164話


 「師匠ー、ご飯が出来ましたよー!!」


 奥の部屋へと声を掛ける女性の声に部屋の壁がミシミシ、と応える様に軋む。

 二部屋あるとは言え恐ろしく狭い間取り、床や壁には無数の亀裂が奔り、雨の日には雨漏りに悩まされるこのあばら家が女性、トリシア・エインズワースの住居でありやっと手に入れたトリシアの城であった。


 シャリアテでも低所得者層……その中でも最底辺の者たちが住む『貧民街』。

 隔離政策があったと言う訳ではなく、元々はシャリアテの都市整備の為に集められた日雇い労働者たちの仮設住宅が並んでいたこの区画は、時の流れの中、夢に敗れた者たちや負債を抱え追いやられた者たちが集まり暮らす一つの集落を形成していた。

 負け犬たちの住処、と街の者たちから侮蔑の目で見られる貧民街ではあったが、その劣悪な環境と治安の悪さゆえにこの土地の値段は恐ろしく安い。

 シャリアテの法では土地を、住居を持たぬ者は住民としての登録を認めておらず、只の滞在者としての扱いに留まってしまう……そして滞在者には本来住民が受ける事の出来る法令に寄る恩恵は与えられない。

 住居不定、身分の保障すらないそうした者たちは働こうにも、割に合わぬ短期の日雇いの仕事以外商会からは斡旋されず、行き着く先は目先の金に目が眩み犯罪紛いの行為に走るという悪循環を繰り返し、それが更に貧民街の評価を落としていくという負の連鎖を招いていた。


 だからこそ貧民街の一角とは言え、住居を得てきちんと登録を済ませ住民としての権利を持っている自分はまだましなのだとトリシアは思っている……雨露を凌げるだけ自分はまだ恵まれているのだ、と。


 「飯じゃ飯じゃ」


 トリシアの声に反応して奥の扉が開き、七十歳を過ぎている様にすら思える腰の曲がった老人が杖を付いた姿で現れる……魔法士である事を示す特有のローブを纏ったその老人はお伽話から抜け出た様な、年老いた老魔法使いそのままの姿でテーブルの前の椅子へと腰を掛ける。


 「なんじゃいトリシア……これが晩飯かえ?」


 老人の前に、テーブルに並んでいるのはかびが生え掛けた見るからに硬そうなパンが二つ……隣の皿には湯気が昇り温かいのであろうが、具材が見当たらない透明なスープ……そして唯一の贅沢なのだろうか、寝かす事に何の意味もない安物の酒瓶が取り切られていない埃と共に置いてある。


 そしてこれが今晩の夕食の全てであるようだ。


 「歯が無いわしにはこんな硬いパンは食えんぞ」


 「スープに浸せば柔らかくなりますから」


 「スープとは……このお湯の事か……」


 「失礼な、捨てられてた野菜を……こほんっ、譲って頂いた野菜が入ってますよ」


 弟子との不毛な攻防に目が眩んだのか、諦めた様に深く溜息を付き老人は大人しくスープを一口含み――――手が止まる。下味らしきモノすら感じられず、口内に広がる僅かな塩味……老人はこれに良く似た液体に覚えがあった……そう、それは海水だ……。


 「飲めるかぁぁあ!!」


 思わず叫び声を上げて見上げた視線の先にトリシアの冷たい眼差しが老人を見つめていた。


 「師匠……あんまり我侭ばかりいってると道端に、ぽいっ、しちゃいますからね」


 ご丁寧に身振りまで添えるトリシアの姿に老人はぐぬぬぬ、と唸る様に黙り込む。



 そんな老人の……師匠の姿にトリシアは内心で大きく溜息を付いていた。

 トリシアも本当ならばもっと良い物を食べさせて上げたい……いや、自分も責めてもう少しましな食事をしたかった……しかし協会に所属していない魔法士であるトリシアでは魔法士として協会の庇護を受けることは出来ない。

 体力も力も無いトリシアでは肉体労働などは望むべくもなく、酒場や食堂の給仕の仕事などは魔法士だというだけで断られてしまう……身分を偽って仕事に就こうとしても住民として登録しているトリシアの素性など役所で調べれば直ぐに分かってしまう……これは住民登録の弊害などではなく偏見……魔法士に対する言われの無い偏見は今尚人々の中に根強く存在しているのだ。


 それでも何とかトリシアが食い繋いでこれたのは付加魔法『エンチャンタ』を付与した道具を協会に卸せていたからなのだが、それすらも協会の善意で……お情けで仕事を貰っているにしか過ぎず、身銭を切って購入した壺や陶器に耐久性向上などの魔法を付与しても掛かる手間に見合わない見入りしか見込めず、酷い時などは収支が零などという日もざらにある。

 付加魔法が施された品々などこの街には……大陸全土を見ても珍しくも無く、一般の、低位の魔法士ですら当たり前に使える付加魔法で得られる恩恵など、供給過多な現状ではさして価値の高いものではないということだ。


 これでは生活が困窮していくのも仕方が無く、さりとて画期的な打開策なども浮かばない……はっきり言って八方塞がりなこの現状に内心トリシアも頭を抱えていた。


 袋小路に迷い込んだ様な錯覚すら覚え、トリシアは目の前の老人を頼りなげに見つめる。


 トリシアの視界に映る老人は無言でパンをスープに浸し、固さを確かめる様に指でパンを突いている。


 老人の名はフルブライト・エクオース……錬金術師『アルケミスト』の異名でかつて大陸でも名の知れた魔法士――――だったと本人は語るが勿論トリシアは聞いたこともない。

 魔導全般に豊かな知識を有し、中でも魔導船の魔導技師としては抜きん出た技術を持つと当人は豪語しているが、トリシアに認められるのは前者のみであり、後者に関しては眉唾なのでは、とやや穿った見方を持っている。

 しかし何かにつけて身体の不調を訴える呆け老人然としたフルブライトの魔法についての知識だけは本物であり、それゆえに生活の面倒をみてまで弟子などをやっているのだが。


 災厄以降、魔導船の新造艦はオーランド王国のみならず、他国でも一隻も建造されていないと聞く。その理由などはトリシアには分かる筈もなかったが、そうであるならば大量の失業者が生まれているであろう魔導技師たちの現状を思えば、まあ高齢でもあるフルブライトのこの落ちぶれようも分からなくはないとも言える。

 名を馳せていたとは言っても一世代……いや、フルブライトの年齢を考えれば二世代は前の話しなのだろうから。


 そんな事を漠然と考えていたトリシアの背後でバンバンッ、と外から叩かれた衝撃で出入り口の木の扉が大きく軋み悲鳴を上げる。


 「ちょ……今開けますからそんなに強く叩かないで下さーい!!」


 トリシアが焦るのは無理も無く、叩かれた反動で扉の蝶番が歪み掛けている……もし壊れて扉が外れでもしたら無駄な出費が……いや、直す金などもう無い。

 

 「師匠――――奥の部屋に――――」


 振り向き様トリシアは叫ぶが、既にテーブルの席にフルブライトの姿は無い。

 同時にパタン、と控え目な音を立てて奥の部屋の扉が閉まる音がトリシアの耳に届く。


 あのジジイ……こんな時だけは元気なんだから。


 師匠に対してあるまじき毒を吐きながらもトリシアは咄嗟に笑顔を作ると駆け足で駆け寄り扉を開ける。

 こんな時間に訪れる客に心当たりがない以上、誰が来たかなど考えるまでもなく、そしてその人間たちは待たされれば扉を本当に蹴破りかねない……そんな人種の者たちなのだ。


 「おうトリシア、ジジイは居るか?」


 予想が外れて欲しい、そんなトリシアの願いも儚く、予想通りの人物の姿が其処にはあった。


 「いやー、最近、師匠の老化が大分進んでまして……夜な夜なその辺りを徘徊してるんですよね……」


 「てめえ、出鱈目いうんじゃ――――」


 笑顔でしれっと嘘を付くトリシアに、男の背後に立っていた別の男が顔色を変えて恫喝するが、珍しく、といってもいいだろう、トリシアの前に立つ男、ベネル・ギーレは余裕の表情を浮かべ、後ろの男を制した。

 ベネルの気性の荒さを良く知るだけにトリシアは不気味な余裕を見せるベネルの姿に嫌なものを感じ、知らず冷たい汗が背中に滲む。


 「その割には二人分の晩飯が用意されてる見てえだけど、目の錯覚かねえ」


 「私こう見えても食べ盛りなんで……」

 

 自分でも苦しいと分かる良い訳にもベネルはにやにやと薄笑いを浮かべるだけでトリシアに食って掛かる様子は見られない。


 「まあいいさ、今日は別に借金の取立てに来た訳じゃねえんだよ」


 と呟くベネルの姿にまずい、とトリシアは事態の深刻さを直感的に気づく。


 「爺さんの債権……金貨一枚だったな、それをうちが引き取った、つまり今日から俺ら『三叉の矛』がお前らの債権者って訳だ」


 「あのー借金をしてるのは師匠であって私は関係が――――」


 「俺らにそんな屁理屈が通ると思ってんのか?」


 お世辞にも上品とは言えぬ笑みを浮かべているベネルの目は、まったく笑っていない。


 「一週間だ、一週間だけ待ってやる、それまでに耳を揃えて返しに来な、それが出来なきゃお前さんを娼館に売っ払う、いいな?」


 トリシアが何か返答をする前にバンッ、と目の前の扉が勢い良く閉まる。

 それが何より如実に現実を現していた……彼らにとってトリシアの意思など関係ないということを。


 師匠であるフルブライトがこの街の商会に金を借りたのはトリシアがフルブライトと出会う一年以上も前の話だ……その商会の会頭は魔法士に理解のある希少な人物であったらしくこれまで遅れたり滞納しながらも利子を返してきていたトリシアたちの返済を忍耐強く待ってくれていたのだが……。

 だからこそ回収を請け負っていた傭兵団『三叉の矛』の連中も依頼主の意向なのだろう、そう無理な取立てなどはこれまで控えていたのだろうが、商会から買い叩いたのであろう、債権を肩代わりして自分たちが債権者となった今、『三叉の矛』の連中の取立てがこれまで通りで済む筈もなく、先程のベネルの通告が脅しだけではないこと位は馬鹿でも分かるというものだ。


 金貨一枚……この街の人間にとってそれは十分に人を殺してでも手にする価値のある額であり、まして貧民街の住人の命など彼らにして見れば物以下であろうことは疑いようもない。


 「どうしよう……このままじゃ売られちゃう……」


 途方に暮れ、トリシアはその場にしゃがみ込んでいた。


 娼館とはいっても千差万別、身体を売らなくても稼げる高級娼館も幾つかは存在する……しかし『三叉の矛』の様な傭兵団にそんな伝手があるとは思えない……恐らくは低俗な売春宿、最悪街頭に立たされるかも知れない……どちらにしても身体を売らされる事に大きな違いはないことだけは間違いない。


 「大変じゃのう……」


 と、他人事の様に呟くフルブライトの姿が少しだけ開かれた奥の部屋の扉の隙間から聞こえ、


 誰のせいなのよ!!、とトリシアは心の中で毒づく。


 しかし師匠はこういう人なのだ、と直ぐに納得……いや、諦めていた。

 天才と何とかは紙一重というが、フルブライトはまさにそれに当て嵌まる典型と言えようか……トリシアを始め特殊な価値観を持つとされる魔法士の中でもフルブライトは飛び抜けている……この際はっきり言おう、師匠は変人である、と。


 「まあ、まだ一週間もあるし何とかなるよね」


 深刻な顔で蹲っていたトリシアは一転して立ち上がり、テーブルへと向かう。

 悩んで解決できる事ならとっくに解決策など思いついている……それでも思いつかないのだから考えても仕方が無い、明日から足を棒にして金策しよう、と。

 前向きというには恐ろしくトリシアは切り替えが早かった。


 「さあ師匠、冷めない内に食べちゃいましょう」


 テーブルに座り声を掛けるトリシアの表情にはもう陰の様なものは見られない。


 本人は認めたがらないかも知れないが、この光景を目にした者ならば誰でも思うであろう、この師匠にしてこの弟子あり、と。


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