第108話


 セント・バジルナから離れる事十数キロ。街道沿いの森に一台の馬車が横転している。

 馬車の周囲には濃厚な血の臭いが充満し地面を赤々と染めるのが沈みかけた夕日だけが原因ではない事を物語っている。

 馬車から少し離れ三つの遺体が地面に伏していた。

 魔物の手により引き込まれ捕食される……大陸においては最早珍しくも無い光景ではあったが、彼らの死因が刀傷によるものだろう事を考えればこの状況の異常さに気づくであろうか。

 恐らく馬車の護衛であったのだろう三人の傭兵は死体の状況を考えても互いに殺し合っている。覚悟の自害にしては激しく争った形跡が随所にみられ、また最悪の事態に及べば依頼人を置いて自分たちだけでも逃走を図るであろう傭兵たちのこの死に方は余りにも異常であった。


 更に奥に進んだ、人の気配どころか動物たちの息遣いすら聞こえぬ森の中……男が一人座り込んでいる。上半身を小刻みに上下に揺らし伸ばされた両手で何かを握り締めている。

 その顔を見れば既に男が正気を失っている事に気づいただろう。焦点の定まらぬ瞳は宙を彷徨い、口からは涎を垂れ流しながら、ぶつぶつと呟き続けているその姿はまともな人間の姿ではなかった。


 男が握り締めていたモノを投げ捨てる。

 地面にどさり、と重量を感じさせる音と共に倒れこんだのは若い娘……その首筋に男の手形が青痣として残るその容貌は男の血縁……恐らく娘なのだろうか、何処か似た顔立ちをしていた。

 生前はそれなりに美しいと持て囃されていたであろう整った容貌は青黒く染まり、白目を剥いて口から泡を噴いているその姿は哀れさを感じさせるに十分な惨たらしい姿であった。


 娘の首を離した後も身体を揺らし動かぬ男の背後で闇が動く。

 木々の隙間から顔を覗かせたその顔は神話に語られる美の女神そのままに神々しさすら感じさせる程に美しい。

 閉じられた形の良い瞳。長い金髪に整ったその顔立ちは絶世の美女と表現しても異論などでないであろう……だがそうした感慨は直ぐに打ち砕かれる事となる。男の背後へと姿を見せた美女の姿は余りにも異様に過ぎた。

 人の姿を模したとすら表現する事が躊躇われる程に不自然に長すぎる手足……まるでおうとつの無い細長過ぎるのっぺりとした胴体部。首から下を覆う爬虫類の如き濁った銀色の鱗。

 なまじその顔が美しいだけに吐き気すら齎す程の生理的嫌悪感を与える魔物の名はアラクネヴィア。


 協会が定める上級位危険種が一種。

 囁き誘う者……狂乱の女王と恐れられる上級危険種の名であった。


 アラクネヴィアは背後から男へと這い寄ると軟体生物の様にその身体を絡めとる。アラクネヴィアの美しい顔が男の呆けた顔へと触れ合う程に近づき閉じられていた瞼が開く。

 深紅……と表するには余りに禍々しい紅い瞳。

 アラクネヴィアの小さな形の良い唇が徐々に開き、瞬間、男の上半身が飲み込まれる。その捕食の光景はさながら大蛇を思わせ、生きたまま人間を喰らうその姿は人々が悪夢で見る人外の化け物そのままの姿であった。


 男を丸呑みし捕食したアラクネヴィアの背後に更なる気配が生じる。


 無論それは人なのでは無い。

 見上げる程の長身……身の丈三メートル近くはあろうか。

 アラクネヴィアに比べればかなり人型に近いとはいえ、その影もまた異質であった。

 黒衣の騎士を思わせる漆黒の戦鎧を纏い、腰に帯剣する長剣は鞘すら闇の色で染め上げられ、本来人間ならば当たり前に存在する頭部には霧状の黒い靄が浮かび、血奔った眼球のみが二つ虚空を見据える。


 かつてノートワールの地で数多の英傑たちを貪り喰らったその魔物の名はヘイル・スロース。

 全ての鋼を統べる者。

 騎士殺し……深淵の騎士と畏怖される上級位危険種の一種の姿が其処にある。


 協会の定説を覆し二体の上級位危険種が今此処、セント・バジルナ近郊にその姿を現していた。


 


 

 エレナの泊まる宿の一室に旅に同行する面々が集まっている。

 アニエスを始めそれぞれが自身で部屋取っている今の状況は旅慣れている傭兵でもある彼らにしては些かそぐわない行動ではあった。

 旅の道中では何が起こるか分からない……そうした不測の事態に備え出来るだけ出費を抑える為に旅連れの一行ならば宿は相部屋が基本であるにも関わらず、出費がかさむのを承知でこうして別々に部屋を取っている現状に今のそれそれの関係性が現れているのかも知れない。



 「面倒事は出来るだけ避ける……そう決めていた筈だよねフェリクス」


 テーブルに足を乗せなんら今の状況に悪びれた様子すら見せぬフェリクスの態度に、エレナもまた苛立ちを隠せぬ様にその口調もやや荒々しいものに変わっている。


 あの騒動の後、騒ぎを聞きつけて現れたのが聖騎士団側が組織していた憲兵隊であったのは結果的には幸運だった……かはこれからの行動次第ではあるのだが、少なくともあの場ではそれ以上大きな揉め事に発展する事は無く、憲兵隊の詰め所へと連行されたフェリクスに付き添う形で同行したエレナではあったが、最悪労働刑まで可能性のあったフェリクスへの処罰は従騎士団側の非が大きいとの理由で大幅に軽減され、罰金と壊した宿の修繕費を支払う事を条件にフェリクスの開放が認められた。


 宿に謝罪と共に修繕費を払い、罰金も納めた現在は法的な処理は終えていたとはいえ、これで全てが終ったという訳ではない。揉めた原因はどうあれ完全にフェリクスに体面を潰された形の従騎士団がこのまま収まるとは到底思えず、何らかの報復が予想される事くらいはエレナでなくとも察しがつくというものだ。


 「俺は降り掛かって来た火の粉を払っただけだ」


 フェリクスの言い分は分からなくは無い。事実その通りなのだろう……だが。


 「力量の差を考えたってお前ならもっと穏便に事を収める事も出来た筈だ。なのに何故あそこまでやる必要があったんだ」


 フェリクスに絡んだ四人……幸い命に別状は無かった様だがさりとて軽症という程軽い怪我でもない。

 四対一だったとは言えフェリクスの力量を良く知るエレナだからこそ其処までやったフェリクスの行動に腹を据えかねていたのだ。


 「力量差も弁えずただ噛み付いてくる駄犬には相応の躾が必要だろう」


 何気ないフェリクスの一言にエレナの雰囲気が変わる。

 これまでフェリクスに向けていた黒い瞳に宿る赤い焔が徐々に消え、鋭さを増すその瞳には底冷えする様な冷たい青い焔が宿る。


 「躾か……ならばお前も奴らと同類という訳だな」


 同一の少女の声音とは思えぬ程に鋭利で感情の篭らぬ冷たいその響きに、フェリクスの瞳にも野獣の様な獰猛な輝きが宿りだす。


 「止めなさい二人共大人気ない。フェリクス、自ら望んでエレナとの旅に同行したのなら最低限の決め事は守りなさい、それすら出来ないなら一人で勝手に何処なりといけばいいわ。エレナもこの程度の事で子供の様に向きになってどうするの、中心である貴方が揺らげば私たちの繋がりなど容易く崩壊するわよ」


 不穏な空気を感じ取ったアニエスが二人を殊更冷静な声音で諌める。

 アニエスの言葉に一度瞳を伏せたエレナであったが、顔を上げると先程まで見せていた冷え冷えとした輝きはその瞳からは消えていた。


 「すまない……少し熱くなっていたかも知れない……頭を冷やしてくるよ」


 それだけ呟き部屋を後にしようとするエレナの背中にアニエスが続く。話はつかずともエレナの言葉は話し合いの終わりを示していたにも関わらず敢えてアニエスはエレナの後を追う。

 それは普段エレナとすら一定の距離を保つアニエスには珍しい行動といえた。


 今回のフェリクスの行為は軽率ではあったが、それが原因で例え自分に火の粉が降り掛かろうと本来エレナはそれを意に介すような少女ではない。呆れはすれど全てを飲み込んで受け入れる度量の持ち主なのだ。

 そんなエレナがこうして感情を大きく乱す原因は常に同じ……自分に近いごく身近な人間が関わった場合に限られる。そうしたエレナの性格を良く知るアニエスは今のエレナを一人にする訳にはいかないと感じていた。

 自分の事は酷く冷静に客観的な醒めた目で見れるというのに親しい他者が絡むと途端に有り得ない無茶をする。エレナ・ロゼとはそういった危うさを持った少女であったからだ。


 「街を離れましょう、それが一番無難な解決法だわ」


 元々がベルナディスの到着を待つ為だけの数日の滞在に過ぎないこのセント・バジルナにエレナが憂慮する様な危険を冒してまで残る意味などない。

 日没から日の出まで街の門は固く閉ざされるとはいえ、外壁に近い場所であるなら夜間魔物に襲われる危険性は低い。

 ライズワース程ではないにしろこのセント・バジルナも大陸では上位に挙げられる安全性を保つ数少ない都市の一つなのだ。それに態々街の外まで付け狙う様な執念深い輩共ならばフェリクスではないが此方も自衛の為に取るべき手段はあろうというものだ。


 「そうだね……」


 それは決して最善の手段ではなかったが、今後の成り行き次第では従騎士団との関係はどう転ぶか分からない。この先カロッソやレイリオに……ひいてはガラート商会そのものにまで迷惑を掛ける危険性がある以上、下手に謝罪に赴いて彼らに近づくよりはアニエスの言う通り街を離れた方が良いのかも知れない。


 アニエスの意見に心が傾きかけたエレナの視線が通路の奥、階段付近へと注がれる。

 階段を上って来る複数の気配。

 足音に混じり聞こえる鋼が擦れる独特の金属音。それは帯剣した者が放つ足音であった。


 階段を上りきり二人の視界に姿を見せたのは三人の男たち。胸当ての家紋から男たちが従騎士団の者であることは直ぐに見て取れた。


 先頭の男がエレナたちに気づき近づいてくる。


 「やあ別嬪な姉さんたち、丁度良かった、一つ一つ部屋を訪れるのは面倒だと思ってたんでね」


 エレナが危惧していた様な事態とは程遠く、男は初対面にも関わらずエレナたちに気さくに声を掛ける。アニエスなどはそんな男に胡乱げな眼差しを向けている。


 「試合は観戦できなかったが姉さんたちのことは知っている。王立階位を持つ凄腕の傭兵、エレナ・ロゼとアニエス・アヴリーヌだろ。どんな形であれ会えて光栄だ」


 剣舞の宴からまだ数日……如何に往来が比較的容易とはいえ情報の伝達に時間が掛かる今の大陸の状況でアニエスは兎も角、自分を容姿と雰囲気だけで特定したのだとすればこの男はなかなか侮れない、とは思ったが、昨日フェリクスに付き添い詰め所へと赴いた折に信用を得る為に自身の名前と素性を明かしていた事をエレナは思い出す。


 「聞けばうちの連中と揉めたのはあのフェリクス・ナザリエルだってんで、こうして慌てて謝罪に来た次第でね」


 大げさな身振りで話す男は見た目三十代前半……何処か草臥れた感じではあるが、だが何処か愛嬌のあるそんな顔をしていた。

 顔などまるで似ていない……しかし男が見せる仕草は何処かカルロを思わせる雰囲気がありエレナは男にカルロの面影を重ね僅かに目尻を下げる。


 「まあ立ち話もなんだし、部屋に招待してはくれないかね麗しい姉さんたち」


 従騎士団の一つ、フェルス中隊の隊長を勤めるカルヴィン・フェルスはエレナたちにおどけた様な笑顔を見せて笑った。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る