169話


 人間は生れ落ちた時点で既に平等ではない……両親や周囲の環境でその子の人生の大半が既に決まってしまっていると言っても良い。

 才能や才覚を持つ者はどんな環境に身を置いていても頭角を現す、などと希望を寄せ、或いは縋り、未来への夢を語る者たちも居る。

 しかし自らが戦争孤児として孤児院で育ち、実の両親すら知らず、一時は焼き払われた村の……燻り、炭化した数多の醜悪な死体に身を潜めて暮らす地獄の様な幼少期を生き延びた経験を持つエレナは世界がどれほど残酷なモノなのか、不条理なモノなのかを誰よりも知っていた。

 才気に溢れたレイリオやシェルン……そしてこれから会おうとしているセイルもまた確かに優秀な能力を有する逸材なのだろう……しかし百年以上も続いた大陸の動乱の中、戦場で、疫病で、貧困で命を落としていった数多の死者たちの中に彼らと並ぶ、彼ら以上の才能に溢れた者たちが果たして居なかったといえるのか。


 そんな筈などないではないか。


 才能や才覚、そんな物など関係なくお構いなく、人間は時にあっさりと呆気なく不合理に不条理に理不尽に死んでいく。

 歴史に名を残せたかも知れぬ、人々の生活に革新を齎せたかも知れぬ多岐に渡る数多の才能たちが人知れずあの戦役で死んでいったことだろう……。

 

 だからこそ、死が等しく訪れるモノだからこそ、人口を激減させた未曾有の災厄を経て尚、今を生き抜く人々は才能という名の先天的なモノに寄らず誰もが運命の女神ファルーシアから贈り物を授けられた特別な存在なのだと思いたい……いや、エレナは信じたかった。

 

 人の歴史を紐解くとそれは争いの歴史だという……だが戦争とは、戦乱の世とは黙示録に語られる大蛇……己の尾を食らう終末の蛇に似て、人類を一つ個としてみた時、人間たちは自らの手で滅びへの道を、終末への扉を押し開こうとしている愚かな存在なのかも知れない。

 だとしてもエレナは間違いながらも抗い生きる人間の可能性はいつの日か世界すらも変えられると……その未来には救いがあるのだと、強く望みまた願わずにはいられなかった。


 ああ……もうそんな時間か、とテオは日差しが眩しい空を一瞬見やる。


 「貧民街に住む日雇い労働者共が休憩に入ったんですよ、奴らは休みの時間を利用してああやって抗議運動の真似事みたいなのをやってるんで」


 「そんな事をして彼らは大丈夫なんですか?」

 

 彼らが置かれている立場を良く知るエレナは、表立って雇い主……商会に抗議することで彼らが被る不利益を心配していた。国によって異なるがビエナート王国の様な封建的な国ではこうした行為は最悪、騒乱罪の対象にも成りかねない危うい行為であったのだ。


 だがエレナの耳に届く彼らの主張は真摯な、切実なものであり、当然の権利を主張する彼らの言葉に商会に対する不満は感じられても不穏な空気は見られない。

 彼らの現実を前に、言葉を耳にしエレナは瞳を伏せる。


 安定した収入と待遇が約束されている長期の契約労働者たちど比べ、日毎に契約を更新する短期の日雇い労働者たちは安い賃金で危険な作業や重労働を課せられる比率が非常に高い。

 だが他に日々の糧を得られる術の無い者たちは例えそれが不当に思える待遇であったとしても飲まざるを得ず、結果として安い賃金で働かされている彼らの生活は常に困窮し、募る不満や貧困を脱する為にやがて犯罪へと手を染めていく。

 この様な問題はシャリアテだけの特別な事情という訳ではなく、大陸のどの都市や街でも当たり前に見られる……極ありふれた光景であったのだ。


 富める者はより富み、貧しき者はより貧しく。


 世の格差を皮肉った風刺、古い詩篇の一節であったが、人は今も昔も変わらぬとまるで示すかの様に今ではその意味は変質し当たり前の真理として広く知られている……それは一周してまさに皮肉の極みであろう。


 「ああやって集まっても個々人の主義主張はてんでばらばら、求心力を持つ先導者も支援者もいない。もし面倒なら今日で契約を切っちまえばいいんですしね、所詮は烏合の衆でしかない連中のことなんざ正直商会は歯牙にも掛けていませんよ」


 身振りを踏まえ声を張り上げ必死に訴えている男たちの前を始めは驚いた様に顔を向けていた通りを歩く人々もやがては関心が失せた様に男たちの前を通り過ぎていく。

 それ以降男たちに見せる人々の反応はまるで申し合わせているかの様に似通っていて……胸にぞわり、と何かが蠢いた様でエレナの右手が知らず握り締められる。

 

 空気……其処には始めから何も無かったが如く、男たちなど居ないかの様に談笑する相手から視線すら逸らさず必死に訴えかける彼らの前を人々が通り過ぎていく。

 迷惑げな視線を送るでもなく、不快げに表情を曇らせるでもなく、人々が彼らに見せるのは、抱くのは無関心……エレナにとってそれは人が人に向けるには余りに悲しく、そして残酷な感情に思え無意識に一歩足を踏み出していた。


 刹那――――伸ばされたアニエスの手がエレナの腕を掴む。


 白いエレナの細腕に薄っすらと赤みが差すほどにそれは握る、と表現したほうが正しい力強いもので、エレナを見下ろすアニエスの瞳が雄弁にその心情を語っていた。


 一体何をしようというのか、と。


 「貴女は関わるべきではない……いいえ、関わっては駄目よエレナ」


 本人の自覚が何処まであるかは分からない……しかしオーランド王国に置いてエレナ・ロゼの名は一介の傭兵としての存在を超えて強い影響力を持っている。

 剣舞の宴の勝利者であるエレナは王都ライズワースの民衆の絶大な人気と支持を集め、また先のトルーセンでの一連の騒動を経て上位貴族であるロボス・ウィンストンとも知己を得ている。

 そして何より王国の頂点たるランゼ・クルムド。オーランドから城門を開いて待つと言わしめたエレナは望みさえすれば何時でも爵位を持つ純貴族に、最高峰と謳われる誉れ高き聖騎士に成れる存在なのだ。


 だがそうした全ての背景を廃したとしても、もし彼らの活動にエレナが協力した場合、大きく何かが変わるのではないか、という確信めいた思いがアニエスにはある。

 エレナのこうした損得すらも顧みない行動は時にアニエスを期待させ、時に恐れを抱かせる。


 ライズワースを遠く離れ、目指す中央域とのほほ中間点に位置するこのシャリアテで、情報の伝達速度が著しく遅れている現状で、何処までエレナの名が周知されているかは分からないが、表立ってエレナが行動すればその光に誘われる様にその名を利用しようと思う者たちが現れる事は目に見えている。

 

 そうした懸念材料を別にしても各商会が独自に労働の対価として定める待遇は異なるとはいえ、基本となる、基準となる条件は商工会が定める条件に批准している……つまり彼らの待遇の改善を勝ち取る為には三大商会の者たちを中心とした商会全体を、商工会いう組織と交渉せねばならぬ事だけを考えても如何にそれが容易な事ではないかが窺えるであろう。


 たかだか十数人の契約を見直す程度の損失など、どの商会にとっても大した損失になる訳ではない……しかし彼らと同じ、表に出ていないだけで同様の不満を持つ潜在的な労働者層は恐らくシャリアテだけでも数万人にまで達する。

 もし一部の者たちにだけその様な条件を飲めばどうなるか……商人ではないアニエスですらその結果は容易く想像できる。


 人間は他者と比べ自分だけが不当な扱いを受けていないと思えるだけで安心できる……我慢が出来る……皆も同じなのだからと本心を誤魔化して生きていくことが出来るのだ。


 だが自分と同じ筈の誰かが、自分ではない誰かがもしそんな恩恵を受けたと知れば彼らの不満は爆発し、その波紋は瞬く間にシャリアテ全体に広がるだろう。


 数万人規模の抗議運動など、いつ彼らが暴徒化するかも分からぬ様な状況にまで事が発展すれば領主も黙って傍観などしている筈がない……そうなれば行き着く先は闘争だ。


 だからこそ商会も商工会も彼らとの交渉に応じる事などないだろうとアニエスは思う。

 だが仮に……万が一にでも最悪の状況にまで至った時、労働者たちの、弱き者たちを救う為にエレナは敢えて御旗として希望の象徴として闘争の中心に立つのではないか……アニエスはそれにこそ恐れを抱く。


 それら全てはアニエスの想像であり大げさな妄想かも知れない……だがあるかも知れない可能性、あるかも知れない未来の一つ。


 エレナ・ロゼという少女を良く知るアニエスだからこそ彼らの姿を見て彼女が抱いている思いは理解が出来る……それが例え自分が抱いている感情とは異なるものだとしても、だ。


 だがこの問題は遠からずこの地を去る自分たちが、最後まで関われぬであろう自分たちが、一時の感情に任せて安易に関わって良い種の簡単な問題ではない。

 多くの人間の人生を、運命を変えてしまうかも知れぬ問題に半端に関わることは誰一人として得などしないのだから。


 「分かってる……だから放してくれ……」


 エレナの呟きは言葉と声の調子が噛み合わぬ違和感を感じさせ、アニエスはエレナの腕を放す機会を逸する。

 尚自分の腕を放さないアニエスに向き直る様に見上げるエレナの睨む様な眼差しがアニエスを見据える。


 「放せと言っている」


 静かに怒りを湛えた黒き瞳とアニエスの眼差しが交差し、張り詰める様な空気の中、やがてアニエスの手がエレナの腕から外される。


 沈黙というには余りに重苦しい時が流れ、行こう、と短く呟きエレナが歩き出すまで一瞬とはいかぬ長き時を必要とした。

 短いその一言を発するまでに掛かった少なからぬ時間がエレナの葛藤の深さを物語るようで……だがアニエスは自分の前を歩き出すエレナの背を見つめ安堵している自分に気づく。


 エレナに亡き英雄たちの面影を重ね希望を寄せる自分が、己の価値観に置いて弱さとも思えるエレナの姿に、普通の少女の様に迷い悩むエレナの姿に、等身大の少女、当たり前の普通の人間の如く見えるエレナの姿にほっとしている自分に戸惑いすら感じていた。



 エレナたちが居る歩道と向かい合う歩道の路地に男が一人姿を消していく。

 所々泥と汗が滲むみすぼらしい身なり、一目で肉体労働者と分かる中年の男は裏路地へと続く細い路地を歩く。


 「目的はどっちだ?」


 不意に背後から掛けられた声に中年の男は驚いた様に振り返る。


 「な……なんでしょうか?」


 中年の男の怯えた眼差し……その視線の先には浅黒い肌を持つ長身の男が立っている。


 「どっちがお前の狙いなのかと、獲物なのかと聞いている」


 長身の男、ニコラス・ビアーダは野生の獣が獲物を狙う様な鋭い眼差しで男を見据える。


 「わ……私は、頼まれて抗議に参加してただけなんです……もう二度と参加などしませんから……か、勘弁してください……」


 自分が雇われている商会の人間だと勘違いしたのか中年の男は慌ててニコラスに懇願する。

 その姿は気の弱い、ニコラスの目から見ても取るに足らぬ人間にしか見えぬ情けない姿であった……だが。


 「遅れて参加した割には始まったばかりだというのにもう帰るのか」


 「仕事がまだ残ってるんですよ……だから本当に数合わせで少し参加しただけで……」


 勘弁して下さい、と弱々しく男の右手がニコラスへと伸ばされる。

 全く害意も敵意も感じさせぬ、救いを求めるかの様な男の腕――――瞬間、ニコラスの足元の石畳がきゅるっ、と滑る様な異音を狭い路地に響かせる。

 

 ニコラスの左足が石畳を擦り生じた摩擦音と共に、軸足を残し反転した右脚が旋風の様に男の腕を掻い潜り男の顎へと直撃する。

 その衝撃は凄まじく、男の顎の骨を一瞬で粉砕するのみならず、生じた圧力で男の両眼が浮き上がっている。


 不意打ちに近いニコラスの一撃を受けた男はそのまま後方へと弾かれた様に倒れ込み、ピクリとも動かぬ男の顔面から流れ出す血が瞬く間に石畳に血だまりを作り出していく。


 完全に即死であろう男の姿を暫くその場から眺めていたニコラスはやがて男の下へと歩みを寄せ屈み込むと、伸ばされていた男の右手から微かに匂う甘い香りに眉を顰める。


 

 「悪いな、俺は自分の直感をこれまで疑った事はないし、外した事もないもんでね」


 覚えのあるその香りは……暗殺に用いられる猛毒の……。


 男の右手の指先にまで視線を移したニコラスの視界に爪が紫色に変色した男の中指が映り込む。


 特殊な技能を持つ暗殺者の中でも己の身体の一部を猛毒となし対象を毒殺するこの手の者たちは古流と呼ばれる古い歴史を持ち、故に動乱期の大陸で暗躍したこうした連中とはニコラスといえども出来れば関わり合いたくない種の人間たちである。

 そもそも毒に対する抗体を得る為に長期に渡り毒を体内に取り込むなどと、その過程でいつ命を落としてもおかしく無い馬鹿げた行為を平然と行える異常者どもの相手など誰に聞いてもニコラスと同じ答えが返ってきただろう。


 「まあ……それでもあの女よりは大分ましか……」


 何かを、誰かを思い出したのか、表情を歪ませながらニコラスは立ち上がるのであった。

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