163話


 色街の街頭に立ち、呼び込みを行う黒服の男たちは『立ち子』と呼ばれ、直接娼館に所属している者たちや商会の斡旋で組合に雇われている者たちとそれぞれ微妙な労働条件などの格差やそれに応じた縄張りを持っている。

 しかし立場は違えど長くこの業界に関わっている『立ち子』たちは総じて色街の情勢に精通した情報通、という側面も同時に併せ持っていた。


 談笑を交わしていた数人の『立ち子』たちの前を一台の馬車が通り過ぎていく……馬車の作りや装飾、御者の身なりからしても乗り合い馬車の様な一般向けのものとは大きく異なる、俗な言い方をするならば金持ちが個人で所有する、そうした種の馬車であることが一見して誰でも気づく、それは立派な作りのものであった。


 「ありゃあ、ペテロノーフ子爵じゃねえか」


 「だろうな」


 『立ち子』の男たちから見れば馬車を見るだけでその所有者など一目で見当が付く……そしてこの道の先、それ程の大物が通う娼館など一つしかない事も。


 「これでヘインケル子爵に次いで有力貴族様が二人目か……こりゃマジで面白くなって来たんじゃねえか」


 十日前、大々的なお披露目を済ませた傾国の美姫を御輿に掲げ、色街に置いて揺ぎ無い不動の地位を確立しようとしていた色街最大の高級娼館、永久の楽園『エラル・エデル』。

 多くの有力な貴族や商会の関係者たちを顧客に持つ『エラル・エデル』が、全ての娼館を束ね、利権を独占する一大体制を敷くかに思えた矢先、二番手とはいえ『エラル・エデル』に大きく溝を空けられていた女神たちの園『ラ・レクシル』の予想外のこの思わぬ攻勢に、俄かに活気付いてきた二大娼館の抗争に今や色街全体がその動静を固唾を呑んで見守っていた。


 「元々繋がりの深かったロダック商会に加え、新鋭のガラート商会、それに大物貴族が二人……中堅商会や中流貴族の顧客が多かった『ラ・レクシル』にもいよいよ勝ちの目が出て来たってことか」


 「どうだろうな、そもそも『ラ・レクシル』と『エラル・エデル』では資本力自体に差があり過ぎる……それに抱えてる顧客の層や数も『エラル・エデル』に『ラ・レクシル』はまだ遠く及ばないしな」


 こうした高級娼館に通う者たちは娼館との繋がりやお目当ての娼婦の谷町……後援者としての体面を何よりも大切にしている……それは己のステータスとしての強い自己顕示欲の現れであり、それ故に簡単に贔屓の娼館を変える事など有り得ない。

 まして競合する……対抗馬となっている娼館に鞍替えするなど、かなりの理由がなければ行われる事などない、立ち子の男たちから見ても異例の事態であると言っても良い。


 「それにしてもこれだけの影響を与えている『ラ・レクシル』の新人……エリーゼったっけか? 本当にそれ程の器量なのかね……聞いた噂じゃ、随分と乳臭い餓鬼だって話じゃねえか」


 「そりゃお前、『エラル・エデル』側が流してる噂じゃねえかよ……俺は直接見たぜ……ありゃとんでもない玉だ……」


 語る男の瞳に浮かぶ賛美と憧憬……そして滾る様な情欲の色に他の男たちが驚いた様に息を呑む。その女を思い出しているのだろう、男の熱に冒されているかの様な表情に不気味さすら覚え気圧されていたのだ。

 一度だけでも構わない……その身を抱けるならば命を捨てることすら厭わない……これまで多くの女たちを見てきた筈の男の表情にありありと浮かぶその狂気にも似た色に。


 「それじゃあよ……お前から見てその女と傾国の美姫とどっちが上なんだ?」


 男の只ならぬ雰囲気に話を変えようと別の男がそんな疑問を口にする。


 何を夢想していたのかが丸分かりな、だらしなく緩んでいた男の口元が全てを物語っていたが、その声にふと正気に返った様に男は考え出し――――。


 「傾国の美姫って呼び名がえらく広がっちゃあいるが、実際はお披露目の時に遠目で見ただけだからなあ……比べたくてもよお……だが断言は出来るぜ、エリーゼが間違いなく上だってな」


 男たちの中でも古株の男が其処まで断言するのだから、と他の男たちも何となくではあったがその答えに納得していた。

 

 「何にしてもこのまま『エラル・エデル』が黙ってるとも思えないしな、こりゃ下手をすれば血の雨が降るぜ」


 別の男が不穏な言葉を口走る。

 顧客を奪われ、看板に泥を塗られた形の『エラル・エデル』が何かしらの対抗策を講じるだろうことは想像に難しくない……そしてこの色街では報復にも似た手段として物騒な……物理的な手法をとる事も決して珍しい話ではなかった。

同意を示す他の男たちの顔にも何処か楽しげな雰囲気が見られ……自分に関わらぬ事ならばこれほど面白い見世物はない、とその表情が物語っている。


 一般的な常識を持つと持たざるとに関わらず、彼らもまた色街特有の色に染まった者たちである事は、彼らが浮かべているその表情からも容易に見て取る事が出来た。




 もう一杯……大丈夫、問題はない筈だよね……多分。


 エレナは目の前に注がれた酒の杯を迷いながらも手にする。


 娯楽と言えば堅苦しい舞踏会などという貴族たちの催しが主流であったビエナート王国にあって、社交場でもあったそうした場を苦手と、肌に合わぬと思う騎士たちは少なくは無く、身内で、親しい者たちのみで馬鹿騒ぎをして日頃の鬱憤を晴らしていた者たちは多い。類に漏れずその一人であったエレナにとって、酒とはごく日常で楽しむ最高の嗜好品であった。


 この身体になってからはレティシアの目や自身で自制していた事もあり大分酒量は減っていたとは言え、嗜好そのものが変わった訳ではない……エレナ・ロゼとしての傭兵生活の中で分相応に嗜めるのは水っぽく不純物の多い安酒程度の物ではあったが、それでも安酒なら安酒なりの楽しみ方はある。


 しかし今エレナの前に、テーブルに並ぶ酒たちはそれらとは一線を画す、希少な高級酒たちばかりなのだ……久しくお目に掛かれなかった愛おしい物たちを口にしてエレナの中の箍が外れ掛かっていたとしても無理からぬ……そう、無理からぬ事ではあったのだ。

 一本で金貨数枚が飛んでいく様な高級酒など道楽の極み、けしからん、などと負け惜しみを言うつもりなどエレナにはない……鼻腔を擽る芳醇な香り、口内に広がる魅惑的な味わい……エレナにとってそれはまさに至福の瞬間……。


 手にした杯を即座に空けたエレナはまた口の開いた酒瓶へと手を伸ばしている……最後の一杯、と逡巡していたことなど既にエレナは綺麗さっぱり忘れていた。レティシアがもしこの場に居たのなら柳眉を逆立て、襟首を掴んででもエレナを連れ帰ったであろうし、アニエスならば眉間に深い皺を刻んで呆れた眼差しを向けたかも知れない。

 それ程に頬を上気させ潤んだ瞳で酒瓶を手にするエレナの姿からはかつての英雄の威厳も、壮麗な女傭兵としての佇まいも感じさせない……其処に居たのは酒に飲まれた只の酔っ払いの姿であった。

 何より質が悪いのはエレナには酔っているという自覚そのものが皆無であり、それどころか今だこの段になっても自制は効いているという何ら根拠のない自信に満ちていたことであろうか……。


 横から不意に大きな肉付きの良い手が酒瓶を掴むエレナの手に重ねられ……焦点の怪しい瞳を其方へと向けたエレナが、大丈夫……平気だから、と隣に座る主賓、セイル・ロダックに妙に馴れ馴れしく声を掛けた。

 そのエレナの不躾な態度に周囲の空気は氷付いた様に張り詰め、事態に着いて行けず呆然と眺めているセイルのお供の者たちや真っ青になって動けぬ女たち、と力が抜けた仕草を見せるエレナとは見事なまでの対比を見せていた。


 元より客の許可無くして酒に口を付けること事態あってはならぬマナー違反なのだ……テーブルに並べられている高級酒の数々は金を出したセイルの物であり、エレナが勝手に飲んで良い筈もない。まして接客の為に呼ばれたエレナは最早セイルを無視し黙々と杯を呷るという、信じられぬ暴挙にまで及んでいる。

 セイルが激怒していつ席を立っても可笑しく無いこの状況にも関わらず、他の女たちは動揺と、それを上回る恐怖の為に直ぐにエレナを止める事が出来ずにいた。

 セイル・ロダックは一番の得意客であり、『ラ・レクシル』最大の後援者である……そのセイルの機嫌を損ねるという意味を良く理解している女たちだからこそ、思考が停止した様に咄嗟に動く事が出来なかったのだ。


 「済まなかったねエリーゼ、祝いの席だからと少し長居をさせ過ぎたようだ」


 だが供回り男たちや女たちが想像した最悪の展開にはならなかった。

 それどころかエレナの手を酒瓶から外しながら呟くセイルの声音には、エレナを諌める様な響きこそあったがそれ以外は平素と変わらぬ穏やかなものであった。其処に怒りや苛立ちの様なものは一切見られない。


 「済まないが君、エリーゼちゃんを少し休ませてあげてくれないか、ミランダには私の方から飲ませ過ぎたとちゃんと伝えて置くから」


 は…はいっ、とセイルから目を向けられた女の一人が慌てて立ち上がり、そそくさとエレナに近づくと屈み込んでエレナの右腕を掴む。


 「大丈夫……大丈夫、まだ平気だから」


 尚も意味不明な言葉を呟き続けるエレナを女は強引に立たせると腰を抱く様にしてテーブルを離れていった。慌てて、取り繕おうとする様に別の女がセイルの隣へと移動しようとし――――セイルは右手で制止する……まるで他の女になど興味がない、と言うかの様に。


 「ああいうところも可愛いじゃないか、なあ?」


 セイルの言葉に他の男たちはそうですね、と同意を示す様に頷く……まったく気分を害した様子の見られないセイルの姿に男たちはエレナへの苦言を口にせず良かった、と内心で安堵していた。


 関税の安いシャリアテでのロダック商会は南部域、東部域からの武器の輸入を主軸に商いを展開している。

 高名な工房の刀剣や一点物の武具など高価な品々ではなく、確かな強度を持ちながらも良質で比較的安価な品々を大量に市井へと卸し普及させていたロダック商会は今回のライズワースからの遠征で近年類を見ない程の大きな利益を上げていた。


 セイルを武器商人……死の商人と陰口を叩き揶揄する者は少なからず居たが、戦乱の世は形を変え、魔物との闘争が日常となった今の世で武器や武具は大きな金を生み出す金のなる木。

 それ故に扱いが難しく利権が渦巻く軍需産業に携わり業績を伸ばすセイルは今やロダック商会の中でも大きな力を有している……男たちにとってセイルは機嫌を損ねれば容易く排除されてしまう畏怖の対象であったのだ。


 「物には応じた価値がある、そうは思わないか?」


 男たちはセイルの意図を測りかねたが、問われれば頷くしかない……他に選択肢などありはしない。

 

 「女性は美しいというだけで価値がある……ましてあれ程の美貌ともなればその価値は計り知れない」


 何処か陶酔した様なセイルの眼差し。

 三十代前半、背も低く小太りなセイルは見た目も決して良いとは言えない……だがその分きっちりとした身なりと清潔さを保った風貌に貧相なものはなく、恰幅の良い紳士と評すのが適当であろう。

 落ち着いた雰囲気と穏やかな声音はセイルの聡明さを示すものではあったが、無論それだけでは商人として大成することなど出来はしない……それだけに男たちはセイルの恐ろしさもまた知っている。

 だからこそ男たちは内心で驚きを隠せない……セイルの態度や対応が全てを物語る様に、彼が一人の女に此処まで入れ込み感心を寄せ、また興味を示した事などこれまで一度としてなかったからだ。


 大丈夫――――大丈夫だから――――。


 遠くで少女の声が聞こえる。

 澄んだ鈴の音の様な可憐な……だが何処か呂律が回らぬ少女の声。


 セイルはその声に耳を傾け、手にした杯を口にする。

 そんなセイルの姿に男たちは掛ける言葉を失っていた……セイルが浮かべている笑みが余りにも透明で其処から感情を読み取る事が出来なかった故に……。

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