第119話


 闇夜を疾走する少女の後ろを追いかけ走るトラス。

 全力で走って尚まるで追いつけない少女の小さな背中を眺めながらトラスは自問していた。


 自分は何故この少女を追いかけているのだろうか、と。

 何かしらの異変が生じているのならばアニエスと言う女と同様に天幕に戻り仲間たちに伝えに行くべきではなかったのか、と。

 だが自分はそうはせず少女の後を追っている……その理由が自分でも分からずにいた。


 激しく脈打つ鼓動、乱れる呼吸、新鮮な空気を求め頭を上げたトラスは周囲の風景に違和感を感じる。


 余りにも静かすぎる。


 少女が向かうのは森に面した天幕群、その先にある防御柵なのだろう。

 だが先程から通り過ぎている連なる天幕からは人の気配が感じられない……それどころかどの天幕にも篝火一つ灯っておらず、道行にぽつぽつと残る僅かな焚き火が街路灯の様に僅かに周囲を照らしているのみであった。


 「皆……何処いっちまったんだよ」


 恐らく焚き火を囲み飲み明かしていたであろう、痕跡を残す消えかけた残り火を呆然と眺め呟くトラスの前で不意に少女が立ち止まる。


 少女に合わせる様にトラスも歩みを止め忙しなく周囲を見渡す。

 異常過ぎるこの状況にトラスの思考は着いて行けずにいた……だがこんな状況にも関わらずまだ大きな騒ぎにすらなっていない事に……その事態の深刻さを感じトラスの背中に冷たい汗が滲む。


 「おいあんた……」


 この少女が求める答えを知っている筈はない……それが分かっていながらも尋ねずにはおれない……それ程に混乱しそれに倍する恐怖がトラスを襲っていた。


 トラスは最後まで言葉を発せない……いや、吞み込んでしまった。

 トラスの視界の隅で何かが蠢いた。

 並ぶ天幕の一つ、がさっ、という物音と共にそこから血塗れの男の手が覗く。


 「た…たす…け……」


 静まり返るこの状況でなければ聞き取れなかったであろう、か細い呻き声にも似た男の声。だが次の瞬間にはその手はまるで見えざる力でも働いたかの様に天幕の中へと引き込まれ消える。

 幻かと疑うような刹那の光景……しかしそれが現実だと示すかの様に天幕の中から、骨が砕ける様な嫌な音が断続的に響いてくる。


 「な……なんだってんだよ……」


 トラスの足は恐怖でがくがくと震え、やがて自身の意思に反してその場に座り込んでしまう。


 「騎士殿、そのまま動かないで下さい」


 酷く冷静な少女の声。

 見上げるトラスの目に腰の双剣を抜き放つ少女の姿が映る。

 双剣を扱う者などトラスはこれまで出会った事がない。見映えが良いだけの実戦に不向きな得物……一撃が軽く盾も扱えない上に多彩な攻撃手段を持つと言えば聞こえが良いが、その実人間は左右の腕を別々に瞬時に動かせ続けられる程器用な生き物ではない。故に結局は規則性のある動きに留まってしまう。


 所詮双剣などは派手な剣劇などの舞台で好まれる形だけの武器。


 そうした偏見はトラスだけではなく、騎士や傭兵の中では一般的な認識として定着していた。


 それでもトラスの瞳に映る少女は……月明かり、僅かに残る焚き火の炎の薄明かりに照らされた少女の立ち姿が余りに凛々しく可憐で……遠い昔確かにあった……だが日々の生活の中ですり減らす様に失っていった何かが疼くようで、得体の知れぬ思いがトラスの胸を締め付ける。


 だがそんな幻想的な光景にトラスが目を奪われていたのは僅かな瞬間。


 天幕の中から、天幕同士の隙間の闇から、ソレはのそり、と姿を見せる。


 人型の黒い影……いや塊がトラスの前に姿を覗かせる。

 トラスと少女を囲むように姿を見せたソレは四体。薄闇の中その姿を見たトラスの顔が恐怖に歪む。


 「ノルズ……バック」


 元傭兵とは言っても、比較的安全に魔物を狩れる傭兵団の数合わせとして多対一でしか魔物の討伐経験がなく、従騎士となった後もセント・バジルナ周辺の街道という、比較的魔物の出現頻度の低い環境の中、数を頼りに魔物を討伐してきたトラスにとってノルズバックという魔物は生涯出会う筈の無い種の魔物であった。

 それはトラスの楽観的な思考ゆえという訳ではなく、ノルズバックという魔物が夜行性であり、日中の街道にはまったく姿を見せない事が大きな理由の一つであったのだ。

 そうしたノルズバックの特性ゆえに近年協会に齎される実際の被害報告は極めて少なく、トラスだけでなくノルズバックを直接目撃したことのある傭兵や騎士の方が圧倒的に少ないという現状が確かに存在していた。

 だからこそ災厄当時に多くの村や街を蹂躙したノルズバックの残虐性と忌まわしき逸話の数々はより明確な恐怖の対象としてトラスの脳裏に焼きついていたのだ。


 殺される……無慈悲に……理不尽に……俺は死ぬ……。


 抗えぬ死を前にしてトラスの全身から冷たい汗が溢れ出し……その余りの恐怖に心のたがが外れたのか、意思とは関係なく生理的な現象がトラスを襲い股間を濡らす。


 ノルズバックの三つ目がぎょろり、と動きトラスを見る。

 トラスはその視線に耐えられず頭を抱え蹲る。

 ノルズバックはそんなトラスの姿に興味を失ったのか、或るは始めから相手にしてなどいなかったのか、僅かに一瞥をくれただけで直ぐに少女へと視線を戻す。

 トラスを無視しまるで獲物を定めた様に四体のノルズバックが四方から少女を囲む。恐怖の為か少女は両手の双剣を構える事も出来ず立ち竦んでいる様にトラスには見えた。


 殺される……あの美しい少女が……。


 可憐な少女が引き裂かれ、肉塊へと変わり果てながら喰らわれる無残な光景が脳裏に浮かびトラスは堪らず嘔吐する。吐瀉物を地面に撒き散らし、だがそれでも震える身体は動かない。

 トラスの涙が滲む目に少女へと飛び掛るノルズバックの姿が映り――――絶望と恐怖の中トラスの耳に響くのは刹那轟く雷鳴にも似た金属音。

 左右から少女に迫るノルズバックの爪が流線を描く少女の双剣の刀身を滑り、薄闇の中雷光の様に断続的に瞬きながら激しい火花を散らす。

 それは泰然と流れ往く大河の如く、なだらかに、一点の淀みも無く交差されていく少女の両腕。

 少女に導かれる様に勢いそのままに、左右のノルズバックの身体が少女を中心に重なり合い流れ往く。瞬間、軸足をそのままに少女の身体が反転する。

 一転、その閃きは雷撃の如く。

 交差された双剣が奔り――――刹那、四体のノルズバックがそれぞれ少女を中心に前後左右、その位置を入れ替わる様にすり抜けた。


 それは瞬き程の刹那の出来事。


 凌いだ……少女が?


 変わらず立つ少女の姿にトラスは呆然とその光景を眺める。

 トラスにはノルズバックの動きも少女がどう凌いだのかもはっきりとその目に捉える事が出来なかった。それ程の速さで繰り広げられた一瞬の攻防。


 少女の両側面、ノルズバックが大きく飛び退き少女との距離を取る。

 だが少女の前後、無防備に背中を晒したまま二体のノルズバックは動かない。


 なんで追撃しないんだ。


 トラスの混乱した脳裏に僅かに生じた疑問は、奇妙な動きを見せるノルズバックにだけでなく少女に対しての疑問でもあった。


 瞬間、薄闇を更なる黒い闇が覆う様に血飛沫が舞い上がる。

 それは少女のものではない。

 まるで止まった時が動き出したかの様に、少女の眼前の、少女の背後の黒い獣の影が分かたれながら、竹を割った様に上下に分断され、ずるり、とずれ落ちながら地面へと崩れ落ちる。


 全ての魔物が持つ特徴の一つに刃を通さぬ硬質化した身体が挙げられる。

 ノルズバックの全身を覆う剛毛の強度はノー・フェイスを凌ぐとすら言われている。その身体を容易く、しかも一刀で両断した少女の剣技の凄まじさにトラスは直ぐにはその事実に対する認識が追いつかず、陸に上がった魚の様にその口を戦慄かせながらその光景を、少女の姿を見つめていた。


 少女と距離を取る残る二体のノルズバックの動きが明らかに変わっていた。

 忙しなく動き続けるその三つ目に宿るのは明確なる恐怖。少女に怯えた様にノルズバックはじりじりと後退し、やがて天幕の隙間の闇へと消える。

 少女は闇に消えたノルズバックを追う様な素振りは見せず、暫く辺りを窺うようにその場に佇んでいたが、やがて双剣を鞘に収めるとトラスの下へと近づいていく。


 自分に歩み寄る少女の姿に比べ、失禁し吐瀉物に塗れた自身の姿が余りにも無様で惨めで……尚恐怖で動けぬ身体の首だけを強引に動かしトラスは少女から顔を背ける。


 少女が自分に向ける眼差しが恐ろしく、視線を逸らし続けるトラスの鼻腔に自身の身体から発せられている異臭とは別の、春の花の様な澄んだ香りが届き、その香りに誘われる様に思わずトラスは振り返っていた。


 目の前に映るのは小さな白い手。


 屈み込み、トラスへと右手を差し伸べる少女の姿が其処にあった。


 「なんで……」


 呆然と呟くトラス。


 少女の黒き双眸にはトラスが想像していた様な侮蔑に満ちた色など微塵も浮かんでなどいない。それどころか汚物に塗れた自分になんら迷いすら見せず手を差し伸べる少女の姿に、トラスの瞳から涙が溢れ……止まらない。


 「騎士たる者が初めから勇敢で臆する事無く戦えるなど嘘だ……恐怖と絶望を前に立ち竦み、動けぬ事を私は恥ずべき行為だとは思いません。この経験を挫折とするか更なる成長の一歩とするかは貴方次第ではありますが、叶うならば歩みを止めないで欲しい……願わくばこの経験が尊いものとなって欲しい。

 騎士殿……貴方の剣がこの先救うであろう命の為にも私はそう願っています」


 叱咤でも激励でもない……少女の声はとても穏やかで。

 少女の白雪の様な穢れない白い手をトラスは躊躇いながらもそっと……そっと重ね握る。

 柔らかな少女の手の感触が、トラスの中の恐怖心を消し去っていく。


 そうか……。


 トラスは気づく。


 初めてあったあの時、この少女は自分を騎士殿と呼んでくれた……そんな些細な……ちっぽけな事が俺は嬉しかったのだ。だからこそ惨めな今の自分を隠すためにあんな意地を張っていたのだ、と。


 「名前を……名前を聞いてもいいか? 」


 「私はエレナ・ロゼ。旅の傭兵です」


 少女、エレナの手を借り立ち上がったトラスは、エレナを見つめ、


 「俺は……俺はトラス、従騎士トラス・デール」


 自分の姿から視線を逸らす事無く名乗るトラスの姿にエレナは僅かに唇を綻ばせる。


 それはトラスが初めて見た可憐な少女の笑顔であった。

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