第151話


 ソラッソ地方の領主ロボス・ウインストンは街道沿いにまで迫っていた魔物の脅威が排除された事を受け、王都ライズワース、そしてセント・バジルナに対して事態の沈静化を告げる公式な文面と共に、ソラッソ地方全域に発令していた緊急事態宣言の解除を正式に通達、公布する。

 それは紛れも無くソラッソ地方を襲った此度の一連の騒動の解決をロボスがオーランド王国全土に対して告げた完全なる終息宣言に他ならなかった。


 それから数日の後、ロボスの下には独自の情報網を使い裏付けを取ったのだろう、有力な諸侯たちや大手の商会、果ては王族に連なる者たちから労いと哀悼、そして見舞金という取って付けたかの様な文面が並ぶ書簡が殺到し、逼迫した状況時、ロボスの呼び掛けに対して一切の反応を見せなかった彼らのこの手の平返しにロボスは激しい怒りを覚えたが、だがこれを機にセント・バジルナからまだ数は少ないが商船の往来が見られる様になり、海路の交通が復活した事により避難していた住民たちも徐々にだが街へと戻って来ている。

 この改善されつつある現状を鑑み、本当ならば皮肉の一つでも言ってやりたい気持ちを押さえ込みロボスは返礼の書簡を返すなど大人の対応に終始する。


 これから行われる多くの追悼行事と街の再興……払った代償と対価、トルーセンの街に山積する問題は今だ多かったが、それでも確実に復興に向けてその一歩を踏み出そうとしていた。



 「済まないな、良く聞こえなかった……もう一度言ってくれないか」


 怒りと苛立ちを押さえるかの様なロボスの声が領主邸の執務室に木霊する……ロボスの隣に立つアイシャも憂いを帯びた瞳を伏せ沈黙を守っている。


 ロボスの前に立ち報告を行っている初老の男性、ローナウド・ゲイルとロボスは十年来の付き合いであり、主従という関係とは別にローナウドとロボスの間には主治医と患者という長き年月を掛けて培われて来た強い信頼関係により結ばれている。だがこの場において間違いなくロボスの怒りの矛先はそのローナウドに向けられていた。


 「手の施しようがない、と申しました……今の彼女の状態は私が知る医学の常識を余りにも逸脱し過ぎています……」


 この屋敷に運ばれてきた少女の容態はローナウドが初見で見てもはっきりと手遅れである事が分かるほど酷い状態であった。

 既に壊死が始まっている左腕と左目……致死量を超えている事がありありと窺える出血量……僅かに診察しただけでも完全に粉砕されている胸骨と機能不全を起こしている臓器……いや既に潰れた臓器は機能を停止していたかも知れない。

 少女の状態は最早医学で対処出来る範疇を超え、神の慈悲に縋るべき段階にまで至っている……少女の命が後数時間と持たぬであろうと、ローナウドの医師としての経験と知識がそう告げていた。


 だがあれから三日……少女、エレナ・ロゼはまだ生きている。


 体内を循環させる血液すら失われ、生命を維持する機能の大半を失っているにも関わらず、エレナ・ロゼの心臓の鼓動は今尚動き続け、呼吸を続けている。

 エレナ・ロゼという少女の身体は人間に限りなく近いが、その構造はまったく異なるモノ……それは余りにも突飛な発想であり、誰かに相談することすら躊躇われる馬鹿げた話ではあったが、そう考えねば医師としての良識を保てぬ程にエレナ・ロゼの今の状態は異常であったのだ。

 

 「ロボス様……彼女は本当に……」


 人間なのですか、と内心抱いていた疑問が口から出そうになり、ローナウドは結ぶように口を閉ざした。


 この場に置いてその言葉がロボスの……いや、ロボスだけではない、恐らくはアイシャを含めた二人の逆鱗に触れるであろうことを察していたからだ。

 だがローナウドが口を閉ざしたのは二人に対しての配慮からだけではない……全てをロボスから聞かされていたローナウド自身、自分とそして家族の恩人であるエレナに対して言葉に尽くせぬ程の感謝と恩義を感じていた。

 だからこそ決して口に出してはならぬ言葉があり、彼女の不利益に繋がる様な事を他者に話すつもりなど毛頭なかった……例えその相手が信頼を寄せる主であるロボスであってもだ。


 「もう良いローナウド、何も出来ぬというのならばせめてエレナ殿の容態が急変せぬよう傍で見守っているがいい」


 ロボスの言葉は医師に対する侮辱と取られられてもおかしくはない、些か配慮に欠けた物言いであったが、付き合いの長いローナウドにはロボスがこうした癇癪持ちである事を良く知っていた……そして感情に任せて発した言葉が必ずしもロボスの本意ではない事も十分に理解もしていた。

 口惜しい事ではあったが、ロボスの言う様に自分が無力な存在である事もまた確かな事実であり、ローナウドはその事でロボスに反論するつもりは始めからない。

 だからこそローナウドは恭しくロボスに、そしてアイシャに対して一礼し無言のまま執務室を後にした。


 「些か言葉が過ぎたのではありませんか」


 アイシャの咎める様な声音に自分でも分かっていたのだろう、ロボスは渋い表情で押し黙る。


 「ローナウドの事はまあ……良い、それよりも」


 折りを見て何かしら謝罪せねばならぬな、とロボスは内心反省しながら机の上に置いていた一通の書簡を手に取る。


 「どうするおつもりですか?」


 アイシャは自身の立ち位置を敢えて明確には示さずロボスに問う。

 無論それは書簡の内容についてだ。


 「考えるまでもない、このロボスに受けた恩義を仇で返す様な真似をせよとでも言うのか、アイシャ・ステイフよ」


 アイシャは主のその言葉に満足げに、いいえ、とだけ答え恭しく頭を下げる。


 貴族や商人たちから多くの書簡が日々届く中、それらとは明らかに異なる異質な封書がロボスの下に届けられていた。

 それはライズワースの協会本部からロボス宛に届けられた書簡。

 内容の多くは他のものと大差はない……だが他の書簡とは大きく異なる酷く理解し難い一文がその文面には綴られていた。

 丁寧でロボスに対して一応の敬意を払った言い回しに終始してはいたが、その内容を端的に要約するとするならば、近日中に使節団を送るのでエレナ・ロゼの身柄を引き渡して貰いたい、というものである。

 しかもご丁寧にその封書には添え状が同封されており、ギルド長と共に連名で記されたその名はオルセット・ゲルト……オーランド王国の宰相の名であった。


 「あの狸爺がどういうつもりで協会に協力しているのかは知らんが、陛下がお認めになった地方領の自治権を甘く考えて貰っては困る。如何に宰相の権限が絶大であろうともこの領内で……我が領地で好き勝手な真似はさせん」


 命の危機に瀕している恩人の身を得体の知れぬ魔法士共の手に委ねるなどロボスに許容できる話ではない……既に傭兵たちとはエレナの身を守る為に再度契約を交わしている。

 いざとなれば武力を持って排除することも厭わぬ、とロボスは覚悟を定めていた。


 「もし宰相殿が直接陛下に働き掛けた場合は、陛下が協会にエレナさんの身を引き渡せ、と申された場合はどうなさるおつもりですか」


 オルセットがもし本気であるならば、それは十分に可能性のある話であった。

 そして如何にロボスであろうとも……いや、伯爵位という高位の爵位を持つロボスならば尚のこと王命に逆らうことは難しい。


 「その時は伯爵位を返上し何処ぞの国にでも亡命するとしよう……王宮務めの息子には悪いが、我らも、そして領民たちもエレナ殿にそれだけの恩を受けたのだからな」


 ロボスは本気であった。

 そしてそのロボスの言葉にアイシャは口元を綻ばせる。


 「左様で御座いますか……であればその折りは必ずお声掛け下さい。女性の身の回りの世話は殿方には難しいもの……微力ながらこのアイシャ・ステイフもロボス様と共に参りましょう」


 アイシャの言葉にロボスは言葉を失う……アイシャの思いもまたロボス同様本気であった。

 

 「女にも通さねばならぬ道理が御座います。忠義は大切……なれどその為に恩人に後ろ足で砂を掛ける様な真似をしては亡き夫に叱られましょうから」


 アイシャの決意にロボスは頭の下がる思いであった……バルザックは本当に良い妻を持った……ロボスは亡き親友に対して羨望にも近い思いを抱く。


 「ではそうならぬ様、出来うる限りの手を打つことにしようか」


 ロボスは王宮に参勤している知己たちに書面をしたため始める。

 既に王宮での影響力を失っているロボスではあったが、今だ王宮に勤める知人たちは多い。危機に瀕して何の助力も返書すら送って来なかった友人とはとても呼べぬ輩共ではあったが、逆に今ならば負い目も手伝って多少の協力ならば得られる可能性は高い。

 王宮とは政争渦巻く魔窟である。

 表立ってオルセットに反抗できぬが、オルセットを快く思わぬ連中や反抗勢力もまた存在する。そうした輩共を刺激してやり、オルセットを牽制する程度のことならば今の自分でも可能な筈。

 

 ロボスはよくよく文面を吟味し綴っていく……それはロボスにとって剣を握らぬ戦いの始まりであった。




 トルーセンの港。

 旅支度を整えたアニエスはセント・バジルナに発つ予定の商船の到着を待っていた。


 「エレナ姉さんの傍を離れて、アニエス姉さんは一体何処に行くつもりなんですかねえ」


 不意に背中から掛けられた男の声に、見知ったその男の不快な口調に、アニエスは整った眉を顰め振り返る。


 「貴方にそれを伝えねばならぬ義務があるとでも?」


 アニエスは冷ややかに、男に、カルヴィンに告げる。


 「まさかとは思うんですけど、使節団とやらを待ち伏せでもして殺っちまうつもりなんじゃないのかと、心配しましてね」


 ロボスはエレナに近しい者たちには今エレナが置かれている状況を隠さず全て話していた。

 そしてその話を聞いたアニエスはカルヴィンが言う様に使節団を待ち伏せしその手に掛けるつもりでいたのだ……いやそれだけではない。使節団の人間を尋問しエレナに手を出そうとする協会の首謀者たちもまた始末してしまうつもりでいた。


 「私が何を考えていようと、もう貴方には関わりがない話だと思うのだけれど」


 「ですね、でも今のアニエス姉さんを見てエレナ姉さんは喜ぶんでしょうかね」


 アニエスの切れ長の緑の瞳がすっ、と細められ、その全身からカルヴィンに対して明確な殺意が滲み出す。

 

 「貴様などに私とエレナの何が分かるというの」


 エレナが命を賭して戦うその傍らに自分は居られなかった……どの様な理由をつけてもアニエスにとってその事実は変わらない……今の自分に彼女の傍に居る資格などないのだ。

 今の自分がエレナの為に出来る事……それはこの先例え命を長らえたとしても二度と剣を握れぬであろうエレナの為に、彼女に不利益を齎す全ての要因をこの手で排除することくらいだろう。元々アニエスが扱う鋼線は暗殺用に特化された暗器……それを振るう自分にはまさに適任の役割であるとすら思えた。

 今尚戦いの場に身を投じているかも知れぬベルナディスたちには申し訳ないとは思うが、エレナ・ロゼという存在が欠けてしまってはもうアニエスには旅を続ける意義を見出すことが出来ないでいた。


 「エレナ姉さんには秘密が多い……協会とも何かしらの因縁があるのかも知れませんがね、だからと言って理由もなく協会員に手を出せば姉さんは身を滅ぼすことになる……ただの犯罪者になっちまうんですよ……そんな結末をエレナ姉さんが望む筈ないでしょうに」


 「黙れ、と言っている」


 アニエスの両手から鋼線が放たれ、周囲の石畳に無数の亀裂を生じさせる。


 「邪魔をするというのなら此処で貴方を殺すわ、元々お前の存在は気に入らなかった」


 カルヴィンから見てもアニエスらしくない言動と行動……だがそれだけアニエスにとってエレナ・ロゼという少女の存在が大きいものであったのだろう、と理解できた……理解できたからこそ……。


 「聞き分けのない小娘だな、ならば力ずくで諌める事としようか」


 ――――止めねばならない。


 変化したのは口調だけではない……がらり、とカルヴィンの雰囲気自体が変わる。


 人も疎らな波止場の一角、腰の長剣を抜き放つカルヴィンの姿に、慌てた様に船を待つ人々が離れていく。アニエスの鋼線は常人には捉え難い為、いきなり女性に剣を向けた様にしか見えぬカルヴィンに対し恐れの表情を浮かべて遠巻きに様子を窺っている。

 警備隊を呼びに行ったのだろう、数人の男たちの姿を横目にカルヴィンは薄く笑う。


 それはこれまでのカルヴィン・フェルスという軽薄な男を知る者たちからは想像も出来ぬほど、まったく別人を思わせるそんな姿であった。


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