第118話


 月の輝きのみが大地を照らす闇夜。

 並ぶ天幕からの篝火が焚き火を囲み飲み明かす男たちを多様な黒い影として映し出している。

 夜も大分更けた野営地の天幕周辺では、それでも一向に就寝する様子すら見せぬ男たちの談笑が其処かしこで漏れ聞こえ、松明を囲み車座で酒を呷る男たちの喧騒のみが夜の闇に響き渡っていた。

 そんな野営地の一角、人の気配の絶えた平原を息を殺し進む影が三つ。


 「トラス……本当にやるのか? 」


 多少暗闇に慣れ、手を翳さずとも辛うじて歩ける月夜の平原を歩く男の一人が、同じく隣を歩く男、トラスの耳元に囁く様に呟く。


 「俺たち見てえな人間があんな上玉とやれる機会なんざもうねえかも知れねえんだぞ……びびってんならお前だけ帰りな」


 トラスの無碍もない言葉に男は押し黙ってしまう。


 「なあに、女だてらに傭兵なんざやってる連中だ……大方脛に傷があるに違えねえ、強引にやっちまえば大事になんぞなりゃしねえよ……それに考えても見ろ、どうせ仲間の男どもにやられちまってる女どもだ、相手が変わって喜ぶかも知れねえだろ」


 恐ろしく身勝手なトラスの理論ではあったが特殊なこの状況がそうさせるのか、昼間見た女たちの美しい顔を……その肢体を思い浮かべる男の瞳に強い欲情の色が浮かぶ。


 「いいかお前ら、間髪入れず飛び掛れよ、力ずくで押さえ込んじまえば女なんてもんは直ぐに大人しくなるもんだからよ」


 目に前に傭兵たちが乗ってきた馬車が闇夜に迫る中、欲望のままに行き当たりばったりのなんら計画性すらないトラスの言葉を、まるで真理でも聞かされた様に大仰に頷いて見せる二人の男たち。


 馬車の荷台部分、長旅に備えて誂えたのだろう御者台から繋がる荷台は、従来の荷馬車よりも背が高く一定の居住性が確保されているだけでなく雨風を凌ぐ天井部分が備わった細長い作りとなっていた。

 トラスたちは足音を忍ばせ女たちが寝ているであろう荷台の側面の扉へとそっと手を掛け――――背後に突如生まれた巨大な二つの影に……その気配にひっ、と情けない短い叫び声を洩らし扉から手を離して大きく飛び退いた。


 大型の魔物と違うほどの巨体、雲間から漏れる月明かりがその影を照らす。

 荷台とトラスたちの間に割って入ったそれは二頭の馬たち――――だがトラスの知る馬とは明らかにその二頭は別の生き物であった。大型馬として知られる馬たちより更に一回りは大きいであろう馬体、盛り上がる筋肉に覆われた胴回り、その馬体を包む洗練された艶やかな黒光りする毛並み。

 トラスの様な男でも見惚れずにおれない二頭の馬たちが、主に対し不貞を働こうとする慮外者を排除しようとするかの如く、明確な敵意を示す瞳をトラスたちに向けたままその行く手を遮る。


 「畜生如きが……」


 二頭の馬たちに完全に威圧されながらも僅かに残る男としての矜持がそうさせたのか、トラスと男たちは腰の剣の柄へと手を掛け馬たちを威嚇する。

 本来馬とは臆病な生き物だ。

 人間の強い害意や威嚇行為を感じ取っただけで怯え逃げ出す程に繊細な動物である筈の二頭の馬たちは……だがトラスたちが見せた敵意や害意に反応して低く短く嘶くと、前足を蹴り上げ戦闘態勢をとる。

 興奮し暴れることもなく、寧ろ獲物を狙う肉食獣の様に姿勢を下げて男たちと対峙する二頭の馬の姿にトラスは言い知れぬ恐怖を覚える。


 化け物……。


 馬から発せられているとは思えぬ程の圧力にトラスの全身に冷たい汗が流れ出す。他の二人の男たちに至っては剣の柄を持つ手を小刻みに震わせながら知らず数歩後ずさっている。その及び腰を見ればトラスでなくとも二人が抱いている感情が勇敢さなどとは掛け離れたものであることは簡単に読み取れたことだろう。


 「オルテガ、ルイーダ!! 」


 今まさにトラスたちに襲い掛かかろうとする二頭が不意に響くその声に反応しぴたり、と動きを止めた。

 涼やかな音色を奏でる澄んだ少女の声。

 自分たちの命を救ったであろう少女の声にトラスはその姿を求め、視線を声が発せられた方角へと送る。

 開け放たれた荷台の扉から姿を見せた二つの影。小柄な少女と長身の女。


 長身の女は長い金髪を後ろで束ね、強い意志を示す切れ長の緑の瞳、整った目鼻立ちに魅惑的な肢体……トラスがこれまで見たことも無い程の美女の姿があった。

 しかしトラスの視線は意識はその美女の姿ではなく、隣に立つ少女に釘付けとなっていた。

 長身の女は美しかった……だがその美女すら霞ませる程の完成された美が其処にある。


 昼間遠目から眺めただけでは気づかなかった……しかしこうして眼前に立つ少女は、僅かな月の光に照らされ輝く神秘的な長い黒髪を靡かせる少女の姿はトラスの魂を震わせ魅了する。


 「騎士の方々、何様でこんな夜更けに忍んで来られたのかを詮索する気はありません。このまま黙って立ち去って頂けるなら大事にするつもりもありません……如何ですか」


 黒髪の少女の耳心地の良い声音から語られる言葉にはトラスたちに対する、蔑みや哀れみの様なものは感じられない。

 この状況の中、冷静で穏やかな黒髪の少女の言葉と提案に明らかな安堵の気配が男たちの間に生じる。

 しかしトラスだけは一人黒髪の少女の言葉に、自身にも分からぬ得体の知れない、制御出来ない激しい感情に襲われ腰の剣を引き抜いていた。


 「お……おいトラス、なにやってんだよ!! 」


 そのトラスの行為に他の二人の男たちは信じられぬ、といった様相で目を剥く。

 主を守護する様に黒髪の少女の両脇にと佇む二頭の馬たちの存在に心底怯えきっていた男たちにはトラスのとった行動が理解出来なかったのだ。


 「冗談じゃねえぞ、これ以上付き合ってられるか」


 「わ……悪いなトラス」


 トラスが男たちに何か声を掛けようとした瞬間には、男たちは背を向け脱兎の如くトラスの後方、天幕の方向へと広がる闇の中を駆け出していた。


 男たちが闇へと消え、トラスの周囲には沈黙のみが支配する。


 「残念です」


 譲らぬ姿勢を示すトラスに黒髪の少女の呟く様な声が響く。

 黒髪の少女の声と共に長身の美女が剣を構えるトラスと対峙する様に前に出る。


 「愚かさを通り越して哀れみすら感じさせるわね」


 美しいが表情一つ変えず、氷の様に冷たい眼差しをトラスへと向ける美女の声音は、黒髪の少女とは違い明確な蔑みの響きを帯びていた。


 トラスと対峙する女の腰には短剣が吊られていたが、女はその短剣を抜くでもなく交差させる様に細い両腕を、まるでトラスを誘っているかの様に差し伸ばす。


 「俺の名は――――」


 「必要ないわ、死に往く者の名など聞いても詮無き事」


 名乗ろうとするトラスの言葉を冷徹な氷の刃の様な女の声が両断する。


 「貴様……」


 騎士の名乗りを阻む行為はその者に対する最大の侮辱行為であり、まがりなりにも騎士の資格を持つトラスは女に対する怒りで剣を握る右腕が小刻みに震える。

 自分たちが行おうとしていた愚劣な行為など忘れ、トラスは自分が侮辱されたという一点にのみ感情を高ぶらせていた。

 それがどれ程に身勝手な怒りかなど今のトラスには思いも寄らぬのだろう。


 そしてトラスは気づけない……自身を覆う死の刃に、いや気づけるだけの力量がトラスには無かった……女の両手からトラスを絡めとる様に放たれていた不可視の刃に。


 女の指が僅かに動く――――刹那。


 「アニエス!! 」


 一転緊張を孕んだ黒髪の少女の声が闇夜に響く。


 ほぼ同時にオルテガとルイーダの耳が激しく動き、二頭は野営地の一点を見つめる。


 トラスは不意に響く黒髪の少女の声に、訳も分からず馬たちの視線を追いかけていた。


 周囲に広がるのは闇、その先に設置されている防御柵。


 闇……。


 トラスはその光景に強烈な違和感を感じ、そして気づく。

 野営地の周囲に張り巡らされた防御柵、其処に設置されている筈の篝火が消えている事に……それも一箇所や二箇所ではない。

 最早野営地全体を囲む篝火の大半が消え、僅かに数箇所松明の淡い炎が点々と残るのみであった。




 巡回の騎士が松明を片手に野営地を廻る。


 「どうなってやがるんだ……まったく」


 各所で消えた篝火の対応に巡回の小隊が総手で対応に追われていた。

 騎士の男の前には静かな闇夜の光景が広がる。

 柵を乗り越えて魔物が襲撃してきたのであればもっと激しい物音が響くであろうし、ノー・フェイスの様な個体が容易く越えられぬ様に高さと強度も計算されて防御柵は設置されていた事もあり、この不自然な状況の中においても騎士の男は大きな危機感は抱いていなかった。


 篝火に再び火を灯そうと防御柵へと近づく男の背後で、かさっ、と小さな物音がする。

 草を踏むような音に、騎士の男は同僚が戻ったのだろうと注意を払う事もなく振り返り……その手から松明が草むらへと落ちる。


 「がっ――――」


 騎士の男の顔面を巨大な手が鷲摑みに掴む。

 黒い剛毛に覆われた腕……掴まれた指の隙間から騎士の男が目にしたのは三つの眼光。

 長い鋭いソレの爪が騎士の男のこめかみにずぶずぶと食い込むと騎士の男は激しく痙攣を繰り返し、瞬間、頭部を握り潰された騎士の男の頭が石榴の様に弾け飛ぶ。


 頭部を失い崩れ落ちる騎士の男を見下ろすモノは三つ目の猿。

 全身を黒い短い剛毛が覆い、肥大した両手に鋭い長い爪を持つ魔物。

 身の丈こそ平均的な人間の成人男性ほどであったが、高い身体能力とアイアン・リーパーと同じく群れを成し集団で獲物を襲う残虐なる暗殺者。


 下級位危険種。闇夜を徘徊せし者ノルズバック。


 静まり返る闇夜、音も立てず長大な防御柵を軽々と黒い塊が次々飛び越えていく。


 僅かな月明かり、その淡い光が刹那ノルズバックの姿を映し出す。

 ノルズバックの三つの瞳が狂ったように忙しなく蠢き、大量の獲物を前にまるで愉悦に浸るかのように細まると、闇に包まれる野営地を見つめるのであった。


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