168話
シャリアテの双星、商業区画と歓楽街を含む中央区画を繫ぐ楔の如く両区画の間に位置するシャリアテ港は其れのみで一つの区画として成立する程の広大な面積を有している。
その規模はセント・バジルナの港に匹敵する程の設備と船舶の収容面積を誇り、商売を目的とした各国の商船のみならず補給を目的として近海を往来している船舶が寄港するシャリアテ港は日に三桁に届く船舶が入出港を繰り返し、港に降り立つ商談や観光に訪れる人々、シャリアテを離れる人々の数は一日で万人を超えると言われている。
それだけの人々が常時必ず訪れるシャリアテ港は組合の案内所を始め商人たちの寄合組織である商工会の商館などが通りに見られるが、大半が商会や組合が保有する倉庫が立ち並ぶ倉庫街となっていた。
魔導船の発着場とそれに伴い併設されている施設、寄合馬車を始めとした馬車の乗り場、数万という人々の足を支えるそうした施設が集約されているシャリアテ港はシャリアテの繁栄を支える心臓部であると言っても過言ではない。
「はいはい御免よ、すいませんね」
港の大通り、馬車が列をなし渋滞している車道を挟み整備された歩道の片側で大の男がまるで交通整理でもしているが如く行き交う人混みの中、道を切り開いている。
成人男性が十人近くは横に並べるほどの長大な歩道ではあったが、通りを歩く人々の数は日中の昼時という事もあってか流石に立ち止まらねばならぬ、とまではいかずとも注意しなければ絶え間なくすれ違う対向者と肩が触れ合ってしまうくらいの混雑を見せている。
二人の女性の前を先導者よろしく先頭を歩くテオ・グラウスは己の……いや、自分たちの身に降り掛かっている、起きている数奇な、皮肉な廻り合わせに内心ではうんざりと半ば呆れ気味に嘆息していた。
それも当然な話である。
今自分たちが警護している対象が先週まで自分たちが攫おうと、拉致しようとしていた相手ともなればテオでなくともこの滑稽なある種馬鹿馬鹿しい今の現状に辟易もしようというものだろう。
テオの背後を歩く二人の女性……目深にフードを被る小柄な少女は言うまでもなくエレナの姿であり、エレナの隣、半身、半歩前を歩く長身の女性は此方もまた想像通りアニエスの姿がある。
女性にしては背が高く、その整った容姿と女性として申し分の無い肢体を持つアニエスは只歩いているだけでも絵になる、人目を惹く存在である……しかし整った眉根を眉間に皺が出来るまでに寄せ、明らかに不機嫌そうにアニエスは他者を拒む様な冷たさを湛えた瞳を前方へと向けている。
或るいはテオの先導が無くとも二人の傍には人が近寄らぬのではないか、と思わせるほどに二人の周囲の空気は冷たく……そして重苦しい。
「エレナ……貴方はいつまでこんな茶番劇に興じているつもりなの」
エレナに視線も向けぬまま問うアニエス。
それは『ラ・レクシル』の得意客であるセイル・ロダックからの昼食の誘いを受け態々こんな場所にまで足を運んでいる現状を、というよりも娼婦の真似事をいつまで続けるつもりなのか、という根本的な意味合いがより濃い。
「ガラート商会との契約が完了するまで……最初からそう言ってるじゃないか」
アニエスから滲み出る不機嫌な空気に感化されたのかエレナの言葉にも辟易した様子が窺え、それに当然気づいたアニエスの緑の瞳が一層冷たさが増す。
「貴女も人並みに女ということなのかしらね」
勿論それは完璧なまでの皮肉。
男共にちやほやされ、満更でもなく楽しんでいるいるのだろう、と暗に含ませたアニエスの呟きにエレナの小さな肩がびくり、と震え、
しっ……失敬だな君は、などと凡そこれまで聞いたこともない様な言い回しでアニエスから首を背けるエレナではあったが外からは窺えぬフードの奥の黒い瞳は明らかに宙を泳いでいる。
勿論アニエスの嫌味が的を得ていたという訳ではない……だが遠からず少なからずエレナには否定が難しい思い当たる節があり、これまで求められても応じる事など無かったセイルからの誘いを無碍に断れぬ状況を作り出してしまった己の失態故にエレナにはアニエスに対して強く物が言えないという状況が出来上がっていた。
現在の『ラ・レクシル』に置いてエレナを指名しても誰もが接客を受けられる訳ではない……それはエレナが選り好みをしているといった訳ではなく、最早その指名数は尋常ではない数に上り、それは『ラ・レクシル』を訪れる客の大半が、と表現しても過言ではないほどの数にまで達している。
故に主人であるミランダが選びエレナが接客する客たちは必然と『ラ・レクシル』にとって重要な極限られた一部の者たちとなるのは必然で、そしてそうした客たちのテーブルに出される酒類は宮廷の晩餐会ですら滅多にお目に掛かれない高級酒たちが並ぶのが最早慣例となっていた。
エレナは自分が多少、以前に比べて酒に対しての抵抗力が低下したと……はっきりと言葉にするならば弱くなった、という自覚はある……しかしその剣技や体力と同様に限界を見定める自信も己を自制できるという自負もまた持っている。
知らず体調が悪かったのだろうか……前回の酒の席で醜態を晒してしまった……正直その時の記憶は曖昧なのだが、自分が酒に飲まれたなどとは俄かには信じ難い話ではあったが、結果として『ラ・レクシル』と相手をしていたセイルに迷惑を掛けてしまったというならば開き直るつもりはないし反省もしている……しかし今の様にはっきりと娼館での生活を楽しんでいるのではないのか、と指摘された時、脳裏にはそれら高級酒たちの姿が浮かびエレナは激しく動揺してしまった。
そう……まるで恋する乙女の様に。
傭兵としての習慣であろうか、動揺を鎮めようと無意識にエレナの右手が自身の腰回りへとアル・カラミスの鞘へと伸び……だが空しくその手は空を切る。
其処に頼もしき愛剣の姿はない。
それもそのはずで、これから謝罪も兼ねてセイルに会いに行こうというのに、傭兵エレナ・ロゼではなく娼婦エリーゼ・アウストリアとして人と会うと言うのに娼婦が帯剣しているなどとは甚だおかしな話であり、それ故にアル・カラミスもエルマリュートも今は鞘ごとアニエスの背に預けられていたのだ。
「す……すみませんアウストリアさん……馬車だと……あっいや……馬車ですとこの時間混雑する……しますんで」
後ろの二人が何やら揉めている気配を察し、何が気に障ったのだろうか、とテオは気が気ではない様子で二人の方へと振り返る。
高級娼婦たちは高い教養と作法を習得した淑女然とした女性たち、という印象が強いが女とは恐ろしい者でその実淑女としての顔を見せる相手は顧客を始め限れれた人間の前のみ、という娼婦たちは少なくない……明らかに下っ端の傭兵然としたテオを格下と見下し驚くほどの傲慢さを見せる娼婦たちもまま居るのだ。
それをよく知るテオにとっては自身の態度や彼女との会話の中で、一体何処に地雷が潜んでいるのかが分らず正直生きた心地がしなかった。
確実に一回り以上は離れているであろうエレナに対して、テオの歳を考えれば小娘でしかないエレナに接する態度は丁重などと言う言葉では収まらぬ、其処には恐怖の色がある。
だが、無礼の無いように、と雇い主から、セイルから厳命されていた事がテオの緊張を孕む恐怖の源ではない……テオは脳裏に焼きついて離れないのだ……この少女を見た時のあのニコラスの表情が……。
テオが知る限りニコラス・ビアーダはシャリアテでも凄腕の傭兵である。
『鉄の輪』の中でも特にニコラスとの付き合いが長いテオは二人で幾度と無く死に掛ける様なやばい橋を、死線を超えてきた……それでもこれまでニコラスは受けた依頼を投げ出した事など一度としてなかったのだ……そう……この少女を直接見たあの日までは……。
ニコラスの恐怖に歪んだ表情……あのニコラスが関わる事を拒んだ存在、ニコラスの実力も気性も良く知るテオだからこそ、これまで見たことも無いニコラスの怯えた姿に、そこまでニコラスを追い込んだこの少女の存在は畏怖すらも超え最早得体の知れぬ化け物と変わらない……テオにはこのエリーゼ・アウストリアという女は少女という皮を被った別のナニカにしか見えなかったのだ。
「お気遣い有難う御座いますグラウスさん、大した距離ではありませんし何も問題はありません。むしろ皆様方にお手間を掛けさせているようで此方こそ申し訳ありません」
テオが意図してそうしていた訳ではないがどうしても小柄なエレナと向き合う形になるとテオが自然と見下ろすに姿勢になってしまう……結果として表情の窺えぬ少女の鈴の音の様な澄んだ声音だけをテオは耳にすることになる。
表情が読めぬ為それが少女の本心からの言葉かどうかはテオには判断が難しかったが、少女の声の調子からは不満げな、或いは不快げな響きは感じられなかった。
だがエレナの言葉にテオは目を見開き、背中に嫌な汗が滲み出るのを止められずにいた。
皆様方……だと……。
事前にミランダ経由でセイルがエレナに申し込んだ昼食への誘い……当日の今日、二人が滞在している宿に迎えにいったのも、そして今この場にいるのもテオ一人だけである。
無論、警護の体勢は万全を期している、向かいの歩道に二人、距離を置いて後方に二人、そして先行させている者が一人。
この場にはテオ一人ではあったが、その周囲には二人を囲む様に『鉄の輪』の団員たちが展開している……だがその事を二人に説明した記憶はテオには無い。
荒事を専門と、生業とする『鉄の輪』の団員たちは気配を殺し対象を尾行する隠密行動に長けた者たちが多い……その中でも今回は特に熟達した技能を持つ者たちを厳選して配していた。
だというのにこの少女は……この女は気づいているとでもいうのだろうか……前回の時とは比較にならぬこの人混みの中、自分たちを注視する者たちの存在に……。
本気で勘弁してくれよ……と、引き攣った笑みを浮かべるテオはエレナに薄気味悪いモノを見る様な眼差しを向けそうになり慌ててエレナに背を向け前方へと視線を逸らす。
そのテオの行為はかなり不自然であった事は否めず、何とか誤魔化さねば、と取りとめも無いままに口を開こうとしたテオの耳に不意に聞き慣れぬ男たちの声が届く。
――――商会は不当な労働条件を改めよ!!。
――――労働者の地位向上に協力を!!。
その声はテオにとっては救いの声といえただろうか、向かいの歩道から突如上がった声に反応する様にアニエスがエレナの前にとすっ、と身体を移動させる。
向かいの歩道で男たちの一団が通りを歩く人々に向けて声を張り上げている。
突如始まったその抗議活動を行う集団へとエレナは足を止め視線を向けるのであった。
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