第148話
世界は無慈悲で残酷なもの。
正しき者が必ず報われるとは限らず、揺るがぬ信念を持つ者が常に誓願を成就できる訳ではない。邪な行いが正されるとは限らず、悲嘆の涙に暮れる者に救いの手が差し伸べられる保障など何処にもない。
理不尽と矛盾、正邪の区別なく盛者必衰の理の元、世界の歯車は常に廻り続けている。
まるで啜った生き血が滲み出たかの様に赤々と鮮血の色に染まる落陽の残光が、広大な草原を紅に染め上げ、犇き蠢く黒き獣の姿を返り血を浴び冥府へと誘う亡者たちの群れが如く映し出していた。
凶兆と不吉……その光景は正に黙示録に語られる世界の終焉の一幕、滅びを告げる黒き獣たちの再来を体現したかのような、そんな見る者の心を蝕む終末の世界を連想させる暗澹たる光景が周囲に広がっていた。
森を抜け、街道沿いにまで遣って来たエレナたちの視線の先、千にまで届こうかという黒き獣たち……ノー・フェイスの群れが、齎すであろうその死と破滅と共に街道を外れる事無く北東へと行軍していた。
読み違えた、と言うのか……。
二人の手前、表情には決して出さぬ……だがエレナの胸中に渦巻くのは己の迂闊さと愚かさへの慙愧の念。
山脈を越え、森に入った魔物の群れが海辺の街であるトルーセンを襲う可能性など、魔物の性質やその特性を熟知しているエレナには想定し難い極めて低い可能性であろうという判断に至っていた。
山脈からトルーセンまでの距離、水辺を嫌う魔物の習性、下級位危険種であるノー・フェイスの行動範囲と探知能力の低さ……その全てを考慮に入れても、魔物の群れが森を抜け街道の果てにあるトルーセンを襲う可能性など考慮から外しても問題はなかった……そう、なかった筈なのだ。
だが目の前の現実が端的に全てを物語っていた。
結果的に街を心配する二人の少年たちの憂慮こそが正鵠を射ていたことに……不確かな、あるかも知れぬ魔法の影響という可能性を排し、現実的な判断を下したエレナの憶測が間違っていた事実に。
複数の思惑が入り乱れる複雑な状況下において正確な判断を下す事の難しさはある……だがそれでもエレナは一度深く思いを寄せるべきであった。
極めて低いがそれでも決して零ではない可能性に。
それはこれまでエレナが……己自身が切り開き、乗り越えてきた僅かな可能性……何よりも自らがその未来を示す体現者であったのだから。
「エレナさん……この魔物たちは……まさか……」
街道沿い、森の入口付近に聳える木々の間に身を潜め、息を殺して様子を窺っていたレオニールは震える声でエレナに問うが、沈黙という静寂のみが支配するこの空間でエレナの口が開かれることはなかった。
乱れる事なく、ある種整然と街道を進む魔物の群れの行き着く先が街道の終着点であるトルーセンである可能性を今や疑う方が難しい……そうではない可能性もまだ十分に残されているとはいえ、この異様な光景を目の当たりにしたエレナには確信めいた思いが生まれていた。
だからこそ自分が信じぬ憶測を、安易な慰めにしかならぬ言葉をレオニールに返す事がエレナには如何しても出来なかったのだ。
「このまま群れをやり過ごすよ……少し予定は変更しなければならないけれど大丈夫、二人は必ず私が守るから……」
トルーセンに帰還する事が難しくなった以上、別の避難先を見つけねばならない……エレナは叩き込んだ周辺の地図を脳裏に思い浮かべ最適な避難路を模索する。
ソラッソ地方にはトルーセンの他にも幾つか海辺に小さな港街が点在している……数百人規模のこの小さな港町はロボスの避難命令の公布と共に今や無人の野と化している筈ではあったが、身を隠し休むには十分な設備と上手くすれば小船の一隻でも残されていれば海路を使った避難も可能になるかも知れない。
トルーセンを目指し進んでいた為に余計な日数は嵩むことにはなるが、最早他に選べる道がない以上、選択の余地などあろう筈もない。
「このまま魔物共を行かせたら……街は……トルーセンはどうなる……」
「今は自分たちが生き残ることだけを考えるんだクロ、余計な事を考えていられる場合じゃない」
「じゃあ……じゃあエレナはなんで……なんで、そんな顔をしているんだよ!!」
感情を爆発させるクロイルの言葉にエレナは初めて自分が浮かべている表情に気づく。
表情を歪ませ、悲壮感を漂わせた己の姿を……表情を崩していてもエレナの整った容貌は、その美しさは微塵も変わることはない……だが、苦しげに、泣き出しそうなただの少女にしか見えぬ今のエレナの姿は、エレナ・ロゼを知る者たちにとっては初めて見るエレナの儚さと弱さを感じさせる、らしからぬ姿であった事だけは
疑い様も無い。
全てを守ると誓った、もう二度と人の命を計りに掛けぬと誓った己の信念が、この二年以上の戦いの中、如何に幸運に恵まれ、周囲の者たちに助けられた結果による産物であったのかと、その道が薄氷を踏み続けるにも似た脆く危うい道であったのかをエレナは思い知らされていた。
数の暴力の前に個の力など無力に過ぎない。
分かり切っていた事実……だがその現実を目の前に叩きつけられ、エレナは知らず唇を強く噛み締める。
自分は今、トルーセンの街の人々と二人の少年たちの命に価値を定め選び取ろうとしている……二人の命を救う為に街の人々を見殺しにしようとしているのだ。
どう取り繕うがその事実は変わらない……この場に己一人であったならば、迷う事無く魔物の群れに剣を向け挑み掛かっていただろう……例えそれが無為の死を意味していたとしても、己が定めた信念に殉じるのであれば其処に後悔などあろう筈もない。
だがそれは出来ない……例えそれが己の信念を歪めるような行為だとしても、無限の選択肢に満ちた、可能性を秘めた二人の輝かしい未来を、その生涯を閉ざすことなどエレナが選べる選択であろう筈も無い。
「もう十分だ、エレナ」
先程までとは一転して何処か落ち着いた調子のクロイルの声音に、エレナははっ、としたように顔を上げる。
駄目だ……。
その声の様子からクロイルが何を語ろうとしているのかエレナは悟ってしまう。
駄目だ……今その言葉を聞いてしまったら私は……。
「エレナさんのお陰で僕たちは此処までこれました……貴方から教わった様々な事柄を僕たちは決して忘れない……騎士としての心構えを、生き様を……貴女から
学んだからこそ一人の騎士として大切な者を守る為に戦いたい」
行かせて欲しい、とレオニールの瞳がエレナに語る。
「なあ……エレナ、お前と共にあれば俺たちは命を長らえるかも知れない……けどよトルーセンには俺の家族が、母上と妹たちが居る。我が家に仕えてくれている多くの使用人たちもだ」
真っ直ぐに揺らがぬクロイルの瞳がエレナへと向けられている。
「自分たちの命惜しさにこの俺が、大切な者たちの為に剣を振ることなく失って、バルザック様と共に勇敢に、雄雄しく戦い死んで逝った親父や兄たちに何と言って詫びれば良い……この先の人生、何を誇って生きて往けば良い?」
「見届けて下さいエレナさん……僕たちの生き様を、僕たちの死に様を、貴女に見届けられて往けるのなら誰の記憶に残らずとも構わない、貴女の中に生きた証として刻まれるのならそれが最高の名誉であり誇りなのですから」
一人の騎士として死に場所を定めた二人……その瞳は揺るがぬ決意に満ちていた。
恐怖の為だろう、額に汗を滲ませ身体の震えを必死に押さえようとする二人の姿に、恐怖と絶望の中、己を奮い立たせるかの様に猛けき焔を宿す瞳を前に、エレナは強く、強くその手を握り締める。
「おいで、二人共」
エレナは片膝をつき両手を広げ二人を誘う。
そのエレナの突然の行為に始めは戸惑い躊躇していた二人であったが、やがて引き寄せられる様にゆっくりとエレナの下に歩みを進め、エレナは優しく二人の頭を己の小さなその胸元へと誘い、そして優しく抱きしめる。
触れ合う頭部から伝わってくる柔らかなエレナの胸の感触に、春の花の様な甘く優しい匂いに、二人は照れ臭さと共に不思議と恐怖心が薄れ行くのを感じる。愛しい者の腕の中、一時二人は全てを忘れ、名残惜しいその感触に身を任せ瞳を伏せた。
「君たちを救う事も出来ぬ無力な私をどうか許して欲しい……罪無き都市に住む大切な者たちに何一つしてやれぬ不甲斐無きこの身をどうか許して欲しい」
エレナの偽らざる感情の吐露……万感の思いが込められたその言葉一つ一つがまるで濁流の様に押し寄せる想いの深さを示すかの様にその口から綴られる。
守るべき者たちの為、愛すべき者たちの為に己の矜持となけなしの勇気を搾り出し、最期の時を覚悟し挺身を捧げようとしているこの若者たちに今の自分が出来る事……悩むことも考えるまでもなく、それは一つしかない。
恐怖に抗いながら戦う事を選び抜いた勇敢な若者たちの姿を前に、自ずとエレナの決意は定まる。
「あたら若い身空で常世の地へと旅立てば先達たちに酷く叱られよう、ならばせめて私も共に参り、小言の幾つかを引き受けるとしようか」
「エレナ」
「エレナさん」
優しく二人の髪を撫でながら立ち上がるエレナの姿に驚いた様な二人の声が同時に漏れる。
見上げる二人の視線の先、エレナの表情に最早迷いの色は無い……凛として雄雄しく美しく、咲き誇る一輪の花……其処には二人が焦がれ憧れたエレナ・ロゼの姿があった。
「若き騎士たちよ、この地を最期と定めたならばこの先に何が待ち受けようとも一歩も退くな、己の全てを……その生の全てを燃やし尽くして戦い続けろ」
艶やかに、神々しいまでの気配を漂わせ、鮮やかに双剣を抜き放ちエレナは吼える。
そのエレナの気配に呼応するかのように立ち上がった二人の騎士たちは短く、だが揺るがぬ意思を秘めた裂帛の気合の声が夕日に染まる木々の中を響き渡る。
大きく息を吸い込み、小刻みに息を吐き、繰り返される不規則で独特な呼吸法。
心に刻み込むのは一個の鋼……研ぎ澄まされた抜き身の刃。
心に描く心象風景……宿す姿は最強の己。
それはエレナ・ロゼのとっておき……若き日の、未熟な頃のアインス・ベルトナーの切り札たる特殊戦闘技法。
かつてビエナート王国の王都を席巻した復讐鬼、剣鬼ユースタス・フロストが用いたこの特殊戦闘技法は強烈な自己催眠と自己暗示によって身体能力を飛躍的に向上させる効果を持つ。
その効果は痛覚の遮断、疲労感の消失、身体に掛かる負荷の制限を外すことによる身体能力の大幅な向上は人体の限界を超える能力を引き出すことを可能にする反面、その副作用もまた尋常なものではない。
肉体が限界を迎えるまで任意で解除することすら出来ず、一度限界に達すれば頑強であった若き日のエレナ、いやアインスの肉体ですら数日意識が混濁し、身動ぎすることすら困難なほどの肉体的負荷を齎すこの戦闘技法は諸刃の剣であり、限界を見極められぬ故に後年のアインスは扱う事無く、エレナ・ロゼとして生きる今もまた、脆弱な肉体では耐えられぬ負荷である為にこれまで使用したことは一度たりと無い。
苛烈を極めたアドラトルテの戦いにおいてですらも、最期の瞬間に至るまで勝利と帰還を信じる僅かな望みがある限り、エレナが使用を控える程の最強にして最悪の切り札。
それこそが当時、当代最強と謳われたユースタスの身を滅ぼし、またアインス・ベルトナーが封印せし最凶最悪の特殊戦闘技法、神域に至る極地『アルカナル・ペイン』。
驚く程に静かな気配……二人に背を向け立つエレナはそっと双眸を上げる。
冬の澄み切った夜空の様な神秘的で美しいエレナの黒き瞳は落陽の照り返しの為ではなく、その両眼は燃え上がる赤き焔の如く緋色に染まる。
妖しいまでに美しく、それは古の魔眼が如く灼眼と化したエレナの瞳……侵食に至る自己催眠と支配に及ぶ自己暗示が瞳の色素をも変質させ『アルカナル・ペイン』は発現する。
「此処が我らの死に場所だ」
厳かとすら呼べる程穏やかなエレナの問い掛けに長剣を引き抜き応える二人。
その頼もしき気配にエレナは僅かに口元を綻ばせる。
「ならば往こう、死出に旅立つ手向けにその目に焼き付けると良い、エレナ・ロゼの生涯最高の剣技を」
風が吹き抜ける――――正にそれは疾風の如く。
魔物の群れの側面へと躍り出たエレナは残滓を残す程の速度で一足一刀の間合いへと迫る。
半身身を捻らせ半円に振り抜かれた双剣が大気を切り裂き風鳴りを響かせ――――瞬間、エレナの剣戟の間合いに犇くノー・フェイスの胴体部が鋭利な切断面を残し、ずれ落ちどす黒い鮮血を周囲に撒き散らす。
夕暮れの草原に赤と黒の残影が全ての色を飲み込んでいく。
神速と謳われるエレナの神域に至る剣速と剣圧は切り裂いたノー・フェイスの背後の大地すら削り取り……それは人という種の限界を超えた人外の身業。今のエレナの速度は上級位危険種ヘイル・スロースにすら迫る。
爛々と紅に染まる双眸を魔物の群れへと向けエレナは駆ける。
後ろに続く少年たちの気配をその背に、エレナは限界を迎える最期の瞬間までその歩みを止めるつもりは無く、天より舞い降りた戦乙女の如く猛々しく雄雄しく、そして誰よりも美しき少女は己の全てを賭して黒き獣の群れの中へとその身を躍らせるのであった。
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