167話


 眠らぬ街……不夜城として知られる色街の中でも一等地である中心街に広大な敷地面積と聳える様な娼館を構える永久の楽園『エラル・エデル』。

 華やかな美姫たちを揃え、顧客の多くが貴族や大商人たちという国内外を問わず多数の有力者たちとの繋がりを持つ『エラル・エデル』はシャリアテという一地方領の娼館という枠組みを超えて、多種多岐に渡る人脈の広さから四大国の国政にすら少なからず影響を与えるとすら噂されている高級娼館であった。


 国内だけを見ても災厄以降、内陸部の領地を失い地方領とは名ばかりの小規模な港街の集合体にまで没落したソラッソ地方や他の地方領と比較してもその発言力や影響力、果ては稼ぎ出す経済収入に至るまで今や単体である『エラル・エデル』が上回るとすら評されているほどである。


 故に此処二週間に渡り色街を騒がせている『ラ・レクシル』の飛躍的な躍進に、二大高級娼館の抗争に興味深く、或るは娯楽を楽しむ様に嬉々として観戦している多くの者たちも最終的には『エラル・エデル』の勝利を疑っている者は驚くほどに少なく色街に置いての力関係が大きく転換するなどと考えている者などは極々少数であった。


 それ程に『エラル・エデル』が持つ基盤は強固であり、色街という特殊な地に置いて他の追随を許さぬ絶対王者として君臨していたのだ。



 『エラル・エデル』の広大な敷地を囲む様に高く聳える外壁は重厚かつ強固な、それは娼館を囲う壁というよりも城塞を守る防壁といった様相を呈した堅牢なものであった。


 だが要塞や砦に見られる無骨な石壁のままでは幻想境とすら讃えられる娼館の概観を大きく損なうのは否めず、故に……いやだからこそだろうか、外壁には見事な浮き彫り細工が施されたさながら一枚の絵画の如く繋ぎ絵が描かれている。


 芸術的な価値を含め其れのみに置いても一見の価値がある高い外壁からは中庭を隔てた先に建てられている本館の屋根すら望むことは出来ない。だが只一つ敷地内、中天に聳える様に建つ白亜の塔の長き影を映し出している。


 外壁の高さを考えても街の中心街……しかも娼館の敷地内に建てられるには余りにも不自然なその白亜の塔はまるでお伽噺に語られる姫君が囚われている魔法使いが住む住処の様に……だが手入れが行き届き純潔を示すかの様な白きその外観は『エラル・エデル』という幻想境の中にあって何処か現実感を失わせる幻想的な光景として良く馴染んでいたとも言えた。


 白亜の塔の中、狭い螺旋階段を一人登る男の姿がある。

 歳の頃は五十代前半であろうか、白髪を黒く染め整えられた短い黒髪や高級感が漂う衣服を纏い落ち着いた雰囲気を持つこの男が使用人や給仕の者ではないことだけは明らかであった。


 塔の最上階、この白亜の塔で唯一設けられた部屋の入口で男、ラザレス・オールマンの扉を叩こうとする右手が寸前で止まる。

 扉の奥、部屋の中から微かにだが激しく咳き込む女性の声が漏れ聞こえラザレスは慌てて扉を押し開き部屋の中へと足を踏み入れた。


 ラザレスの視界の先、広い室内の隅に置かれている豪華な寝台に腰を掛けて座る若い女性の姿が映り、苦しそうに背を曲げ咳き込む女性の右手と口元が赤く濡れている事に気づいたラザレスは寝台へと駆け寄る。


 「クラウディア!! 直ぐに医者を――――」


 踵を返し医者を呼びに部屋を出ようとするラザレスの右腕にそっと伸びた女性、クラウディアの細い左手が触れ……添えられる。


 「心配は要りません叔父様……何時もの発作ですので直に治まりますから」


 まだ苦しげに、しかしラザレスを安心させる為か無理に浮かべたクラウディアの笑顔が余りにも痛々しくラザレスは顔を背けたくなる衝動を必死に押さえ込むと、そうか、と添えられた細い手に自身の手を重ね視線を合わせる為に床へと膝を付く。


 発作が治まってきたのか残る手で自身の胸に手を当て、探る様に深呼吸をするクラウディア……歳の頃は二十代前半、大陸では一般的とされる金髪を腰まで伸ばしそしてまた最も多いとされる青い瞳を僅かに伏せる。

 髪の色も瞳の色も特徴的なものは何一つ無い……だが彼女を一目見てその存在を忘れられる者が果たしているであろうか……彼女こそが『エラル・エデル』が誇る傾国の美姫クラウディア・メイズ。


 長き金髪は例えるならば黄金、穢れ無き純金。

 青き瞳が宿すのは清浄なる湖。


 物事を定める価値基準に水準というものがあるのだとすれば彼女は間違いなく逸脱者であろう……整った容姿、美しき身姿はエレナやエリーゼにすら比肩する紛うことなき絶世の美姫の姿が其処にある。


 だがこの三者を並べ見る者が居たとするならば傾国の、と付く別称はやはりエリーゼにこそ相応しいという結論に至ったかも知れない……それはクラウディアがエリーゼに容姿で劣るという意味合いではなく魅力の種が違う、というべきであろう。


 肉感的な美女であるエリーゼに比べ線の細いクラウディアの外見の印象は神秘性を秘めたエレナに似た雰囲気を与える何処か現実から乖離したもので、この光景を見た者でなければ彼女の……クラウディアの危うさを抱えた儚げな風情がその身を蝕む病魔ゆえと気づける者は恐らく居ないであろう。


 「叔父様、御用件をお聞かせ下さい」


 発作が完全に治まったのかクラウディアはラザレスの腕に添えていた自身の手をそっと離すと寝台の横に置かれていたテーブルから濡れた布を手に取り血で染まった口元と右手を綺麗に拭き取ると同じく置かれていた水差しから杯に水を注ぎ口に含みまるで口内の血を体内へと戻すかの様にゆっくりと喉を鳴らす。


 その一連の行為が余りにも手慣れている事から見ても本人が言う様にこれが偶発的な発作などではない事を証明してはいたが、返ってそれが彼女の病状が思わしく無い……より深刻な状況を感じさせラザレスに訪れた目的を告げる事を躊躇わせていた。


 「そなたの宿願を果たす日は近い……その為にもクラウディア……お前の周辺の警護をより強固なものにしたいのだ……」


 それはこの先クラウディアの身にも危険が迫る可能性が高くなる、とラザレスは暗に告げ、


 「今このシャリアテにライズワースでも名の通った高名な傭兵たちが着ている」

 

 と続ける。


 何処か遠回しなラザレスの言い回しは一代で『エラル・エデル』を色街最大の高級娼館へと押し上げた有能な成功者の言葉とは思えぬほど歯切れの悪いものであり、だがそんなラザレスの態度からクラウディアは正確にその真意を読み取る。


 私がその方々のお相手をすれば良いのですね、と。


 傭兵たちが提示した条件は金では無い……傭兵たちの目的は噂の傾国の美姫……つまりクラウディアであったのだ。そして傭兵たちの相手をするという事は酒の席に華を添えるという意味合いでは当然ない……高級娼婦として一夜を共にするという事だ。


 『エラル・エデル』に足繁く通い詰めていた傭兵たちが出していたこの条件をこれまでラザレスは保留にしてきた……しかし計画が最終段階へと近づくこの時期、有能な味方は、優秀な駒は多いに越した事は無い。


 しかし病状の悪化した今のクラウディアの姿をこうして目の前で見せつけられればラザレスとて人の子、絶対に必要、という駒ではない傭兵たちの為にクラウディアに無理を強いる事に迷いを感じてもいた。

 

 「私は私が望むモノの為に戦いを止める気はありません……女の身で非力な私の戦う術がこの身体だけだというのなら喜んで殿方にその身を預けましょう」


 傾国の美姫としてお披露目を済ませた時点で既に賽は投げらている。


 果たすべき宿願の為、己の野望の為、クラウディアもそしてラザレスも最早後戻りなど出来ない処まで事態は進みだしている。

 だがそれは当然否応なく、無理強いされてという訳ではなく、己の意思で己の覚悟の下で。


 利用すべき女に教えられるとはな……。


 真っ直ぐに自分を見つめる揺るがぬ眼差しを前にラザレスは己の不甲斐無さを内心で笑う。

 そして儚げでありながらも芯強き女性の姿に僅かに目を細める……それは本当の近親者、叔父が姪を見る様な肉親の情を感じさせる何処か温かなものであった。

 

 五年目……災厄以前の動乱期、シャリアテがまだ小さな港街に過ぎなかった当時、奴隷同然に荒くれ者たちの相手をさせられていたこの娘を身請けしたのは同情や哀れみからでは無い……美しく成長するであろう可能性の片鱗を垣間見た故であった。


 愛情の欠片も無いそんな打算的な理由ではあったが、クラウディアが美しく成長していくにつれ最高の教育を施してきた……そして同時に巧みに復讐心を芽吹かせ煽り、今のクラウディア・メイズという人間を作り出したのだ。

 その事にラザレスは微塵の罪悪感も抱いてはいない……あの劣悪な環境下、自分が手を差し伸べねばクラウディアはこの歳まで生きていられた筈などないからだ。


 「クラウディア、欲しい物があるのなら何でも言うと良い、私はお前を利用して目的を果たそうとしているのだ、お前も私を最大限利用するといい」


 クラウディアはラザレスの言葉に、いいえ、と横に首を振る。


 「私が欲しいモノは昔も……そして今も只一つだけ……それはもう直ぐ叔父様が用意して下さるのでしょう?」


 「無論だ、私とお前の利害は一致しているのだから」


 ラザレスの答えにクラウディアは本当に……本当に嬉しそうに無垢な少女の様に微笑んだ。


 ラザレスは知っている……その微笑に隠された悲しき彼女の悲壮なる決意と覚悟を。


 事が成就すればシャリアテは大きな混乱に見舞われるであろう……多くの死者を出すかも知れない……だがそれでも成さねばならない。


 この日の為にクラウディアを育て……そして……。


 人並みの幸せすら知らず、それを本当ならば与えてやる事が出来た筈の自分が彼女にしてきた罪深き所業の数々をラザレスは思い起こす……だからこそ最後に花を添えてやらればならない……遠からず逝くであろう幸薄い娘のただ一つの望みを、彼女の為に、そして己の為に。


 

 部屋を後に螺旋階段を下るラザレスの影を壁に備え付けられていた僅かな篝火の淡い光が長い影となって作り出す。


 「回りくどいやり方はもう良い……手段は選ばぬ、場所も問わぬ、確実に殺せ」


 ――――承知。


 闇が応える。


 ラザレス以外の気配など微塵も無く、身を隠す場所すらない筈の螺旋階段で確かにソレはそう応えた。


 ラザレスにとって『ラ・レクシル』など始めから眼中にない……脅威とすら感じてなどいない。

 だがそれでもこの時期に、この場所に傾国の美姫に並ぶ者が居てはならぬのだ……それこそが全ての計画の破綻に繋がりかねない最大の脅威……唯一の懸念材料。

 

 その娘の身に例え何が起きても娼館同士の揉め事の結果として処理されるであろう今だからこそラザレスは最大の切り札を切る事に躊躇は無かった。


 「想いの強さが……何かを望む渇望が事の成就の最大の要因であったのならば世界はもっと単純で分かり易いものであったのだろうな」


 それは自虐にも似た独白。


 苦笑と呼ぶには余りに多くの感情をその口元に湛え、ラザレスはまた一人歩き出す。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る