬ感覚なのであろう……だが、男の存在に気づき僅かに上げられた少女の黒き瞳に宿る強き意志の輝きに、地に堕ち汚泥に塗れて尚、気高さを失わぬ美しく可憐なその容貌に、男の脳幹からつま先にまで痺れる様な電流が奔る。


 「おい!! その娘に余り近づくな!!」


 背後から、鉄の格子の外から発せられた怒号に僅かに残っていた男の理性が職務を思い起こさせる。


 「あ…ああ……」

 

 外の男の声には同じ感覚に覚えがあるというかの如く、強い警告と警戒の色が含まれていた。


 どちらかが暴走せぬ様に互いが互いを牽制し見張るかの如く見えるその光景は、最早職務に殉じる騎士の姿など微塵も見られない。

 仲間である筈の男たちが見せる緊張感やぎこちない笑みを交し合う二人の姿が、この危うい均衡が長くは続かぬ事を如実に現す様で――――崩壊を告げる鐘の音がいつ二人に齎されてもおかしくはない……そう思わせる程に二人の騎士たちの顔つきは醜く歪んだモノへと変貌を遂げていた。



 馬鹿は死んでも直らない……アイツに良く怒られていたな……。


 自分から離れていく男の背を掠れる視界に映し出し、エレナはそんな昔の記憶を思い出す。


 忘れ得ぬ筈の記憶……生涯只一人と誓った想い人との――――。



 王都を望む丘の上、一人の騎士の姿がある。

 帯剣する特徴的な二振りの長剣、白銀の戦装束の胸当てに刻まれた天秤と剣……王国最精鋭、神の使徒たる聖堂十字騎士団の紋を刻むこの偉丈夫を知らぬ者などこの国には居ない。


 「また遠征に往くの?」


 騎士の背に白き細い女性の腕が回され、背に触れる女性の温もりに騎士は首を傾ける。


 「この遠征が終われば西域に陛下が遍く統治なされる平和な世が訪れる……怨嗟に塗れた歴史は此処で断ち切らねばならない」


 言葉の強さとは裏腹に、騎士の愁いを帯びた瞳を前に女性はそっと騎士の頬に両手を添える。


 「貴方は強い人……優しい人……でもとても弱い人」


 「俺は――――」

 

 騎士の言葉を遮る様に女性の唇が騎士の口元に触れ、自身より背の高い騎士に背を伸ばし顔を寄せる女性を騎士は向き直り抱きしめる。


 恋人たちの抱擁を、逢瀬を祝福するかの如く、一陣の暖かな風が吹き抜け、女性の艶やかで美しい長い黒髪を靡かせた。


 「この遠征から帰ったら俺と添い遂げて欲しい」


 「貴族と平民は結ばれないわ……」


 悲しげに夜空を映す黒い瞳を伏せる女性に騎士は今度は自ら顔を寄せ口付けを交わす。


 「これまでの功をもって陛下にはお許しを頂く……もし叶わぬのならば貴族の身分を捨ててお前と二人、当てのない旅路に着くのも悪くない」


 騎士の突然の告白に、嘘つき、と涙を流し女性は微笑む。


 家門の名を捨てる……その様な真似が決して出来ぬ事を知りながらも、嘘が下手なこの騎士が真摯に自分に向ける想いの強さが女性の胸を締め付け、沸きあがる気持ちを抑えきれずに頬を伝わる涙が途切れる事はなかった。


 「俺の妻に……家族になって欲しい」


 騎士の言葉に、流す涙をそのままに女性は微笑み返し、そして頷いた。




 それは泡沫の夢が如く――――。


 鋼の如き意思の力で自我を繫ぎとめている今のエレナには、混濁する記憶の底に沈んでいた欠落した記憶に違和感や矛盾を覚える事は出来なかった。




 その日、オベリン・シャウールの名で公表された派兵の一報は瞬く間にシャリアテの街中へと広がり、通りを歩く人々や、商いを行う商人たちの間で話題の中心となっていた。


 しかしだからと言ってシャリアテの街並みに、人々の営みにはなんら変化は見られない。

 それは事前に幾度にも渡り流されていた派兵の噂が意図的に流布されていたモノである事を知る彼らにとっては、最早周知の事実であった事柄に今更驚く程の関心を寄せる者はなく、派兵の人員に傭兵たちが含まれていない事で魔物への対策がこれまでと変わらず行われる事への安堵が多少なりとは見られる、その程度の関心事にとどまっていた。


 大きな変化、とまでは行かずとも変わった点を挙げるとすれば、派兵の期日に合わせ帰国の為の船券を求める観光客たちが港の組合所に詰め掛けていた事であろうが、それでも全体の数から見れば少数といえる程度の数であり、逆に問うならばメーデ・ナシル運河という自然の防壁に守られたこのシャリアテの安全性が国内外に広く知れ渡っている証ともいえようか。



 同様に日の高い日中の色街は、変わらぬ日常の中、疎らに通りを歩く人々の姿を映している。

 夜行性の虫たちが日差しの中を活動せぬ様に、色街において昼間のこの時間、空いている酒場や娼館は驚く程に少ない。

 それは高級な酒場や娼館が多く存在する中央街に向かうほどその傾向は顕著に現れ、夜の華やかさとは裏腹に周囲は静けさに包まれている――――筈であった。


 「うちの子を拐かしたのがお前たちだって事は知れてんだよ、さっさと門をお開け!!」


 『エラル・エデル』の正門、鉄の門扉を挟み男たちと、そして女たちが睨み合う。


 「三下、あんた如きじゃお話にならない、さっさとラザレスをお呼びよ」


 「ですから支配人は只今御休みになられたばかりでして……」


 門の外、娼婦であろう女たちを従えて気勢を上げるミランダの姿に副支配人の男は額の汗を拭う。


 ミランダ・ミーゼルは競合する娼館の女主人ではあったが、同時に組合の執行部に名を連ねる大物……彼女の訴えが例え寝耳に水の言い掛かりであったとしても無下に……ぞんざいに扱う事など出来ない。


 どうしますか、と支配人の後ろに控えていた警備の男たちの一人が目で問い掛けてくるが、首を横に振り制止する。


 支配人の男の視界の隅に騒ぎを聞きつけたのか……いや、それにしてはやけに集まりが良過ぎる……早すぎる野次馬たちの姿が映り、女たちだけの集団を男手を使って追い返したなどという噂を立てられては堪らぬとばかりに前に出ようとする男たちを慌てて下がらせる。


 そんな時ならぬ騒ぎの中、『エラル・エデル』の裏門に一台の馬車が止まり、不審に思った警備の男が御者に詰問しようと歩みを寄せ――――開け放たれた馬車の扉から覗く白刃が男の胸を貫き、苦悶の叫びを上げる男の口を馬車から伸びた手が塞ぐと車内へと引き込む。


 姿を消した警備の男に代わり車内から三つの影が裏門へと降り立ち、憐れな男を乗せた馬車はそのまま静かに通りへと走り去っていく。


 「あからさまに怪しい誘いに乗るなんざ、うちの旦那も目が曇ったのかねえ」


 余り乗り気ではないテオは裏門を前にそんな事を愚痴りだす。


 「そうとも一概には言えんな」


 こうしたテオのやる気の無い態度は何時もの事なのだろう、相棒であるニコラスは呆れた様子も見せずテオを一瞥する。


 今頃ミランダが正門で起こしているであろう騒ぎは、セイルの工作で直ぐに色街中に広まる手筈になっている……これから自分たちが起こす騒ぎの結果がどうであれ、それを無関係と捉える者はいないだろう。


 色街での騒ぎは色街で。


 取り決めにも似たその暗黙の約束事に憲兵隊が介入する事は難しい……まして娼館同士の諍いやそれに伴う刃傷沙汰などその最たるモノであり、この街では日常茶飯事に起こる……それは日常なのだから。


 ロダック商会が『ラ・レクシル』の後ろ盾である事を知らぬ者などこの色街には居ない……だからこそ仮に事態の揉み消しにロダック商会が動いたとしても不審に思う者もまた居ない。


 裏門の隣に備えられた通用門、屈まねば通れぬ狭い入口もまた鉄の扉で閉ざされている。


 手先が器用なこともあり、こうした錠前を開錠する技術に長けていたテオが通用門へと歩みを寄せた瞬間――――身震いする程の寒気と共にテオの傍らを見えざる何か、が奔り抜けていく。


 十分な厚さを誇る鉄の門扉が番の部分のみを残し十字に断ち切られ音を立てて崩れて落ちる。


 「邪魔よ」

 

 と、見下ろし囁く女の鋭利な緑の眼差しにテオは本能ゆえか、さっ、と身を退き道を譲る。


 「彼方たちは楼閣に、私は塔に向かうわ」


 アニエスは手にする『エラル・エデル』の見取り図を見つめ呟いた。


 詳細な敷地と建物の見取り図……その中に刻まれた二箇所の点。


 何者かの手によりロダック商会へと、セイルの元へと送られてきたソレをアニエスは懐へと戻す。


 女王の命令が如く発せられたアニエスの言にテオは何度も頷き、距離を取っていたニコラスからも異論を挟む様子は見られない。


 通用門を潜った三つの影は別たれ走る。


 駆けるアニエスの視界の先、ミランダが起こしている騒ぎゆえであろうか、脳裏に叩き込んだ見取り図の巡回経路には警備の者たちの姿は見られない。


 アニエスは胸中に抱く苛立ちに一人唇を噛み締める。


 得体の知れぬ、正体もその意図すら掴めぬ者の誘いに乗って今この場に居る自分に対して、何者かの手の平の上で踊らされているという不快感に堪らぬ苛立ちを抱いていた。

 こんな面倒な真似などせず、さっさと警備隊の支部に忍び込みエレナを救い出してしまえば良い……それが偽らざるアニエスの心境であった。

 だがそれを言うならばそもそもあの宿屋の時点で強引にエレナを連れて逃げてしまえば良かったのだ……。


 頼むよ……アニエス。


 寂しげに笑うエレナを前に自分は……あの子の想いを無碍にしてその手を引く事が出来なかった。


 自分の為に関わり無き者たちが命を落とす……この世界ではそんなありふれた話、道端の石ころよりも多く転がっている。


 だがそれを良しとしない、許せぬと……憤り、己の無力さに悲嘆して尚、幾度でも何度でも立ち上がり歩み出すエレナの姿は、揺ぎ無いその意思は、純粋と呼ぶには余りに透明で――――。


 惚れた弱みかしらね。


 男女間の色恋ではあるまいし、そうした感情ではないことは知ってはいても、他に自分の感情に当て嵌まる言葉が見当たらず、アニエスは珍しく表情を緩め苦笑する。



 道を塞ぐ者もなく、木々の間を、石畳の道を走り抜けたアニエスの前に見上げるほどの高さの白亜の塔が姿を見せる。


 塔の入口、一つしかないであろう正面の扉へと向かうアニエスの足が不意に止まる。


 「妙な所で会うじゃねえか、ちゃんと許可を経て此処に立ち入ったんだろうな」


 アニエスに掛けられる男の声。


 その見知った者の声へとアニエスは視線を送る。


 「ヴォルフガング」


 塔の裏手、アニエスの死角から姿を見せた屈強な大男は大剣を右手で肩に担ぎ不敵な笑みをアニエスへと向けた。


 知己との再会と呼ぶには威圧的でそして余りにも血生臭い気配。


 そう……エレナの傍らに居るとつい忘れてしまう……傭兵とは本来こうしたモノ……こうした生き物。

 金で雇われ命を掛ける……その過程で排さなければならぬ障害ならば例え親しき者であろうと排除する。

 傭兵とは己の価値観が全て、奔放ゆえに傲慢に、強欲ゆえに貪欲に、その生き様を晒す者たちの名なのだ。


 「奇縁だなアニエス、だが三度目の立会いは試合の様には行かぬぞ、大人しくその指輪を外して投降しろ」


 ヴォルフガングに続き姿を見せたクルスは腰の長剣を引き抜く。

 アニエスの姿を前にやや複雑そうな表情を見せるクルスではあったが、ヴォルフガングと同様に話を聞くにしてもまず脅威は排除する、といった物々しい気配はヴォルフガングと同種のものである。


 「知らない仲じゃあるまいし、少し話を聞かせてくれや」


 無論それは対等な立場としてではない。


 侵入者であるアニエスに向ける二人の剣呑な眼差しが何よりもそれを物語っていた。


 「そうね……私も少し気が立っていた……冷静さを欠いていた事は認めましょう……でもその上からの物言いは気に入らないわ」


 二人の気配に直前まで気づけなかった己の未熟さをアニエスは笑う。


 エレナに残されている時間を、猶予を考えれば此処で悠長に時を浪費する事は愚かしい行為でしか無く、彼らの気質を良く知るアニエスゆえに説得に応じるとは思えぬ彼らに対して言葉を重ねる事の不毛さを、文字通り時間の無駄である事を誰よりも知っていた。


 ゆっくりと交差されたアニエスの両腕が二人の男たちへと伸び、手の平を上にその細い指先が招く様に誘う様に妖しく動く。


 エレナの身と有象無象の男たち。


 アニエスにとっては天秤に測る必要すら無い程に、何方に傾くかなど分かり切った余りにも簡単な答えであり……。


 邪魔をするなら排除するだけ、と。


 ましてこの一件にヴォルフガングたちが関わっているのだとすれば寧ろ此処で殺して置くべきであろう、と。


 それはどの様な経緯があろうとも、例え間接的な関りであったとしても、エレナを害する企みに加担する者に対してアニエスが殺意を向けるに、抱くに、十分な理由であった。


 魅惑的に男を誘う如きアニエスの姿に、冷笑を浮かべ此方を見つめる緑の瞳に、ヴォルフガングとクルスもまた距離を保ったまま左右へと身を移していく。


 「許可しましょう私の王国に足を踏み入れる栄誉を、そして払いなさいその対価を」


 ぞっとする程に美しい……だが冷たい冷笑を浮かべるアニエスにヴォルフガングとクルス、二人の男たちが……傭兵たちが対峙する。

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