第121話
長身……などと呼ぶには余りにも長大であり、身の丈三メートル近くはあるだろうか、その身体に漆黒の鎧を纏わせた黒き騎士が歩みを進める度に、ギシッ、ギシッ、と金属が擦れ合う特有の異音が漏れ聞こえる。
人間に限りなく近い姿見……だが決定的に人とは非なる存在と己を示すかの様に、頭部がある筈の部位には黒い靄が掛かり闇夜に溶け込む様に漆黒に塗り潰された靄から二つの血奔った眼球のみが浮かび上がっていた。
「お……おいおい……なんだよ……あれ」
初めて見る魔物……だがその存在が普通ではないことくらいはトラスにも分かる。
治まり掛けていた胸の動悸が一掃の激しさを増し打ち鳴らされ出すと、全身から冷たい汗が滲み出し止らない。
「あれはやべえよ……逃げようエレナ」
「駄目だトラスさん!! もう奴の領域に――――」
魔物とはまだ十分な距離が離れている……全力で走れば早々追いつかれはしない。その思いがトラスの身体を動かし、エレナの声はトラスの耳には届かない。
ヘイル・スロースへと意識が向いていたとは言え、傍らのトラスに対しての注意が散漫であったと言われればエレナは反論はしなかっただろう。エレナはこの予想外のトラスの行動への反応が僅かに遅れる。
結果走り出そうとするトラスに腕を取られ、体勢を傾かせたエレナの視界から刹那、ヘイル・スロースの姿が外れ――――。
「なっ……」
予期せぬ衝撃にトラスはエレナを掴む手が離れ、背後へと横転せぬ様に無意識に軸足を踏ん張る。
僅かに遅れ、自分がエレナに突き飛ばされた、とトラスが気づいた瞬間トラスは信じられぬ光景を目の当たりにする。
先程まで十分に距離が離れていた筈の黒騎士が既に眼前へと迫り、自分を庇う様に態勢を崩したエレナへと漆黒の刀身を振り下ろそうとするその瞬間を。
態勢を崩しているエレナはまだ双剣を抜刀すらしていない。
無慈悲に振り下ろされる漆黒の刃……唸りを上げ、闇夜を深遠の闇へと染め上げ迫るヘイル・スロースの黒剣に瞬間閃く様に抜き放たれたエルマリュートが交差する。
光と闇が闇夜を彩り、エレナの首筋を違えず捉える黒剣を根元で受けるエルマリュート。
そのまま受ければ容易くエルマリュートの刀身ごとエレナの首は断ち切られていたであろう、ヘイル・スロースの一撃をエレナは崩れた態勢を立て直そうとはせず、片膝をつく様に半身に身を反らせ黒剣を受け流していく。
黒剣がエルマリュートの刀身を滑り、刃先へと流れてゆく……だが黒剣の威力を殺しきれずエルマリュートの刀身が悲鳴を上げるかの様に軋み、エレナは右腕を伸ばし肘で十字を刻む様に自身の左手を支え凌ぐ。
「くっ……」
エレナの白い頬を冷たい汗が流れ。
瞬間、轟音と共に上がる爆風の様な土煙。
大地を穿つ黒剣の衝撃で数メートル先の地面にまで亀裂が奔る。
舞い上がる土煙の中、弾かれたエルマリュートが虚空に舞い、その瞬間ヘイル・スロースから飛び退く様に後方へと跳躍したエレナの遥か前方へと刃先を突き立てる様に地面へと落ちる。
ヘイル・スロースを挟み前後に別たれるエレナとトラス。
ヘイル・スロースを見据えるエレナの双眸には尚蒼き焔が激しく燃え上がる。しかし立ち上がったエレナの左腕は力なくだらり、と垂れ下がりまるで動く気配を見せない。
エレナは苦痛で表情を歪める事こそなかったが、その流れ落ちる汗の異常さを見れば恐らくは脱臼しているであろう左腕の痛みに耐えている事は想像に難しくはなかった。
エレナは残る右手でアル・カラミスを抜き放つ。
ヘイル・スロースはそのエレナの姿に、無造作に左手で掴んでいた生首を投げ捨てると地面を抉り突き刺さる自身の黒剣を引き抜かず、引き摺る様に歩み寄って行く。
自分を無視する様に背を向けエレナへと歩みを進める黒騎士の背。
トラスは腰の剣を引き抜き立ち上がる。
「待てよ……このクソ野郎」
震える声、それに同調するように身体が、剣を握る両手が小刻みに震える。
襲い来る恐怖に気が狂いそうになる。
喚き立てながら背を向けて逃げ出したい。
そんな悲鳴を上げる心とは裏腹に剣を抜きトラスは立つ。
二度も少女に……エレナに救われ、しかも自分が原因でその少女が窮地に陥っていると言うのに我が身可愛さに逃げ出すなど、今のトラスには無様に死ぬ事より恐ろしい。
それはちっぽけな意地……だがその意地がトラスを突き動かし絶望を、恐怖を撥ね退ける力を与えていた。
「うおおおおおっ!! 」
雄叫びを発し無防備にすら見えるヘイル・スロースの背に渾身の斬撃を放つトラス。
防ぐどころか振り返りすらしないヘイル・スロースの背に打ち込まれたトラスの剣が鈍い金属音を放ち弾かれ、その衝撃でトラスの身体が傾く。
渾身の一撃……だが傷一つつかぬその背に、それでもトラスの意思は心は折れない。
全身全霊を込め、有らん限りの力を搾り出しトラスはヘイル・スロースへと剣を打ち込み続ける。
闇夜に一瞬の火花が揺らめき消え、また揺らめく。
やがてそんなトラスが煩わしくなったのか、ヘイル・スロースはまるで纏わりつく小蝿でも払おうとするかの様に僅かに身を捻り剣を握らぬ左腕を振り上げる。
瞬間、風が奔る。
一瞬自身から意識を外したヘイル・スロースの僅かな隙をエレナは見逃さなかった。
張り詰められた弓から放たれた矢の様に、闇夜を切り裂き奔るエレナ。
だがヘイル・スロースの反応速度は人間の物理限界を超える。
即座に放たれたヘイル・スロースの黒剣がまるで転移したかの様な錯覚を齎す程の速度で打ち払われ、身を沈ませるエレナを捉え――――重なり合い、エレナの身体を透過する様にすり抜けていく。
錯視……錯覚を齎す程の両者の速度。
漆黒の刀身はエレナの胸元を裂き、露になった小さな双丘の上にその切っ先が血の筋を刻みながら振り抜かれる。
瞬間放たれたアル・カラミスが銀閃を虚空に刻みヘイル・スロースの胴を薙ぐ。
鋼を削る様な金属音と共に青い鬼火の如く火花が闇夜に散る、
エレナの神速の一刀……それを以ってしてもヘイル・スロースの胴を絶つことは出来ない。
アル・カラミスの刀身が軋み、限界寸前でエレナはその刀身を返す。
追撃する様に打ち上げられるヘイル・スロースの黒剣。
全霊の一撃を放ち揺らぐエレナ。その視線がヘイル・スロースを挟みトラスの瞳と交差する。
ビシッ、とエレナが打ち込んだヘイル・スロースの黒き鎧の胴に亀裂が奔る。
「くそがああああああああっ」
迷いのないエレナの瞳。
それを見たトラスの身体が自然に動く。
両手で担ぐ様に長剣を構え、自身の全てを、魂すら乗せ長剣が打ち抜かれる。
僅かに奔る亀裂に違う事なく撃ち抜かれた長剣の刃が黒き鎧を打ち砕きその刀身の半ばまでを減り込ませる。
エレナへと振り上げられた黒剣の動きが止まり、ヘイル・スロースの左手が腰に突き刺さるトラスの剣を引き抜くと、喰らった血を吐き出す様に真っ赤な鮮血がヘイル・スロースの胴がら噴き上がる。
エレナは片膝をついたまま動けない。
左腕の脱臼に加え今の一撃に体力を使い果たしていたのだ。
それはトラスも同じであり、荒い息を吐きながらその場に尻餅をつく。
悲鳴を上げる心臓の鼓動が、全身を流れる尋常で無い程の汗が限界を告げ、一歩も動けそうになかった。
ゆっくりとトラスにと向き直るヘイル・スロース。
「よう化け物……やっと俺に気づいたってか……この野郎あんま人間舐めてっとぶち殺すぞ」
血奔ったヘイル・スロースの両の目に見据えられ、トラスの顔は恐怖に強張るが最後に残る意地がトラスの心を支えていた。
無様に死ぬのはいい……だが最後までこの意地だけは貫き通す。
その覚悟が引き攣りながらもその顔に笑みを作らせる。
トラスに向け剣を振り下ろすヘイル・スロース。
「いいね、そういうの嫌いじゃない」
刹那、若い男の声が背後から掛かり――――闇夜から姿を現した若い男がヘイル・スロースの黒剣を弾く。
ヘイル・スロースとトラスの間に割って入る若い男。
呆然とそれを見つめるトラス。
今のトラスにはこの男が見せた技が、この黒騎士の剣を捌くという事がどれ程の技量を必要とするかが身に染みて分かっていたからだ。
「フィーゴ、一時でいい、時間を稼いでくれ」
その声にトラスはヘイル・スロースを挟んで前方、エレナを抱きかかえる長身の男の姿が瞳に映る。
「騎士殿、下がられよ」
トラスに声を掛けエレナを抱いたまま長身の男が駆ける。
離れていく長身の男の背に、トラスも立ち上がり後を追う……とは行かず、些か情けないが這うようにその場を離れる。
三人がその場を離れていく中、フィーゴはただ一人ヘイル・スロースの前に立ちはだかる。
「さあ、楽しもうよ」
ヘイル・スロースを前に臆するどころか楽しげ様子を浮かべフィーゴはその刀身に舌を這わせる。
純粋なまでの殺気を纏い、フィーゴ・アルセイスが今、上級位危険種ヘイル・スロースと相打つ。
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