165話
「済まんね、また機会があれば寄っておくれよ」
社交辞令以外の何物でもない言葉のみを残し、満面の笑みに確固とした拒絶の色を浮かべた店主の男は、トリシアを連行……いや、トリシアは見送られて商会の外へと追い出される。店へと戻る店主の男が去り際に一瞬、疫病神でも見る様な眼差しをトリシアに向けるが、最早見慣れたその表情にトリシアが衝撃を受ける様なことはない。
そんなトリシアの姿などこの街では珍しくもないのであろう、街頭に佇む彼女を気に留める者など誰一人としていない。行き交う人々の中、トリシアは一人、はあ……、と深い溜息を付いた。
朝から商業区を巡り金策に駆け回っていたトリシアであったが、此処まで銅貨一枚貸してくれる商会は一つとしてなかった。
端から相手にされないであろう、大手の商会を避け、多少なりと顔を見知った、付き合いのある中小の商会やシャリアテに根をはる露天商たちの下を訪れていたトリシアであったが結果は見ての通り惨憺たるものである……だがそれが予想外の事態かと言われれば、無論そんな筈もなく或る意味想像通りの結果であると認めざるを得ない。
貧民街に住む魔法士、その上収入も安定しないトリシアに金を貸す物好きなど居る筈もなく、現金での取引ならば物を売る……所詮その程度の付き合いでしかない彼らにとって、トリシアに恩を売るだけの利もなく、回収が困難な不良債権になる事が明白な人間に関わろうとする馬鹿な商人などこの街には居ない。
トリシアは懐の巾着に手を伸ばし、中の硬貨を外見から確認する……銀貨が一枚と銅貨が四枚……それが今のトリシアが持つ全財産であった。この中から明日、協会への納品を約束している幾つかの陶器を購入せねばならない事を考えると残る額などそれこそ高が知れている。
銅貨五十枚が銀貨一枚と等価であり銀貨三十枚が金貨一枚に相当する。これらの他にも金貨五十枚分、百枚分という徽章金貨と呼ばれる商人たちが大口の商談で重宝されている特殊金貨も存在していたが、トリシアの様な人間がまずお目に掛かることなど無い希少硬貨である。
これらの硬貨は単純に鉱石の採掘量に批准する価値基準ではあったが、大陸で統一された硬貨の価値は各国で発行するどの硬貨も一対一で取引されるよう、純度の均一化を定めた大陸間協定に準じている。
三大商会が物流の安定化を掲げ尽力した統一硬貨の設立以前……五十年ほど前までは純金の含有量など各国で金貨の価値が異なり、オーランド金貨、ロザリア金貨、などと価値に応じて呼び分けられていたが協定の締結後は主に統一金貨、または只の金貨、とその呼び名も統合されている。
大陸間協定の締結以降、領地に金鉱を持たぬ小国などは価値の低い金貨……自国での通貨を発行出来ぬようになり、経済的に困窮した小国が大国へと併合される大きな要因となる。それが結果として五大国時代に拍車を掛け、大陸の長き戦乱の世への引き金となった、と一部の歴史家たちから避難の的となってはいるが、その功罪は共に大きく今だ結論の出ない問題として今尚、研究者たちの課題の一つとされていた。
尋ねていない商会はまだある、と切り替え歩き出そうとしたトリシアの視界にすれ違う様に通り過ぎる二人の少年たちの姿が映る。
この街の住人であるトリシアには住民とそれ以外……旅人や傭兵、観光客たちを服装や雰囲気だけで漠然とだが見分けることが出来る……そしてこの少年たちにトリシアは鴨……もとい、希望を瞬時に見い出す。
「其処の貴族様!!」
トリシアの声にすれ違い背を向けていた二人の少年たちの足が止まる。
よし、第一関門突破、と胸の内で拳を握りしめる。
二人の少年たちの服装は明らかにこの街に住む者たちとは異なる……それなりに上質な衣服から見ても観光で訪れたどこぞの金持ちの子息か貴族の子弟か……これ見よがしに腰に吊るしている長剣から見ても恐らく後者であろうとトリシアは当たりを付けていた。
「恐れながらご着任でしょうか、それともご観光で?」
二人が旅慣れていないのは歩き方や挙動からも察することが出来た……後はこの二人の目的次第で職にありつける可能性が出てきた、とトリシアはか弱い、無害な女性を装う様に上目遣いで二人を見つめる。
「お嬢さん、僕たちは――――」
「平民……それも魔法士風情が、無用な詮索をするつもりか」
気の弱そうな金髪の少年とは対照的に上背のある亜麻色の髪の少年が鋭い眼差しをトリシアへと向ける。
「いえいえ……滅相も御座いません……わたくしは只、供回りもお付けにならず不慣れなこの街を歩くのは些かご不便ではないかと思いまして……その……お力になれれば、と」
自分よりも確実に年下であろう少年たちに胸の前で手揉みでもしかねないトリシアの姿は、十代の年頃の娘にありがちな恥じらいなどは微塵も見られない。
魔法士ゆえ、という訳ではなく自身の容姿や肢体が一般的な価値基準の中で人並み程度であり、人目を惹く美貌などを持ち合わせてはいないこと位は本人は当に理解も納得もしていたし、またそんな恥じらいや女としての見栄がこの街で生きていく上で、無用の長物である事も日々の生活の中で思い知らされてもいた。
生来の性格に加え、生きる為に身に着けた図太さを持つトリシアにはこの程度の卑屈さなど毛ほども恥じ入る要因にはならず、それ故にトリシアは見た目の美しさとは別種の、雑草の様な逞しさを持つ女性であった。
「俺はお前の様な卑屈な女は嫌いなんでな、とっとと――――」
「止めなよクロ、可哀相じゃないか」
今度は大人しげな少年がクロと呼んだ少年の言葉を遮る様に窘める。
おやっ、と内心で首を傾げるトリシア。
気の弱そうな少年の意外な態度にトリシアは困惑する……主導権はてっきりきつい感じの少年、クロと呼ばれた方の少年が有していて、此方の少年は付き添い程度の自分の意見を主張できぬ種の人間だろう、と第一印象からそう判断していたのだが……。
「いいんじゃないかな、僕たちの代わりに色々と動いて貰えそうだし雇って見ても」
「冗談だろレオ、初めて会ったこの女の何処に信用できる要素がある」
「そうだけど、困っている女性がいるのなら見過ごせもしないだろ」
今がその時、とばかりにトリシアも懇々と自分の不遇さを二人に語り出す。
年老いた同居人がいること、定職に就けぬこと、そして多大な借金を背負わされていること……他で話せば鼻で笑われるお涙頂戴の三文芝居染みた話ではあったが、他所から来た裕福な坊ちゃんたちの同情を買えるかどうかの瀬戸際という事もあってか、それは中々堂に入った話しぶりであった。
「助けを求められれば手を差し伸べる、あの人はそういう人だったよね」
トリシアの話にも感情を動かされた様子を見せなかったクロと呼ばれた少年は、レオと呼ばれた少年のその一言に黙り込む。
トリシアにして見れば、そんな聖人君子の様な人間がこの世に居る筈ないだろう、と思いながらも恐らくは何の不自由もなく暮らしている貴族の戯言を真に受けて信じている二人の滑稽さを笑う様な事はせず心の内にそっと仕舞い込む。
自分に有利な今のこの流れを変えてしまうなどそれこそ馬鹿のする事だ。
「公務でこの街に赴いているので長期の契約は出来ないけれど、一月程度の短期の契約で良いのなら貴方を雇ってもいい、どうかな?」
「勿論それで構いません……有難う御座います、私はトリシア……トリシア・エインズワースと申します」
感極まった声で答えるトリシアではあったが勿論それは演技であり、内心では小躍りしながら両手で拳を握り締めていた。
「僕はレオニール・バローネ男爵、彼はクロイル・マドラー子爵、共にトルーセンの騎士として主命でこのシャリアテに赴任してきたばかりなんだ、だから宜しく頼むよトリシアさん」
自分たちの名を告げるレオニールにクロイルは驚いた様子を見せ……同じ様にトリシアも開いた口が塞がらない。
裕福な貴族だろうと思ってはいたがまさか爵位持ちの純貴族だとは……自分の想像以上の大物であった二人の少年たちに流石のトリシアも動揺を隠せずにいた。
同じ地方領とはいえ街の規模がまるで異なるソラッソ地方の地方貴族……格式や影響力を考えてもシャリアテの貴族たちや王都の貴族たちに比べて大きく発言力が劣るとは言え、爵位そのものに差がある訳ではない。
其方にしても本来トリシアなどが一生直接口を聞くことなど叶わない種の人間たちである事に違いはなく、ましてこの歳で爵位持ちともなれば将来を嘱望される名家の出の子息であろうことは言うまでもない。
「あ……あの……給金の話で申し訳ないのですが日当で銀貨一枚で如何でしょうか……」
この幸運を生かすべくトリシアは切り出し、
「それは少々お高いのでは……そうですね、では銅貨三枚ではどうでしょう」
「それは……出来れば銅貨十枚は……」
「分かりました、色々と入用でしょうし銅貨五枚で手を打ちましょう」
にこやかに、だが反論を許さぬレオニールの様子にトリシアは少し恨めしそうな表情を見せるが、これ以上ごねれば話自体を棚上げされてしまう恐れもあり、渋々だが首を縦に振った。
正規に組合を通せば相場よりもかなり安く、だがトリシアの素性を考えれば安くは無い金額……トリシアとしては納得せざる得ない提示ではあったが、二人の身分を考慮すれば銀貨数枚の見返りを期待してもおかしくはなかった事も重なり、トリシアが落胆の色を見せても仕方は無かったのかも知れない。
「では僕たちはこれから買い物があるので、明日から公邸の片付けを手伝って貰いましょうか」
話は纏まったと解釈したのだろう、レオニールは公邸の場所をトリシアに教えると明日訪ねて来るように、と言い残しクロイルと共にその場を離れる。
残されたトリシアは少なくとも明日からの食事の心配をしなくても良いという安堵感ともう少し上手く交渉できていれば、という後悔とが入り混じる妙な板ばさみ状態を今だ脱せず、
正式な契約書を交わすというレオニールの言葉から、そうだ、働きに応じた歩合制を付け足して貰おう、などという些か図々しい結論にまで思考を発展させていた。
「どういうつもりだレオ、何故あの女に爵位まで名乗った?」
自分もレオニールもまだ成人前であり、正式な職位など持ってはいない。それどころかロボスに認められソラッソ地方では騎士としての扱いを受けてはいるが、他の土地では自分たちは今だ騎士見習いでしかない……にも関わらず、レオニールが何故そんな嘘をトリシアという女に付いたのか、その理由がクロイルには分からなかった。
「爵位持ちの貴族の子息……世間知らずな坊ちゃんを演じてる方が彼女も気を許してくれるだろうからね」
「お前……」
「僕たちは主命で動いている……貴族として、騎士として赴いている以上、この先気軽に街に出られるとは限らない、エレナさんを探すにしても土地勘のある人間に協力して貰うのは悪い考えじゃないだろ」
それに、とレオニールは続ける。
「魔法士がエレナさんの敵なら、僕たちにとっても排除すべき敵だ」
真剣な面持ちを見せるレオニールに、クロイルが反論する様子は見られない。
「エレナさんの思想を尊重して、かつ彼女から魔法士の情報を得られればそれこそ一石二鳥だとは思わないか?」
「存外、腹黒いなお前」
呆れた様にレオニールを眺め、まあいい、とクロイルは思う。
成り行きはどうあれ、あの娘を利用するならそれもいい、と。
彼女が誠実であるのならお互い良好な関係を維持出来るであろうし、もしあの女が協会に通じているような、此方に……エレナに不利益を齎す存在であれば切り捨ててしまえばいい。
レオニールにそこまでの覚悟はないかも知れないが、自分にはその覚悟がある、と。
以前は派遣していた大使が公務を行っていた公邸も、災厄以降は大使という役職自体が廃され、残された公邸は手入れもされず廃屋然とした佇まいを見せているという。
領主邸を訪問する前にまず公邸の体裁を保たねばならず、どの道人手はいるのだから暫く様子を見るのも悪くは無い。
そうクロイルは考えていた。
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