第149話
何人たりとも阻む事敵わぬ凄烈なる風。
想いを刃と化して草原を駆け抜けるエレナの姿はまさに死を運ぶ黒き旋風が如く――――吹き抜けた先、後に残る地には動く影はなし……断末魔の咆哮すら漏らす猶予すら与える事無く、黒き不浄なる鮮血を大地に染み込ませながらエレナの手によりノー・フェイスの死骸が草原を埋め尽くしていく。
地平線に半身を沈ませた夕日が齎す夕焼けに染まる草原に、魔物たちが撒き散らす黒い血飛沫によって生じた赤と黒、全てを塗り潰すが如く二色の濃淡が入り乱れ……そして織り成すその模様は、まるで名画の一場面を体現させたかのような何処か幻想的で神秘的な美しさすら醸し出していた。
エレナを中心に夥しい数の魔物の死骸が円状に広がり、その中心部で戦うレオニールとクロイルの周囲は、エレナと魔物たちが織り成す凄惨な光景がまるで幻影ですらあるかのように、吹き荒れる暴風の中、台風の目の様な静けさを保っていた。
四方から押し寄せる魔物たちを凄まじいまでの速度で狩り尽くしていくエレナの姿は、最早人間の領域を超え、その剣は神の御業と呼べる領域に……神域にまで至る。
見渡す限り黒一色で塗り潰された草原の中にあって、魔物たちの群れに囲まれ、いつ押し潰されてもおかしくはない状況の中、だが二人の眼前にまで今だ魔物が押し寄せる事は無い。
奇跡としか思えぬその現実を前に二人の少年たちは小さな……本当に淡く儚い……未来への希望という夢を見る……エレナならば……この少女ならばあらゆる不条理を、世界を覆う理不尽すらも打ち破り、切り開いてくれるのではないか、と。
少年たちの真摯な想い……だが彼らは今だ若く、純粋なゆえに残酷であった……なぜならばそれは神ならざる人の身で、一人の人間に対して願い託すには余りにも重く……そして何よりも罪深いそんな願いであったのだから。
狂る狂ると歯車は廻り続け……紅に染まる黄昏の空に落日の鐘の音が鳴り響く。
無限に押し寄せるかの様な錯覚を齎すほどの圧倒的な魔物の数。
狭い山道での戦いの時とは違い、広大な草原では魔物の死骸を壁として他の動きを制限させることは難しい……それ故エレナは自身が突出してしまう様な直線的な動きは避け、円を描くように魔物を駆り続ける事で常に二人を後背に背負う形を維持していく。
如何に草原が広大で魔物の数が多数であろうとも、これだけの数の魔物が自分に集中すれば固体同士が密集しノー・フェイス本来の機動力を削ぐことは難しくはない。
左右の動き、旋回能力に優れた種であるノー・フェイスは、だが側面に対する俊敏性に比べ前後の直線的な動きは機敏とはいえない……ノー・フェイスが持つ触肢と毒尾という捕食手段は確かな脅威ではあったが、狩りの本能が色濃く現れた種に比べて単調なその動きはエレナにとって相性が悪い相手では決してない。
密集状態を維持し群れ全体の動きを誘導してやれば、四方から同時に襲われも四体程度、『アルカナル・ペイン』の効果により大幅に身体能力が向上している今のエレナにはそれらを殲滅し続ける事は作業と呼べるほどに容易いことであった。
眼前に迫るノー・フェイスの触肢。
恐ろしく単調な軌道を描くその触肢に併せる様にエレナは左手のエルマルートを奔らせ――――その異変は何の前兆も前触れもなく突然に訪れた。
まるで全身に超大な重りでも括り付けられたかの様な違和感……エルマリュートを握るエレナの左腕は……上がらない。
この突然の自身の身体の変調にエレナの瞳が大きく見開かれ……咄嗟に身を捻り触肢を回避しようとするが――――その動きは恐ろしく緩慢で……其処に神速と謳われたエレナ・ロゼの華麗なる姿は見る影もない。
エレナの胸部に直撃するノー・フェイスの触肢――――弾かれた様に飛ばされ地面へと叩き付けられたエレナの身体は大きく一度跳ね上がり……それは受けた衝撃の大きさを否が応にも感じさせ、茫然と動けぬ二人の少年の恐怖に歪む表情が何よりもソレを物語っていた。
天翔ける隼はその孤高さゆえに誰にも届かぬ高き空を一人羽ばたき続け、その気高さゆえに翼を捥がれ大地へと堕ちる。
直ぐには起き上がる事が出来ず、突然己の意思に反しまるで言う事を聞かなくなった身体を鞭打つ様に僅かに顔だけを上げるエレナ……瞬間、その小さな口からは想像も出来ぬ程の量を吐血し赤々と地面を朱に染めあげる。
エレナは尋常ではない自身の吐血の量から重大な欠損を……恐らくは今の一撃で胸骨が粉砕され、臓器の大半が潰されたのだろう事を瞬時に悟った……襲い来る筈の激痛が訪れないのは今だ『アルカナル・ペイン』の効果が持続している事を意味してはいたが、本来ならば即死は免れぬ筈の……それは間違いなく致命傷であった。
まだだ……まだ私は戦える――――。
倒れるエレナの背後で二人の少年たちが自分に駆け寄って来る気配を感じ……同時に楔から解き放たれたが如く、周囲の魔物たちが荒れ狂い濁流と化し押し寄せてくる様な圧迫感をその背に受ける。
このままではレオニールたちが背後から迫る魔物たちによって押し潰される……その現実に抗おうとするかの様にエレナは必死に立ち上がろうともがくが――――だが地に伏し足掻くエレナの前には、自分を薙ぎ払った先程の個体が既に眼前へと迫り来ていた。
キュルキュル……キュルキュル、と逆立てた毒尾を振動させるノー・フェイスの耳障りな振動音が地に伏せるエレナの直ぐ耳元で鳴り響き、密接するほどに近づいたノー・フェイスの歩脚の一本が地に伸ばされたままのエレナの左腕を無造作に踏み抜く。
自身の左腕の骨が砕ける音が一瞬、耳元にまで届きエレナは歯を食いしばり耐えるが、口を閉ざすと絶え間なく喉元に込み上げてくる血の塊が気道を塞いでしまい、エレナは吐血しながら激しく咳き込む。
更に一歩エレナの肩口の間近まで踏み出したノー・フェイスの上げられた歩脚の下、エレナの左腕は浅黒く変色し、細く美しかったその指先は見る影も無いほどに変質し最早原型を留めてはいない。
最早その左手は剣を握るどころかこの先、指先を動かすことさえ至難の業であろうことは想像に難しくない。
己の無残な姿、そして迫り来る死を前に、普通の人間であれば泣き叫び、発狂してもおかしくはないこの状況の中にあって尚、僅かに頭だけをあげノー・フェイスを見据えるエレナの紅の瞳は一層燃え上がり、爛々と激しく猛々しい紅蓮の炎を宿す。
それはエレナ・ロゼの闘争はまだ終わらぬ、と誇示するかの様に――――。
エレナが激しく、そして強く心に抱くのは何者にも砕き得ぬ鋼。
思い描くのは風――――何者にも阻まれず触れる事敵わぬ凄烈なる風。
『アルカナル・ペイン』の上書き。
それは考えるまでもなく最悪の結末に至る、破滅に至る呪いにも似た制約の重複。だがエレナは己の魂すらも賭け……全てを燃やし尽くす……それゆえに怯まず、己を省みることもない。
ノー・フェイスの毒尾がエレナの腹部目掛けて放たれる――――同時に跳ね上がる様に身を起こしたエレナの右手からアル・カラミスが奔り、毒尾を半ばから斬り飛ばすとそのままエレナの剣閃は虚空に円の軌跡を描き斜めに斬り上げる様にノー・フェイスを両断する。
二つに分かたれながら崩れ落ちるノー・フェイスを一顧だにせず、身を翻したエレナの視界にレオニールとクロイルの姿が映り込み――――刹那、エレナは駆け出していた。
クロイルの背後、触肢を振り上げ、今まさに振り下ろさんとするノー・フェイス。
ノー・フェイスの下へと駆けるエレナ。
一気にノー・フェイスとの間合いを詰めるエレナではあったが、間に合わぬことを悟るとノー・フェイスではなくクロイル突き飛ばす形で強引に触肢の軌道に割り込み、同時にアル・カラミスを奔らせ――――アル・カラミスの切っ先は違わず触肢を断ち切るが、勢いを殺しきれず触肢の鉤爪状の鋏の鋭利な先端部がエレナの左頬を……左目ごと削り取りながらエレナの横を転がり落ちる。
「エレナーーーーーーー!!」
絶叫するクロイルの叫びを遠く耳に……エレナは満身創痍、片目を失い隻眼となって尚、振り返る事は無い。
本当に、本当に多くの、数え切れぬ程の死を見届け、見送って来た、と。
なればこそ、此処が最後であるならば断じて自分より先にこの子たちは往かせない。
それが究極の自己欺瞞である事を自覚しながらも、最後の我儘を譲る気はエレナには無い。
アル・カラミスの切っ先を残る己の眼前に、機能を失った左腕を交差させエレナが象るは剣人一対の正十字。
不変不屈、猛き高き魂を刻みエレナ・ロゼは死地に立つ。
視界の左半分を失いながらもエレナは前方に迫る無数のノー・フェイスを瞬時に屠っていく。
余りにも凄惨なエレナの姿に二人の悲痛な叫びが聞こえた様にも思えたが、今のエレナにはただただ剣を振るい続ける、それのみが己の為すべきことの全てであるかの様に残る右手のアル・カラミスを奔らせ続けた。
やがて迫る魔物の全てを斬り伏せたエレナを中心に僅かに距離を取り犇く魔物との間に空間が生じ、エレナはその歩みを止める。
人は死の直前、走馬灯の様に過去の記憶が脳裏を過ぎるという……だがそれは出鱈目であったのだな、とこの場には不釣合いなそんな感慨をエレナは抱く。
最早、今のエレナは痛覚だけではない……身体の一切の感覚を失い指の先すら動かすことが出来ずにいた。
己の今も姿に……その闘争の果ての結末に微塵の後悔もない……全てを賭して戦い、及ばなかった……それだけの事……そう……なにも複雑な話では無い……本当にただそれだけのことなのだ。
エレナの下げられた右手からアル・カラミスが離れ……大地へと堕ちる。
揺らぐエレナの身体を駆け寄ったレオニールが背中から抱きとめ、薄らいでいく意識の中、エレナは必死に自分の名を叫び続ける二人の少年の姿を、今はもう残る右目の瞳で映し出す。
今のエレナに未練があるとすれば、この二人を無事に街に帰してやれなかったことだけであろう……それを現すかの様にエレナは右腕を二人の下へと差し伸べながら……悲痛な表情を浮かべ自分を見ている二人に向けて微かにその唇が動く。
エレナの身体を抱き止めたレオニールの両手がエレナの血で真っ赤に染まる。身体中から大量に出血している所為で最早傷口が何処にあるのかすらもレオニールには分からない。
焦点の定まらぬエレナの赤き瞳……虚ろなその眼差しの動きからエレナが自分たちに手を差し伸べようとしていることにレオニールは気づく。
そのエレナの姿にレオニールの表情が更なる苦悶に歪む。
恐らくはもう本人には認識出来ぬのであろう……その右腕が先程から変わらずまったく動いていない事に……。
エレナの唇が微かに動き、二人はエレナの言葉を聞き取ろうとその口元に耳を寄せるが、その唇から漏れるのは言葉ではなく、乾いた頼り無げな息遣いと吐血し溢れ出る大量の血のみであった。
消え往こうとする命を前に、レオニールは血に汚れることすら厭わず、愛しい少女の身体を決して離すまいとするかの様に強く、強く抱きしめる。
おいでアインス――――。
床に両膝を付き幼き自分を抱きしめ優しく頭を撫でる女性の姿がエレナの脳裏に浮かぶ。
その光景を前にエレナは始めて気づき……そして納得していた。
自分が意識せず女性らしい行動だと思いしてきた仕草や行為の全てが、かつて自分が母にして貰った行いの模倣であったということに……女性としてのエレナ・ロゼが母の影を、その面影を知らず追い続けていたということに。
そしてもう一人、見知らぬ女性が自分に語り掛けてくる。
――――悲しいねアインス……人の痛みが分かる優し過ぎる貴方にはこの世界はさぞ生き難いでしょう……でもいつの日か気づいて欲しい……貴方によって救われた多くの魂たちの存在に……貴方を縛るのものは決して呪いではないのよ……それは願い……それは祝福……だから誰よりも貴方には幸せになって欲しい……いつまでも貴方を愛してるわ――――。
エレナ・ロゼがアインス・ベルトナーに語りかけている……いや違う……美しい長い黒髪に神秘的な黒い瞳……その美しい女性はエレナ・ロゼの面影を残してはいたがもっと大人びた……。
既に虚構と現実の区別すら失っているエレナ。
彼女と過した記憶がエレナにはない……彼女の存在をエレナは知らない……。
名前すら記憶に無い女性を抱きしめているかつての自分。
それはまるで胡蝶の夢が如く。
やがてエレナの意識はゆっくりと眠りにつくように薄らいでいくのであった。
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