第120話


 闇夜を穿ち放たれる鋼。

 撃ち抜かれた長尺の刃が齎す振動が、空気を、空間を軋ませ、さながら断末魔の悲鳴が如く鳴り響きながら違う事なくノルズバックの頭部を貫通する。

 長刀に頭部を射抜かれたノルズバックは数度小刻みに痙攣を繰り返すが直ぐに動かなくなる。原型を留めぬ程に破壊された顔面から後頭部までを貫いた刀身の刃先をフェリクスが一気に引き抜くと、開かれた風穴から脳漿を撒き散らせノルズバックの黒き体毛に覆われた身体が前のめりに傾き地面へと沈む。


 「どうした小猿ども? もっと足掻いてみてはどうだ」


 途轍もない重量を持つ長刀を軽々と片手で一閃させてフェリクスは闇に潜む影へと嘲笑を送る。フェリクスは足下、散乱するノルズバックの頭部の一つに足を掛け挑発して見せるが、最早闇から姿を覗かせフェリクスの前に姿を現す個体はない。


 その様子に興が冷めたとばかりにつまらなそうに闇を見据えるフェリクスの背後で気配が動く。


 「遊びはその程度にしていきなさい、闇夜でノルズバックを追うのは無意味だわ」


 振り返るフェリクスの前に立つのは長身の美女の姿。

 アニエスが軽く腕を振ると展開されていた鋼線が月明かりに一瞬煌き、闇夜の下、もう一つの星空が誕生したかのような錯覚すら齎す幻想的な光景が刹那広がり、消える。


 えげつねえ女が良く言う、とフェリクスは一瞬眉根を顰めるがらしくなく、と言っても良いのかそれをアニエスに対して面と向かって口に出す事はない。


 同時に襲われたのだから当然ではあったのだが、アニエスの周囲にもまたノルズバックの死骸が散乱している。だがフェリクスの足下に転がり動かぬ死骸とは異なりその数を判別することは難しい。

 アニエスが扱う鋼線の特性故にその手に掛かった者の末路は惨たらしく、醜悪とすら呼べる程に凄絶なる光景を作り出す。

 残骸と化し臓物を撒き散らす血の海に立つアニエスの姿は、倒錯的な興奮すら呼び起こす程に妖しく美しい姿ではあったが、その惨状の中顔色一つ、眉根一つ動かさぬアニエスに多くの者が抱くのはやはり憧憬よりも畏怖であろう。


 氷の女王とは良く言ったもんだ、とまた軽口が浮かぶがアニエスの自分を見据える冷徹な輝きを帯びた瞳を目にし言葉を吞み込む。

 本人が自覚的かどうかは別にして、アニエスはエレナとは違い女特有の思考ゆえなのか男に対して常に品定めをしている節がある。それは男には見られぬ種の計算高さと残酷さを感じさせフェリクスに強く女を意識させるのだ。

 そんなアニエスをはっきり言ってしまえばフェリクスは苦手であった。

 対して同じ女でも自身の中で確固たる線を引き、引かれた線の内側の人間に対する強い想いと比べ、線の外側の人間に対しては苛烈なまでの冷酷さを見せる極端な二面性を併せ持つエレナ。

 フェリクスが知るどの女ともまるで異なる異質な存在……慈愛の女神カルハナと冥府の女王シャウラの間の子の様に、美しき少女の身に宿る光と闇が、その狂気の様な生き方がフェリクスの胸を湧き立たせる。エレナ・ロゼという少女の在り様に強く興味を惹かれるのだ。



 そうしている間に二人の耳に慌しく飛び交う騎士たちの声が響いて来る。

 ノルズバックの襲撃に対し完全に後手に回っていた騎士団がようやく態勢を整えつつある様子を目にしアニエスは気配の消えた闇夜の平原へと視線を向ける。


 「いやぁ姉さん助かったよ」


 不意に掛けられた声に、背後に生じた気配にアニエスは反射的に鋼線を放ちかけ――――その姿を捉えた刹那指の動きを止める。


 アニエスの瞳に映るその男は、カルヴィンは頼りなげな笑顔を浮かべ立っていた。


 この男……。


 エレナの様な鋭利な感覚やフェリクスの持つ本能的な直感には及ばなくとも、アニエス程の使い手ともなれば周囲の気配に対する感覚は常人の比ではない。例えカルヴィンに害意が無くとその接近に気づかなかった事にアニエスは僅かな動揺を示すが無論それを表情に出す様な真似はしない。


 「今、伝令の部隊が駆け回って現状を確認中なんですが、取り合えず大きな被害は出ていないみたいですね」


 姉さんの知らせが早かったお陰で、と如才なく付け加える事も忘れないカルヴィン。


 対処が早かった事を別にしても散発的な襲撃に留まっている現状を考えればノルズバックの数がそう多くは無いと推測するのが妥当であろうか。そうでなければ群れでの行動が基本であるノルズバックの習性を考えても、もっと広範囲で大規模な襲撃が行われていても不思議ではなかった。


 だがしかし、とアニエスは整った美しい眉根を寄せる。


 ノルズバックは臆病とすら呼べる程に恐ろしく慎重な魔物。ある意味、より動物的な習性を持つといっても良い。そんな魔物が如何に地の利があり、夜間とはいえ数で劣る上に武装した人間の集団を襲う事自体がアニエスが知る認識とは掛け離れた不可解な行動に感じられたのだ。

 その事に妙な胸騒ぎをアニエスは覚える。


 「直に被害報告も纏まるでしょうし、態勢も整うでしょうからこれ以上の大きな被害は防げるでしょう」


 姉さんのお陰で、と付け加える事をカルヴィンは忘れない。

 この状況においても普段と変わらぬカルヴィンの様子に存外に図太い、とは思ったが、考えて見れば三十代であろうカルヴィンは大陸の動乱期と災厄を体験として生き抜いてきた世代……この程度の事で取り乱さぬのは不思議な事では無い。

 最もカルヴィンが傭兵としてあの時代を生き抜いたと言われれば正直疑わしい、とは思ったが……。


 カルヴィンの中隊の騎士たちであろう、男たちが松明を手に次々に篝火に炎を灯して廻っている。

 明かりを嫌うノルズバックへの対策としては地味ではあるが効果的な方法ではあった。野営地に侵入したノルズバックの群れを殲滅する事は実際は難しい。夜目が利き俊敏性に優れたノルズバックの運動性能は人間の比ではなく、闇夜の中それを追走するなどはまず不可能であったからだ。

 襲ってくる固体に対応しながら他の魔物の襲撃に備え周囲の警戒を強化すると言った対応に終始する事にはなるが、日の出まで凌げば確実に事態は好転するのだから現状では妥当な判断といえるだろうか。


 「俺たちもエレナの後を追った方がいいんじゃねえか」


 長刀を鞘に納め二人に歩み寄るフェリクス。


 「其方にはベルナディスとフィーゴが向かっているし騎士団も動くでしょうから、私たちはこのまま手薄になっている防御柵を回りましょう」


 恐らくノルズバックの侵入路となった森に側した東面は最も大きな被害が予想されたが、エレナがいち早く向かっていたし、騎士団もまずは其処に部隊を送り込むであろうことは間違いない。

 侵入したノルズバックは多く見ても数十体程度だとアニエスは考える。

 エレナであれば一人でも対応は可能であろうし、直にベルナディスとフィーゴも合流する。

 はっきり言って後詰である彼ら騎士たちの錬度はお世辞にも高いと言い難い。無用な被害を増やさぬ為にも自分たちは分散した方が良い。

 それがアニエスが下した判断であった。


 アニエスの判断にフェリクスにしても思うところはあるのであろうが表立って反論する様子は見られず、カルヴィンと連れ立ち中隊の騎士たちと共に天幕群を離れるアニエスの後姿に続くように歩みを進めた。




 「なあエレナ……早く皆に知らせにいかねえと」


 人の気配が絶えた天幕群に囲まれ、まだ周囲の闇にノルズバックが徘徊しているかと思うとトラスの心中は穏やかではない。辺りを慎重に見回すトラスの視界が闇夜を見やりその闇の深さにぞくり、と身体を震わせる。


 「大丈夫トラス殿、もう近くには奴らはいない様です。それに数もそう多くは無い様ですし、アニエスたちが異常を知らせているでしょうから直に救援も来るでしょう」


 少し前ならば反発を覚えていたであろう、エレナの言葉をだが今のトラスはそうか、と素直に受け入れる。明確な根拠もないエレナの言葉ではあったが、この少女がそう言うのであればそうなのだろう、と妙に納得させられてしまうのだ。


 「なあ……その殿ってのは止めにしねえか、俺はそんな柄じゃねえしよ」


 「分かりましたトラスさん」


 さん……もいらねぇんだけどな、とトラスは少し複雑な表情を浮かべるが、考えて見ればまだ出会ってから間もない上に、その最悪の出会い方を思えば例え他人行儀な言葉遣いであろうがこうして話が出来ているのなら文句など言えないと思い直す。


 なにやら思案しているのか難しそうな表情を浮かべているエレナに矢継ぎ早に話し掛けるのが躊躇われ、何気なしにトラスは近くの天幕の入口に手を掛けるが……その手が止まる。

 先程見た男の血塗れの手が天幕の中へと引き込まれる光景が脳裏を過ぎったのだ。


 少なくともこの東面の天幕群には百人からの男たちが居た……だが今は一人の姿も見られない。

 痕跡すら残さず喰われたとは考え難い……だとすれば彼らは一体何処に行ったというのだろうか。


 明かりの差し込まぬ天幕の闇、その中で広がっているかも知れぬ惨状を想像しトラスは身震いすると知らずエレナの方へと後ずさる。


 「腑に落ちない……」


 近づかねば聞き取れなかったかも知れぬエレナの口から漏れた小さな自問。


 トラスはその意味に思いが至らずエレナへと問い掛け様と口を開きかけ……。


 空気が凍りつく。


 そうとしか形容出来ぬ程その場の空気が一変する。


 ノルズバックの群れに囲まれて尚、泰然と動じる様子すら見せなかったエレナが、一点を見据え放つ気配は闘気と呼ぶには余りにも冷え冷えと……氷の刃の如く凍てつく様に冷たく鋭く、その黒き双眸に宿るのは蒼く揺らめく焔。


 美しき少女の突然の変貌を前にトラスは咄嗟にその視線の先へと目を向ける。


 ソレは突然に、なんの前触れすらなく其処に存在した。

 ソレが左手に掴む生首たちが恨めし気に光の宿らぬ瞳でトラスを見つめる。

 生首から滴る血が地面を濡らす事はなく、重力を無視する様にソレの左手が握る黒き剣、その漆黒の刀身へと吸い込まれていく。


 一騎当千の英雄。

 神々に祝福されし勇者たち。


 人々が憧れる神話の英雄譚……ソレはそんな英雄たちとは似て非なる存在。

 光と闇が一対として存在するように、騎士殺しの忌み名と共に語られる反英雄。


 二人の眼前に姿を現した漆黒の騎士の名はへイル・スロース。


 エレナにとって忘れえぬその姿は、かつてノートワール近郊で多くの同胞たちを喰らい尽くした怨敵の姿にエレナの口元に笑みが浮かぶ。


 その微笑が余りに妖しく、恐ろしい程に凄絶で……トラスは言葉を失う。


 動けぬトラスの眼前で漆黒の騎士と少女が対峙しようとしていた。


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