第127話


 エレナたちの馬車へと土煙を上げ駆ける騎馬が一騎、急速にその距離を縮め迫る……だが向こうも此方の存在を認識したのだろう、馬車の側を駆け抜ける勢いを見せていた騎馬の速度は馬車に近づくにしたがい徐々にその勢いを失ってゆき、やがてエレナたちの前方で止まった。


 ドタッ、という異音と共に騎士らしき男を乗せたままの騎馬が横倒しに石畳の街道へと横転し、その反動で馬上の騎士もまた石畳へと転がり落ちた。

 その光景を前に騎馬の下へと駆け寄るエレナたち。

 石畳に横たわる馬はその身を小刻み震わせ、口からは泡状の唾液を溢れさせるながら荒い息を吐く姿は恐らく一昼夜以上駆け続けてきたのであろう、体力と気力の限界を超え、最早二度とは立ち上がれぬであろう最後の時の訪れを感じさせた。

 エレナたち一行の姿を認め張り詰めていた緊張の糸が……極限までに引き絞られていた弓の弦が断ち切られたかの如く今は力なく地に伏す馬体……だがエレナを見上げ見つめる黒い瞳には成し遂げたという達成感と主の為、全てを捧げ尽くしたという誇りが強い意思の輝きと共にその瞳には宿っていた。


 「そなたは使命を全うした、今はゆっくりと休むとよい」


 エレナは倒れ伏す馬の前に片膝をつくとその馬の瞳を見据えたまま、まるで人に語り掛ける様にその鬣を優しく撫でる。馬の呼吸がゆっくりとゆっくりと小さくか細く断続的に途切れだし、やがてその瞳からは輝きが消えていく。

 エレナはその最後の時まで馬の側に寄り添う様に、消えゆく命を見取り見守り続けた。


 「傭兵……か」


 落馬した騎士が身を起こし、駆け寄るベルナディスたちに右手を伸ばし制止を促す。その行為は明確に側に近寄られる事を拒む拒絶の意思を示していた。


 落馬の際頭部を打ったのであろう額から血を流す騎士の様子は、だが明らかにそれ以外の要因があるであろう異様さが窺える。

 左手で顔を覆う手の隙間から覗く瞳は充血した様に赤く、理性の輝きを残しながらも血奔り何処か焦点が合っていない。こめかみには血管が浮き上がり、極度の興奮状態にあるのか鼻や耳からは少量ながら出血が見られる。それら騎士の症状は落馬の衝撃ゆえのものとは到底思えぬ症状であった。


 「何の縁も誼みも無いが傭兵よ……どうか頼まれてはくれぬか」


 騎士は震える手で腰に結んでいた小さな皮袋を外すとそれを最も近くに居たベルナディスへと投げて渡す。咄嗟に手を伸ばしたベルナディスの手の上で皮袋の確かな重みと硬貨同士が擦れる音が僅かに響く。

 騎士と一介の傭兵……いかに身分の差があるとは言え、今の騎士の行為は礼儀に失する無礼な行いではあった……だが頑なに自分たちを側に寄せようとしない騎士の様子から何かしらの事情があるのだろうとベルナディスは推測する。


 「此処より先……ラーゼンへと続く街道から魔物の群れが後退中の我が騎士団を追い南下を始めている……我らは生き残りを賭けオルバラス地方へと離脱を開始していると……この事を急ぎトルーセンのバルザック様に……」


 騎士は其処で激しく咳き込み言葉が途切れる。

 ベルナディスは予想外の騎士の言葉に表情には出さぬが驚きを覚えていた。

 ダラーシュ騎士団の生き残りだと思っていた騎士の男は内陸部の都市ラーゼンへと向かったトルーセンの騎士団の者だと言うのだ。そしてこの騎士の男は本来ならば救援として到着したであろうダラーシュ騎士団がこの平野において壊滅している事実に今だ気づいてはいない様子であった。


 「その依頼受けよう」


 ベルナディスの短い言葉に騎士は満足そうに頷く。


 「もう一つ……これだけは厳に注意を促して貰いたい……ラーゼンの地より南下する魔物の群れの中に得体の知れぬ化け物が一匹混じっている……女の顔を持つ薄汚い大蛇……穢れた化け物……奴の側に近づき過ぎると心が冒される……壊される……」


 騎士の血奔った瞳に狂気の色が色濃く現れるが、騎士の男は血が滲むほどに唇を強く噛み締めその湧き上がる衝動を必死に押さえ込む。


 「あれがどの様な魔導の類かは知らぬ……だが決して近づき過ぎてはならぬ、とその事だけは確かに伝えてくれ……」


 「トルーセンの騎士よ、確かに承知した」


 ベルナディスの迷いの無い快諾の言葉に騎士は一瞬口元を綻ばせ、徐に腰の剣を抜き放つ。その騎士の姿を前にしても動じる素振りすら見せずベルナディスはその場で騎士の姿を見つめている。


 「困った……ものだ……こうしていてもお前たちを斬り殺したくて仕方が無い……心底おぞましい……最悪の気分……だ」


 剣呑な言葉とは裏腹に、どたり、とその場に座り込んだ騎士は抜いた刀身の半ばに己の手を添え、自身の首筋へとその刃を沿える。


 「騎士殿、名を」


 呪いに冒され手遅れであろう己の死期を悟った騎士を前にせめて出来る事があるとするならばその名を胸に刻み忘れぬ事のみ……ベルナディスの言葉に男は一瞬驚いた様子を見せたがやがてその顔に照れくさそうな苦笑にも似た笑みが浮かぶ。その表情を、覚悟を宿す騎士の顔にベルナディスは腰の剣へと手を伸ばす。


 「介錯は無用」


 騎士の短いがはっきりと強い意志を帯びた拒絶の言葉。

 戦場に散るのもまた騎士の本懐……ならばその死を前に他者の手など借りぬ、と騎士としての矜持が男としての意地がその短い言葉から溢れ漏れる。


 「気遣いは不要……ただ一つ……残された我が同胞たちのこと……どうか……どうか頼む」


 騎士とベルナディスの瞳が交差し、確かに頷くベルナディスの姿を目にした騎士は満足げに瞳を伏し……そして――――。


 騎士の手が引かれその刀身により裂かれた首筋から勢い良く舞い散る血飛沫が石畳の街道を濡らす。しばし上体を揺らしていた騎士の手から長剣が離れ、乾いた音を立て地面へと落ちた。

 うな垂れる様に息絶えた騎士へとエレナは近づくと見開かれたままの騎士の瞳にそっと左手を添えその瞳を閉じさせた。


 「この依頼傭兵団として受けた、エレナとアニエスは街道を戻りカルヴィン殿と共に野営地に報告に向かって欲しい。我々はこのまま街道を進み撤退中の騎士団を援護する」


 見上げるエレナの黒い瞳がベルナディスを見据える。

 流れる沈黙。


 「分かった」


 エレナの短い言葉だけが沈黙を破り周囲に響く。

 今の自分が、この身体が長時間の戦闘に耐え得ぬ事は誰よりもエレナ自身が分かっていた。己の我侭を押し通す事と意地を張り続ける事は決して同異ではない。

 戦場に思いを馳せる己の心をエレナは必死に自制する……自分が原因で仲間の足を引っ張る事だけは、その足枷になる事だけは絶対に避けねばならなかったからだ。


 「戦場で合流する事は難しいだろうゆえ、これより先はシャリアテで再度合流するとしよう」


 ベルナディスの発したシャリアテとはオルバラス地方第一の都市であり、特殊な事情により地方領の中でも最も栄えている大都市の名であった。



 会話に参加する事はなかったがその内容に異論はないのであろうフェリクスが、ルイーダに付けられていた牽引器具を外す。馬車から解き放たれたルイーダにアニエスが鞍を付けるとルイーダはそのままエレナの前にと歩みを寄せ四肢を畳む様に身を屈ませる。


 そのルイーダの背にエレナがそしてエレナを後ろから支える様に、抱く様にアニエスがルイーダの背に跨る。


 「私の心配はいらない、全力で駆けてくれルイーダ」


 鬣を撫でるエレナの意思を汲み取った様にルイーダが短く嘶く。

 立ち上がるルイーダ。エレナの視点が一気に高く広がる。

 見惚れる程に筋肉質で巨大な馬体、単騎で立つルイーダの立ち姿は並の馬では持ち得ない威圧感にも似た雰囲気を纏っていた。


 馬上の二人、それを見上げる三人。

 其処に別れの言葉など無い。


 アニエスが手綱を引くと瞬時に反応しルイーダが石畳を蹴り上げる。

 それはまさに疾風……吹き抜ける風が如く瞬く間に街道を逆進しその馬影が黒い点となってベルナディスたちの視界から消えていく。


 「とんでもねえ馬だな」


 その姿を目で追っていたフェリクスは呆れた様にぽつり、と呟いていた。


 ベルナディスは残された一頭……オルテガへと目を向ける。


 「負担を掛けて済まぬな」


 フェリクスとフィーゴが馬車へと乗り込む中、掛けられたベルナディスの言葉に、だがオルテガは一頭だけで馬車を持ち上げ進みだす。

 居住性を持たせた為に荷台部分の重量は従来の荷馬車とは比較にならず六輪で車体を支えているとは言え、本来ならばその荷重に対して四頭引きでの運用が適正であろう荷馬車をオルテガはたった一頭で引いていた。

 流石に軽々と、とは行かずとも普通の馬なら動かすことすら困難な重量を持つ荷馬車を通常の運行程度ならば特に支障をきたさぬ程度に可能にさせるオルテガもまたルイーダと同様に並みの馬などではなかった。



 「だが正直俺たちが駆けつけても厳しいんじゃねえか」


 駆け足程度だがそれでも一頭引きだという事を考えれば十分に異常な速度で走る馬車の御者台でややフェリクスが渋い表情を浮かべる。戦いの場に臨む事は嫌も応もないが、だからといって勝算の無い戦いで無駄に命を落とすつもりもまたフェリクスには無かったのだ。


 「確かに勝ちは薄い、だが生き残るという一点に賭けたというならば此方ではなくオルバラス地方への撤退は彼らの命運を薄皮一枚繫いでいる」


 「なるほどねえ、メーデ・ナシル運河だね」


 ベルナディスの謎かけの様な言葉の真意に始めに気づいたのはフィーゴであった。


 ソラッソ地方とオルバラス地方の間には外洋へと続く巨大な運河が存在していた。

 その運河の名はメーデ・ナシル。

 最大で川幅が六百二十メートル。最深部の水深が実に三メートル半にも達するオーランド王国最大の河川であるメーデ・ナシル運河こそが撤退戦を繰り広げる彼ら騎士団の最後の希望であり、ベルナディスが言う僅かな可能性であった。


 海洋に魔物が存在しないように、陸地においても魔物は水辺を嫌う。

 協会に所属する研究者たちの発表においても水深の浅い河川は別にして、その個体の身の丈以上ある水深の河川を魔物が渡河したという報告はこれまで一件も寄せられてはいなかった。

 仮説の域を今だ出ないが、水深が三メートルを超えるメーデ・ナシル運河ならば魔物がそれ以上追って来ない可能性は十分にあったのだ。

 少なくともオルバラス地方へと抜ける街道に比べ遥かに距離があるトルーセンやセント・バジルナ方面へと撤退するよりは生存確率が高いことだけは間違いない。現にこの状況でもし魔物を引き連れた彼らが此方側に進路を取っていたのなら、ダラーシュ騎士団全体が壊滅の危機に瀕する事態になっていたかも知れないのだ。


 「分の悪い賭けなのは変わらねえがな」


 その言葉とは裏腹に嬉々とした表情でフェリクスは前方を見つめる。そうであるならば負け戦も悪くない、とありありとその顔に刻まれている。


 今だ得体の知れぬ魔物の脅威は残るものの、それぞれの思いを胸にエレナたちは街道を走る。


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