第115話
静まり返る邸内に少女の小さな嗚咽のみが僅かに漏れ聞こえる。
齎された悲報。騎士団の壊滅……生存者なし。
その残酷な現実を前に少女……アリアは母親の胸に縋り泣き崩れていた。
武家の娘とはいえまだ幼い少女であるアリアには、余りにも突然の父親の死をまだ受け止める事が出来ず感情に流されるままにただただ涙を流す。
アイシャはそんなアリアの髪を優しく撫でながら、自身もまた悲しみの底に沈みそうになる心を必死に繫ぎ止めていた。
武門の家に嫁ぎ、騎士の妻となったその日からこの様な日が訪れる事は覚悟していた……筈であった。
だが現実にそれを突き付けられた時、その悲しみは……痛みは筆舌に尽くし難く、アリアがいなければ、二人の愛の証……愛おしいこの子がいなければ迷わず夫の後を追っていただろうと思うほどにアイシャの心を深い悲しみと絶望が蝕む。
「失礼致します、奥様……」
遠慮がちにアイシャの寝室の扉が叩かれ、扉の外から侍女の小さな声が聞こえてくる。
「どうしました? 」
「それが……あの……お客様がお見えになられまして……」
控え目というよりは何処か戸惑いに近い侍女の声音にアイシャは腰を掛けていた寝台から立ち上がる。
今この屋敷を訪れる訪問者は限られる。もしそれが弔問に訪れた使者であるならば待たせる事自体が非礼にあたる。正式に後を継ぐアリアが今だ成人に満たず、家長不在の今のステイフ家はアイシャが代理を務めねばならい。
礼儀を損なう対応はステイフ家の家門のみならずバルザックの名を損なう事にすらなりかねない。
「只今参ります」
寝室を出たアイシャに侍女は思わず息を呑む。
真っ直ぐに顔を上げたうら若き女主人の姿は、悲しみを湛えながらもたおやかな花の如く凛と正したその姿は貴族の夫人としての品格と気品に満ちた優美で美しい姿であった。
自分から離れようとしないアリアの小さな手を握りながら、アイシャは廊下を出て玄関広間へと向かう。だがそこでアイシャを待っていたのは弔問の使者ではなく、一人の女性……少女であった。
アイシャの瞳に少女の神秘的な長い黒髪が映る。
アイシャたちの気配に気づいたのであろう此方へと振り返る少女。その少女の姿にアイシャは思わず目を奪われる。
高名な絵師がその生涯を懸けても描き切れぬと、到達できぬと確信するほどに木目細やかな肌。神秘的な黒い髪と憂いを帯びた瞳。神に愛され、祝福を受けたとしか思えぬその美しい姿にアイシャは一瞬、全てを忘れ魅入ってしまう。
だが小柄な少女が両の手で持つ不釣合いな長剣を目にしアイシャの思考は直ぐに現実へと引き戻される。
「お嬢さん……その剣は……」
初めて会う素性も分からぬ、しかも帯剣した少女にアイシャは、一歩、一歩、歩みを寄せる。
軽率と謗られても仕方がない不用意な行動ではあったが、アイシャの瞳は少女が抱く長剣に釘付けになっていた。
近づくアイシャに少女はその場で片膝をつき礼を示す。その少女の所作は流れる様に自然で堂に入っていた。
「当家の奥方様とお見受けしました。私の名はエレナ・ロゼ。傭兵とは名ばかりの身分違えし小娘の身なれど当家主人バルザック卿と戦場を共にした者で御座います」
エレナの澄んだ声音が静まり返る玄関広間に響き渡る。
エレナの口上を聞いたアイシャは我に返り歩みを止める。
「刹那交わりし縁なれど、騎士道を全うされたバルザック卿の勇姿はまさに騎士の鏡、誉れたると。雄雄しく散らせたその御魂……せめてご家族の下に」
エレナの両腕が伸び掲げられた長剣をアイシャは震える両手で受け取るとその胸に抱く。
「お立ち下さい エレナさん」
身体同様に震えるアイシャの言葉を受け、エレナは立ち上がる。
「主人は……バルザックは勇敢でしたか」
「魔物の群れを前に一歩も引かず、雄雄しいその御姿は英雄の名に相応しいものでありました」
「その最後は恥じる事のないものでしたか」
「命尽きるその時まで、守るべき街を背に戦われたその最後は騎士の本道を往かれる見事な最後であられました」
エレナはバルザックの最後を看取ってはいない。だがバルザックが……騎士たちがどう戦い散って逝ったかなど戦場を見れば分かる。
それでも自分の言葉が虚偽の……ただの願望であったとしても、それで少しでも残された者の心が救われるのならば突き通す、貫き通す価値はある、とエレナは思う。
だからこそエレナの返答には一切の迷いも躊躇いも感じられなかった。
エレナの迷いのない返答にアイシャはただ一言有難う、とそれだけを搾り出し瞳を伏せた。
「お帰りなさい貴方……」
アイシャの頬を伝わる涙の粒が流れて長剣の柄をその鞘を濡らす。
アイシャは愛おしそうに長剣をただただ強く、強く抱きしめた。
「でもねエレナさん……」
震える声……だが切なく想いの篭ったその声音にエレナはアイシャを見つめる。
涙に濡れる瞳、寂しそうに微笑む口元。
「勇敢でなくてもいい……臆病で良かった。それが騎士としてどんなに無様でも……それでも私は生きてあの人に帰って来て欲しかった」
偽らざる心。決して口にしてはいけない想い。
アイシャのその悲壮なまでも想いに、深い愛情にエレナは返す言葉を失う。
「名誉や誇りに命さえ懸ける殿方と、その身を案じただ待つことしか出来ぬ女たち……そのどちらがより業が深いのかしらね……」
アイシャの寂しげな微笑にレティシアの面影が重なり――――消える。
「男は……身勝手で馬鹿な生き物ですから」
女の身であるエレナの言葉を、騎士に対して不遜とも受け取られかねないその言葉を、アイシャは微笑みを浮かべたまま深く頷く。
「そうですね、だからこそ……そんな馬鹿な男たちだからこそ、こんなにも愛おしく感じてしまうのかも知れませんね」
人を想い、人を愛する。
本当の意味で深い情愛を、狂おしい程の熱情を自分は知らない。戦いに半生を捧げてきた自分には縁遠いものだと、そう思い生きてきた。
だからだろう、アイシャが亡き夫を想う深い情愛を、レティシアやシェルンが自分に向ける純粋な想いが眩しく映る反面、どうしてもバルザックたち騎士の生き方にこそ思いを馳せ、気持ちを寄せてしまう。
流れる沈黙、その静寂を破る様に小さき少女が言葉を発する。
「どうすればお父様や……お姉様の様に強くなれるのですか」
アイシャの腰に腕を回したままアリアはエレナを見上げる。もうその瞳に涙は見られない。
「お父様の命を奪った魔物を……私は許さない」
真っ直ぐにエレナを見つめるアリア。エレナがアイシャへと視線を向けるとそれに気づいたアイシャが一度アリアを見つめそしてエレナに応える様に頷く。
「お嬢様お名前は? 」
「アリア・ステイフ」
「ではアリア、貴方が本当にそう望むなら今日より二年間基礎鍛錬に励みなさい。一日も欠かさず弛むことなく努力を重ねなさい」
アリアは決意に満ちた瞳をエレナに向けたまま力強く頷く。
「剣は決して持たぬこと、幼き頃に半端に嗜めばそれが癖となり貴方の成長を妨げます」
エレナの言葉を一語一句聞き漏らさぬ様にアリアは瞬きすら忘れたかの様にエレナを見つめ続ける。
「そしてこれが一番重要な事ですが、アリア、貴方がこの先出会うであろう多くの人々の言葉に真摯に耳を傾けなさい。貴方が進むべき道を定めていたとしても、これから開かれる無数の選択肢を未来への可能性を決して狭めてはいけない」
エレナは自分が歩んできた半生に後悔などない。
父の理想を、母の願いに背を向けて生きる人生など有り得なかった。ベルトナー家の家名の為に、国に尽くした人生に悔いなどあろう筈はない。
だが今の自分なら分かる。
進むべき道は、歩むべき未来は決して一つなどではないと。
当時の自分では気づけなかった。立ち止まり見渡せばそこに新たな道が開けている事に。
人間は迷い過ちを犯す生き物だ。
だからといって違えた道を進み続けなければならぬ道理などない。そうして迷い悩みながらも選択を重ね未来を築いていく。それが人の持つ未来への可能性だとエレナは信じている。
自分は選べなかった……いやそんな選択肢にすら気づけなかった。
だからこそこれからの未来を生きる彼ら若者たちには例え時に誤った道を歩もうとも、自らの意思で、選択でより良い未来を選び抜いて貰いたかったのだ。
エレナは自分より小さきアリアの為に片膝をつくと、腰のエルマリュートを鞘ごと外す。そしてエルマリュートの剣先を鞘ごとアリアの小さな右肩へと当てる。
「この小さき魂に神の祝福を、輝かしき未来に栄光を」
それはビエナート王国の騎士が行う洗礼の儀。
本来は親が子に未来を託し、新たなる騎士の誕生を祝福する儀礼的な儀式のようなもの。
オーランド王国では馴染みのない行為ではあったが、美しきエレナのこの行為はまるで神事を司る聖女が如く、アイシャも止める素振りすら見せず、アリアもまた目を閉じ小さな手を胸の前で組んで受け入れる。
屋敷を後にするエレナをアイシャとアリアの親子が見送る。
二人と出会いエレナは改めて思いを馳せる。
残り少ない時間の全てを戦いに身を投じるであろうエレナ・ロゼの闘争が、自身で選んだ選択である事に。
それが決して贖罪の為ではない未来へと繫ぐ選択であると。
エレナは顔を上げ歩みを進める。
その先に続くであろう未来へと。
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