第150話


 東の空には既に夜の帳が広がりを見せ黄昏の空を侵食してゆく。その姿を地平線の彼方へと沈ませた太陽の残滓が今だ僅かに淡く草原を照らし出してはいたが、それはレオニールたちの命運を予見しているが如く、遠からず訪れるであろう闇の到来を残酷に告げていた。


 エレナを抱き止めたまま剣を構えるレオニール。

 エレナを庇うかの様にその前に立ち、魔物の群れに対峙するクロイル。


 山道で魔物と遭遇したあの時の様な動揺や混乱は今の二人からは感じられない。

 

 命を賭して戦うという事の意味を、魂すらも燃やし尽くし挑んだエレナの姿を、その目に、その心に刻み付けた二人の少年たちが今抱くのは、自分たちもまたエレナ・ロゼに恥じぬ最期を遂げる事であり、魔物や訪れるであろう死に対する恐怖など其処には微塵もありはしなかった。


 じりじりと二人との距離を詰めて来る魔物に対し、レオニールとクロイルは一歩も引くことは無い……退く事など有り得ぬと強き意思を湛える瞳が物語り、最期の瞬間まで戦う事を止めぬという揺らぐ事のない気概が其処からは感じとれた。


 だが運命の女神の心とは移ろい易く、そして気紛れなもの……望むと望まざるとに関わる事なく、等しく人間たちは計れぬ女神の御心に翻弄される哀れな子羊に過ぎない。


 西の空から数多の鳥たちが森を目指して遣って来る……いや違う……夜の闇が迫るこの時間、夜目が利かぬ鳥たちがこれ程の数で移動する筈などないのだ。


 空に鳴り響く鳥たちの羽音にも似たソレが魔物たちへと降り注ぐ。


 放物線を描き草原に落ちた火矢は次々に乾燥した草木に燃え移り、闇に染まり始めた草原に灯火を灯していく。火矢の鏃如きではノー・フェイスの硬質化した外皮を貫通することは出来ないが、炎に惹かれ、また同時に恐れる魔物の性質ゆえに、燃え上がる炎を避ける様に群れ全体が森の方角へと身を退いていく。


 信じ難いその光景を前に、レオニールたちの耳に遠くから聞こえてくる無数の馬蹄の音……馬群の到来を告げるその音に、レオニールとクロイルは有らん限りの声を出し叫ぶ。


 自分たちの存在を、自分たちの生存を。


 エレナが僅かにだが示していた救助の可能性……しかしその不確かな可能性に身を委ねることなく、自分たちにの力で生還を目指したエレナの判断は間違った考えではない。

 だが結果だけを見れば後半日、森の中に身を潜めていれば事態はまったく異なる展開を見せていたであろうし、もしアウグストと出会ってさえいなければ、日暮れを前に街道に出ることはなくエレナたちは夜営をしていただろう。

 

 世界には偶然などという不確かな可能性などは介在せず、全ての事象や物事は理のままに定められた必然である。


 魔法士の開祖とまで称される大賢者アグナス・マクスウェルが残した言葉……だが例えそれが真理であったとしてもレオニールの父親が、クロイルの兄たちが……そしてエレナが示してくれた。

 人間は運命に抗いながら生きてこそ、その人生には輝かしい価値があるのだ、と。


 例え避けえぬ末路が、定められた死が其処に待ち受けているとしても、己の信じたものの為、己が選び取った選択が無為なものである筈がない。

 神々の御心が信仰として人々の心の内にある様に、人は不確かな未来だからこそ夢を見る……希望を抱くのだ。


 だからこそ二人は叫ぶ、例えそれがどれ程無様な姿であろうが構わない……生きるという意味を、戦う術を教えてくれた少女の為に、そして愛しい者を救う為に、今二人は運命に抗う。


 ノー・フェイスの黒き群れを切り裂く様に、別たれた群れの中から騎馬の集団が二人の眼前へと飛び出してくる。

 騎馬の先頭には黒毛の巨馬。


 「ルイーダ!!」


 二人は見覚えのあるその馬の雄姿を目にし同時に叫んでいた。


 ルイーダに続き姿を見せた馬上の大男と、大男と並んでいる為に細身にすら見えるが良く鍛えられた体躯の男が次々と魔物の群れの中から姿を見せる騎馬たちに指示を出していく。

 

 レオニールたちを中心に魔物を制圧していく騎馬の集団……その中でルイーダが主の下へと駆け寄ってくるが、自分を前に何の反応も示さないエレナの姿にルイーダは不思議そうに小首を傾げる様な仕草を見せると、甘えた様にその鼻先をエレナの頬へと擦りつける。

 べっとり、とその鼻先をエレナの血で濡らしたルイーダが悲しげに大きく嘶いた。そして主の異変を前にエレナを抱くレオニールたちの前にその脚を畳み、屈み込むと二人に首を向ける……向けられたルイーダの瞳が語っていた……早く乗れ、と。


 「その馬なら街まで半日と掛からねえ、さっさと行け小僧共」


 大剣を肩に担いだ大男が二人に声を掛けてくる。


 一見して傭兵と分かる身なり、二人はこの大男の顔を知らなかったが大陸を渡る傭兵団が偶然にも通りかかったと考えるには余りに都合が良すぎる上に……何よりルイーダの存在とこの状況に混乱なく対応している事を考えてもトルーセンで何かしらの動きがあったのだろう事を二人は察する。


 クロイルはルイーダの手綱を握り、レオニールがエレナを腕に抱えたままその後ろに跨る。二人がその背に乗ったのを確認した刹那、ルイーダは立ち上がると駆け出した。


 レオニールたちが大男と会話を交わす暇すら与えず、ルイーダは魔物の群れを縫うように駆け、夜の闇に閉ざされ様としている草原を疾走していく。


 「助かるといいな」


 大男、ヴォルフガングの隣で状況を見守っていたクルスが草原の彼方へと消え行くルイーダの影を見つめながらぽつり、と呟くがヴォルフガングからの返事は返ってこない。


 エレナの無残な姿を見たヴォルフガングたち砂塵の大鷲の傭兵たちの雰囲気がこれまでとは一変している事にクルスは気づいてはいたが、その余りの豹変ぶりにクルスは内心驚きを隠せずにいた。

 ライズワースでも指折りのギルドである砂塵の大鷲、その猛者たちである彼らはその強者の余裕と驕りゆえに此処に至るまでの道中、何処か狩りを楽しむかの様な雰囲気を感じさせていた。

 だが今の彼らはクルスから見ても鬼気迫るものを感じさせる……それがあの少女、エレナの姿が原因であろうことは疑いようもないが、たった一人の少女の存在が百人からの傭兵たちに此処までの影響を与えている事にクルスは戸惑いを覚えていたのだ。


 クルスとヴォルフガングたちではエレナに対する思い入れが違い過ぎる……エレナ・ロゼという少女の存在が砂塵の大鷲にとってどんな存在であるのかを、クルスは知らなかったのだ。


 「面倒ごとは残すなよ、一匹残らず排除しろ」


 号令を掛けるヴォルフガングに対して砂塵の大鷲の傭兵たちは返事を返す事も無く黙々と、だが苛烈なまでの勢いで魔物を駆逐していく。


 トルーセンに連絡要因を残した今のヴォルフガングたちの総勢は僅かに百五十騎足らず……魔物の群れがエレナの命を掛けた奮戦により数を減らしていたとはいえ、その数は彼らの五倍にも達する。

 しかし彼らにして見れば一人で五匹を狩ればいいだけの話……ただそれだけの事でしかない。

 ライズワースのギルドの中でも戦闘集団として名を馳せる砂塵の大鷲とギルドランク一位の天壌の焔……その中でもこの依頼の為に選りすぐられた彼らの多くが二桁の序列を有している。


 如何に数が多いとはいえ、ノー・フェイスという下級位危険種だけの一種で構成されている群れが相手ならばこの程度の数の差など問題にすらならない。

 本来ならば上級位危険種の討伐を協会から依頼されるほどの、ギルド制度における最高戦力の一端……一商人の個人的な依頼で動くには過ぎたる者たちであったのだ。


 呆気ない程に攻守は入れ替わり、その後半刻も掛からずトルーセンへと続く街道の道半ば、千にも及んだ魔物の群れは狩り尽くされ潰えことになる。


 魔物の脅威は取り除かれ、トルーセンの街を襲った一連の騒動は此処に終息を迎える……だがそれに関わった多くの者たちの顔は晴れず、安堵の表情を浮かべる者の姿はない。失った命、払った対価の大きさを前に誰もが深い悲しみと、隠しきれぬ失意の底に沈んでいた。


 この日より三日が過ぎ、脅威が去った後も今だトルーセンの街を覆う暗澹たる空気は晴れず、凪いだ風が再び人々の心に吹き抜ける事は……なかった。


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