巡り往く風 前編

第107話


 「積荷を手前の母ちゃんだと思って丁寧に扱えよ」


 セント・バジルナの港に停泊している商船から積荷を降ろしている荷役たちにてきぱきと指示を飛ばしている男は、何処かの商会の番頭らしかったが、鍛えられた体格もその顔つきもとても商人とは思えない雰囲気を纏った男であった。


 「旦那、お嬢さんがお見えですぜ」


 幾つもの商船が荷降ろしを始めていた為、荷役たちの熱気と喧騒で騒然とする周囲の状況の中、人混みを掻き分けて一人の男が番頭らしき男へと声を掛ける。

 その男の言葉に番頭らしき男は僅かに眉根を寄せる。

 自分の妻と娘は今ライズワースにいる。単身このセント・バジルナにやってきた自分にまだ十三になったばかりの娘が直接会いにくるなど考え難い話なのだ。

 男が指差す方向を見た番頭らしき男の視界に人混みを避ける様にぽつりと立つ小柄な人影が映る。

 大きめのローブを纏い深くフードを被り、性別すら見た目では判断の難しいその姿は……だが番頭らしき男にはその姿に不信感よりも懐かしさが先に立つ。

 男に仕事に戻るよう促すと、番頭らしき男はおもむろにそのローブ姿の人物の下へと足を急がせる。

 ローブを纏った小柄な姿を前に何か声を掛けようとした番頭らしき男の眼前に刹那風が舞い、美しい刃紋を刻む刀身の切っ先がその首筋へと僅かに触る。

 まさに電光石火。

 小柄なローブの人物が腰から鞘奔らせた抜き身の余りの速度に、番頭らしき男は唖然としながらも首筋に触れる刀身の冷え冷えとした感触に一瞬慄然とする。


 「現役を退いたとは聞いてはいたけれど、カロッソ……随分と反応が鈍いじゃないか、少し鈍ったんじゃないのか」

 涼やかな……まるで鈴の様な音色を奏でる少女の声がフードから漏れ聞こえる。

 男の喉元に剣を突きつけていると言う些か物騒なこの状況の中で、だがその声は言葉とは裏腹に何処か楽しげであり、その声音には親しみの様なものが込められていた。

 剣を引きローブの人物がフードを外すと纏められていた黒髪が宙へと舞い、周囲にまるで春の花の様な甘い香りが漂う。


 美しい長い黒髪、神秘的な黒い瞳、誰もが見惚れずにはいられない……その可憐な容貌。一年前に別れた時と変わらぬ少女の美しい姿が其処にはあった。


 「久しぶりだなエレナ」


 番頭らしき男、カロッソ・マルティスはエレナに親しみと懐かしさを込めて言葉を返した。

 カロッソはレイリオとの約束通り家族を連れライズワースへと赴き、当初はミローズと共にレイリオの護衛の様な仕事をこなしていたのだが、その目端が利き、面倒見の良い性格をレイリオに買われ傭兵としてでは無く正式にガラート商会の人間として半年前から此処セント・バジルナへと単身やって来ていたのだ。

 ライズワースでの拠点であるトアル・ロゼが軌道に乗った為、オーランド王国の物流の要であるセント・バジルナに商会の大規模な倉庫と商会専用の船舶所を得るため新たに立ち上げたオーランド王国でのガラート商会の二つ目の商会所となるセアル・ロゼの主要な人員として派遣されていたのだ。

 余談にはなるが大陸の共用語でトアルは真実の、セアルは一つの、と言う意味合いを持ち、レイリオがどのような含みを込めて自身の店の名を付けたのかはレイリオとエレナ……二人の関係を知る者ならこの時点で概ねの見当がついていた。


 「自惚れでないのなら俺に会いに来てくれたのか?」


 「当然じゃないか、私は友の住む街にやって来て挨拶もせずに立ち去る程不義理な人間ではないつもりだよ」


 以前と変わらず歳に似合わず大人びた言い回しをするエレナに、出会った当時を思い出しカロッソは笑みを浮かべる。


 「暫くはこの街にいられるのか?」


 「残念だけど二、三日の滞在になるかな。待ち人がいてね、彼が到着したら街を発つことになると思う」


 カロッソはエレナがこの街に長くはいられないと聞くと徐に後ろを振り返り、大きく手を振って荷降ろしの監督をしている男を呼び寄せると二言、三言言葉を交わしまたエレナへと向き直る。


 「昼にしては少し遅いが飯でも食いにいこうか」


 「私は構わないが仕事の方はいいのか? 」


 「これでも多少は自由が利く身分でね、友人と食事を楽しむ時間くらいは作れるのさ」


 ならば、と頷くエレナとカロッソは並んで港の通りを歩く。

 潮風がエレナの長い黒髪を大きく靡かせ、エレナは煩わしそうに可憐な容姿を曇らせると左手で髪を押さえる。

 その仕草は妙に可愛らしい反面、時折覗く白いうなじは恐ろしく艶かしく、男の劣情を煽る。


 エレナ、お前は変わらないな。


 そう言葉に出し掛けカロッソは慌てて言葉を飲み込む。

 一年前に別れた時のままエレナは可憐で美しい……しかし成長の盛りであろう時期に一年前とまるで変わらない、と言葉にするのは年頃の娘には些か失礼なのではないのか、と思ったのだ。


 「でも正直惜しいよ、カロッソ程の弓の名手はそうはいない、その技術……廃れさせるのは本当に残念だよ」


 言葉を選んでいる間にエレナの方から声を掛けられ、カロッソは思い浮かべていた賛辞の言葉が脳裏から離れていく。

 妻も子供もおり、エレナをそういった目で見ていないつもりでいても、何処かでそんな事を考えていた自分に心の中で苦笑する。


 「エレナにそう言って貰えるのは光栄だが、家族なんてものを持っちまった俺には傭兵みたいな生き方はもう正直しんどくてな」


 振るった刃はいずれは自分に返ってくる……傭兵家業とはそんな因果な商売だ。独り身だから出来ていた事も護るべき、背負うべき者たちが出来てはそうはいかない。


 「違う道を選べたなら、それは誇るべき事だよカロッソ」


 一瞬、家族という言葉に寂しげな表情を見せたエレナであったが直ぐにカロッソに笑顔を向ける。


 そんな他愛無いやり取りが続く中、カロッソの表情が途端に曇る。


 「エレナ、フードを被り直してくれ」


 カロッソの声の調子で異変を察したエレナは黙ってフードを深く被り直す。そのエレナの視界の先には此方に歩いてくる集団が映っている。

 十人程度のその集団は良く言っても傭兵崩れ……エレナには正直ただの街のごろつきにしか見えなかった。だが近づいて来る集団は武装しており、何より統一された胸当てには家紋が刻まれていた。

 この国において従来、準騎士たちや爵位を持つ聖騎士はオーランド王国の国旗を、従騎士たちはそれぞれが仕える主の家紋を鎧や剣の柄に刻むのが慣わしとされていた。

 男たちの胸当てに刻まれた家紋は七尾を持つとされる伝説の霊鳥ダラーシュを模したもの……オーランド王国の貴族に決して詳しい訳では無いエレナでもその家紋には見覚えがあった。

 オーランド王国の大貴族の一人。

 王国直轄領であるこのセント・バジルナの都督であるジルベルト・ルーデバッハ公爵の……ルーデバッハ家の家紋であった。


 「カロッソの旦那じゃねえか、こいつは都合がいい、今から店の方に顔を出そうと思ってたんでね」


 集団の中の一人、手入れなどしていないだろう無精髭を伸ばした大男がカロッソに気づくと声を掛けてくる。カロッソは無言で懐から皮袋を取り出すと中身も確認せずそのまま大男へと差し出す。


 「いつもすまんね、じゃあまたな旦那」


 大男はカロッソから渡された皮袋の重みと触れ合う硬貨の音に満足そうに笑顔を見せ、無造作にカロッソの肩を数度叩くと他の者たちと立ち去っていく。大男を始め他の者たちもエレナの存在などまるで視界になど入っていない様で、まったく気にも留めた様子も見られなかった。


 「名門貴族の従騎士が商人に金の無心とは……世も末だな」


 心底呆れた様に男たちを見送るエレナの姿にカロッソは複雑な表情を見せる。


 「このセント・バジルナはこの街なりのしがらみと問題を抱えていてな……そう一概に奴らを責める事も出来んのだ」


 街の規模で言えば南方の七都市、ニールバルナやルーエンよりも広大な面積を持つ大都市であるセント・バジルナは、だがライズワースの様なギルド制度が確立している特殊な環境下とは違い傭兵たちだけでは街の周囲や街道の魔物の間引きを日々行うことは不可能であった。

 その為、主にその任を担うのがルーデバッハ家の従騎士団であり、日々増減を繰り返す構成員はセント・バジルナ全体で三万とも四万とも言われている。

 そうした状況故にルーデバッハ家に近い上位の貴族たちは別として、家臣団の中でも末席の貴族の従騎士とはいえ、人員不足の為さしたる審査すら受けてはいない末端の者たちは今の男たちと同様に最早騎士とすら呼べぬ輩が大半を占める、かなり歪んだ状況が生み出されていたのだ。


 「現状奴らのお陰でこの街の安全が保たれているのは間違いないし、何より奴らは薄給の上に騎士の身分を持つ為に魔物を討っても協会から報奨金を受け取る事が出来ないからな。せめて月々の酒代くらいは商人たちが持ち回りで面倒をみてやってるのさ」


 セント・バジルナにある商館が費用の半分を捻出しているお陰で各商会の負担はそう多くは無い。安全を得る為の必要経費として各商会もそのあたりは割り切って対応していた。

 そしてそうした商人たちの活動のお陰で従騎士団の構成員たちが街の人間に手を出す様な事件は事実減少していた。彼らにしても商人たちから金を融通させている手前、その商人たちの大事な顧客である街の人間と余り揉めるのは得策ではないという思考が働いているのであろう。


 「そうだとしてもいくら大貴族とは言え一諸侯が数万もの従騎士を旗下に持つなんて話、聞いた事もないよ、此処は王国の直轄領なのだから王国から騎士団が駐屯しているんじゃないのか?」


 エレナの言葉にカロッソが難しい顔をする。

 そう……その騎士団こそがこのセント・バジルナのもう一つの問題であり歪みの原因なのだ。


 エレナの言う通りこのセント・バジルナには王国が誇る聖騎士で構成される聖騎士団が一個大隊、そして聖騎士に仕える家門の従騎士たちが随伴し派遣されていた。その数は従騎士たちを含め二万にも及ぶ。

 だが彼らが魔物の間引きに加わる事は無く、ゼント・バジルナの治安維持を名目に独自に組織された憲兵隊の様な活動を主目的として行っていたのだ。

 聖騎士団が魔物の討伐に参加しない事は本来の職務を考えても不自然であり、その分の負担をジルベルト公爵が負っている為にこの様な歪んだ構造が生じていたのは誰も目にも明らかではあったのだが、それには一般の人間には計り知れない貴族間の闇が存在していた。

 セント・バジルナに派遣された聖騎士団の大隊長であるルーゲン・ホルス子爵は大元を遡れば主筋はゲルト家にあたり、現オーランド王国宰相オルセット・ゲルトの派閥の人間であった。

 そしてオルセットとジルベルトは宰相の座を争い血生臭い宮廷闘争を繰り広げた政敵同士であり、争いに敗れセント・バジルナの都督としてジルベルトが宮廷を離れた今でもその関係は険悪なままだと噂されている。

 そんなジルベルトの下に政敵であるオルセット縁の聖騎士を送り込んだ王国の目的は、経済力、そして潜在的な戦力においても一国として機能しうるセント・バジルナを治めるジルベルトへの牽制と監視の為でもあったのだろうが、現状その選択は全て裏目に出ているといえるだろう。


 食堂を兼ねた港に程近い宿屋に着くとカロッソは慣れた様子で店主に幾つかの料理を注文する。恐らくいきつけの宿なのだろう、一階部分の隅のテーブルへと二人は腰を下ろす。

 程なく給仕の女性が運んできた酒の杯を交わしても二人の会話は、過去の思い出話ではなく、今のセント・バジルナの情勢に終始する。

 この手の政治的な話は大衆の酒の肴には格好の題材であり、それに直接関係を持つカロッソの心境は別にしても、エレナも世俗を捨てた世捨て人などではない以上、自分には縁遠い故に何処か他人事として聞く事が出来るこうした下世話な雑談は決して嫌いではなかった。


 「自分の庭先で好きにやられたのではジルベルト公爵も心中穏やかではないだろうね」


 「だろうな……それに聖騎士団の連中はやはり庶民受けがいい、それに引き換え自身の従騎士団は矢面に立って魔物の討伐にあたっているにも関わらず評判が日に日に地に落ちていくとあってはな」


 「だが聖騎士団が治安維持を名目に動かぬのは明らかに騎士としての道理に合わないだろうに、ジルベルト公爵が直接陛下なりに直訴すれば聖騎士団側に釈明の余地はないと思うのだけど」


 「それが出来るのならな……」


 今は王宮を離れているとはいえジルベルト公爵はかつては宰相の座を争う程の有力者であり、オーランド王国貴族の中でも極めて高い地位にいる人物である。

 その人物が内輪の揉め事が原因で王国に直訴する事は己の失政を自ら公言してまわるに等しく、気位の高いジルベルト公爵がそれを許容できるとは思えない。聖騎士団側もそれを承知していればこその対応なのだろう。


 そうした話に花が咲き、結局エレナがカロッソと別れ自身が宿泊する宿へと向かったのは夕刻も遅く日暮れ間近の頃であった。


 カロッソは別れ際従騎士たちの事でエレナに注意を促していた。

 あの手の手合いは類に漏れず総じて女にはだらしない。金銭絡みを別にすれば揉め事の多くが女関係であるらしい。

 だが自分とて馬鹿では無い……学習くらいするのだ。

 もうこの身体とは二年近くの付き合いになる。目立たず控えめに行動する。そうした所作くらいすでに弁えている……筈だ。

 意識してしまうと妙に周囲の視線が気になりエレナは知らず通りの端を歩いていた。


 宿が近づくにつれ何やら人の密度が濃くなって来ている事に気づいたエレナは、目線を通りの先へと向けると自身が宿泊する宿の入口に出来ている人混みがその視界に映る。それを目にしたエレナは足早にその人混みへと急ぐ。


 「すみません、何かあったんですか?」


 人垣を掻き分ける様に入口付近まで辿り着いたエレナは近くにいる男に声を掛けた。


 「そこの宿で旅の傭兵と従騎士団の連中が揉めてるらしいぜ」


 男の言葉にまさか……と思いつつも宿へと入ろうとしたエレナの直ぐ脇を男が通り過ぎる……いやその言い回しでは語弊があるだろうか……まさに吹き飛ばされてきた。


 男を目にし、慌てて宿の中を覗くエレナの瞳に映ったのは拳を返り血で赤く染めた長身の屈強な男と、その足元に顔面を腫らし白目を剥いて倒れている三人の男。入口の外で伸びている男を含めれば四人の男が血塗れになり倒れていた。


 「フェリクス……」


 唖然とした面持ちで何度かフェリクスと倒れている男たちに視線を行き交わせていたエレナであったが、やがて大きく溜息を付き小さな左手で顔を覆うのであった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る