第102話
閉幕式を終えた後もエレナは直ぐには闘技場を離れず、控え室に身を置いてランゼや来賓たちの退場を待っていた。
剣舞の宴自体は閉幕を迎えてもそれを観戦していた観客たちの興奮は今だ覚めやらず、一般の出入り口を中心に隣接する広場にまで人が溢れ返り、今闘技場の周辺は大混雑に見舞われていた。
選手たち専用の通用門からならばある程度の混雑は避けられる筈ではあったが、それでも闘技場の敷地を出る為には人々で賑わう前門か後門のどちらかを通り抜けねばならず、其処に大会の優勝者である自分が姿を見せれば大きな混乱を招く事は必定である。
とはいえこのまま祝日の催しへと移行していくライズワースにあって、この近辺が落ち着きを取り戻すのは恐らく夜更け近くの時間にであろう事を考えると、流石のエレナもそれまでこの控え室で待っている気にはなれない。
そこでエレナは一般の出入り口、選手用の通用門、それとは別にもう一つこの闘技場に存在する出入り口を使う事にしたのだ。
その出入り口とは王族や高位の貴族たちが観戦の折に使う特別なものであり、闘技場の敷地でも厳重に立ち入りが制限されている区画を通る事で、一般の人々の目に触れる事なく闘技場を出る事が出来る。
本来ならばエレナの様な一介の傭兵などが使用する事など許されない特別な通路ではあったが、今日この日だけは剣舞の宴の優勝者であるエレナにのみ与えられた特権として使用を許可されていたのだ。
許されていたとはいえ、通路の使用順位としては当然一番低いエレナはそれら上位に位置する者たちが全て闘技場を後にするのを確認してからその専用通路へと足を運んだ。
閑散とする通路を時折見回りの衛兵たちとすれ違うが、エレナを見てもそれを呼び止めたりする者はいない。それどころか衛兵たちに軽く会釈をするエレナにわざわざ道を譲る者たちまでいた。
この大会の開催期間を通じて最早エレナの姿見は衛兵たちには見知ったものとなり、わざわざ足を止めさせ身分を確認する必要を感じさせない存在となっていたのだ。
闘技場の建物の出口にまでやってきたエレナの目に見知った者たちの姿が映る。
一人は初老の小柄な老人、もう一人は体格の良い大柄な男……ミローズとクレストの姿であった。
「お待ちしておりました、エレナ様」
闘技場の建物から出たエレナの姿を確認したクレストがエレナへと深く頭を下げる。
「クレストさんどうして此処に」
エレナは驚いた様に目を見開く。
クレストには事前に旅に必要な馬車の手配と長旅には欠かせない物資の調達を依頼してはいた。エレナもこれからその足でトアル・ロゼを訪れそれを受け取りにいくつもりではあったのだ。
だがそのクレストが自分の目の前にいる。一般の立ち入りが許されていない筈のこの区画にだ。
闘技場の入口に立つ衛兵たちはまったくクレストとミローズの二人を咎める様な気配を見せてはいない。それどころかまるで二人の存在など其処には無いかの様に意図的に振舞っている様な節すら伺えた。
まったく……底の知れない怖い爺さんだな。
流石のエレナもクレストの持つ人脈の広さと、その影響力の強さに舌を巻く。
「エレナ様にお越し頂くまでもなく、此方からお伺いするのが筋かと思いましてこうしてお待ち申し上げておりました」
クレストは顔を上げ、礼に失せぬ様に優美にエレナの視線を後方へと誘う。
そこには一際堅牢な作りの立派な馬車が一台止まっていた。
恐らくは特注品であろう一般的な馬車より一回り大きい車体。とりわけ駆動部分となる二対の車輪部分は精巧だが強固な作りをしている事が外見からでもそうと伺える。
だがなにより特筆すべきはその馬車を引く二頭の馬たちであろう。
大柄で筋肉質な馬体。黒光りする艶やかな毛並み。闘争心に溢れた意思の強さを感じさせる黒い瞳。
魔物を前にしても臆する事無く、主に付き従い大地を駆けるであろう訓練された名馬たち。市場には出回る事の無い最上級の軍馬……エレナもこれ程の馬たちにはそうお目に掛かった事は無かった。
「右がルイーダ、左の馬がオルテガ、戦場を駆ける為だけに生まれ訓練されてきた比類なき闘馬たちで御座います」
二頭の雄姿に見惚れたように視線を送るエレナにクレストが声を掛ける。
「クレストさん……申し訳ないけど私の予算では……」
暫し二頭の馬体を名残惜しそうに見つめていたエレナであったが、本当に残念そうに表情を曇らせる。
アトラトルテでの一件以来、ファーレンガルト連邦から多額の報酬を受け取っていた双刻の月からエレナも相応の給金が支給されていた為、これまでとは違いエレナの懐にも多少の余裕があった。
だが馬車は予算内でどうにか支払えるとしてもこの二頭……いやどちらか一頭だけだとしても、とてもエレナが手が出せる金額とは思えない。
恐らくルイーダとオルテガ、その一頭の値段だけで一財産が築ける程の莫大な金額が必要になるであろうことは間違いないからだ。
「エレナ様には我が主の一件で多大なご迷惑をお掛けしました。その恩もお返しできずにいた事をこれまで心苦しく思っていたのです。これらの馬たちは私クレストからの感謝の気持ちと、旅立たれるエレナ様へのささやかな選別だと思って下されば」
ささやかなどとは程遠い贈り物ではあったが、エレナはクレストの好意を迷いながらも受ける事にした。選別と呼ぶには過ぎたものではあったが、大陸の陸路を行く上で馬の良し悪しは生死を分かつ重要な要素あり、ましてこれから大陸を横断する旅に出るエレナにとっては正直有り難い申し出であったからだ。
「エレナ様の旅のご無事を心から祈っております」
「有難うクレストさん、レイリオには一言……約束を果たせず済まなかった、とお伝え下さい」
本当は直接会って伝えたかった……だがレイリオの身は今ロザリア帝国にあり、現在このライズワースには居ない。レイリオと共に大陸を旅する――――確約した訳では無い……だが確かにあったかも知れないもう一つの未来にエレナは一瞬想いを馳せる。
「お言葉確かに申し付かりました、必ず主にお伝えいたします」
エレナはクレストとそしてミローズに別れを告げて馬車へと歩き出す。クレストとミローズはそのエレナの背中を見送る。
「本当にこれで良かったのか爺さん、レイリオにはまだエレナの事は伝えてないんだろ」
「これでよろしゅう御座います。例えるならばエレナ様は吹き抜ける風の様なお方……如何にその清らかなる風が皆の心に鮮烈な記憶を刻もうと、流れる風を誰も一所に留めて置くことなど敵いますまい」
それに、とクレストは思う。
主であるレイリオのエレナへの想いが強く、強く在るならばその想いは深い縁となり二人を繋げる絆となるだろう。例え定めが二人を分かとうとも深い縁がきっとまた二人を巡り合わせると。
もしこの別れが、最後の離別が二人の今生の別れとなるならば、残念だが二人の縁とはその程度のものであったのだと。
馬車へと近づくエレナは御者台に座る男の気配を察し顔を向ける。エレナの瞳に見知った長身の男の姿が映る。
「フェリクス」
驚いた様に声を上げるエレナを御者台の上からフェリクス・ナザリエルが見下ろす形で顔を向ける。
「そこの爺さんに大まかな話は聞いた、俺に声を掛けずに勝手に旅に出るなぞ約束が違うじゃねえか」
確かにフェリクスとはそんな話はしていた……だがカルロとの会話の中で直接フェリクスからは賛同する様な言葉が聞かれなかった事から、それはあくまでカルロが健在である、と言う前提条件での話しであると思っていたエレナは勝手にその話は立ち消えになったと思い込んでいたのだ。
「まあいい、行き先は爺さんから聞いてる、さっさと乗れ」
何か言葉を返そうとするエレナに、だがフェリクスは馬車に乗れと促す。
エレナは僅かに苦笑を浮かべるが特別反論するような事はせず、馬車の扉を開け車内へと身を滑り込ませた。それを確認したフェリクスが手綱を引くと馬車はゆっくりと進み出す。
クレストとミローズが見送る中、エレナの乗る馬車が闘技場を後にし中央区の市街地へと出る。
向かうのは南の区画に居を構える砂塵の大鷲のギルド、ヴォルフガングの下。
ベルナディスやカルロとの約束が無くとも、元々エレナは大会が終わればその足でライズワースを離れるつもりでいた。
だが激戦の中、自分の身体の状況を鑑みてエレナは砂塵の大鷲にセント・バジルナまでの護衛を依頼していたのだ。エレナとは異なり色々と後処理をしなければならないベルナディスとはセント・バジルナで合流する手筈になっている。
馬車の車窓から中央区の町並みを眺めていたエレナの視界に馬車に近づく一騎の騎馬の姿が映り込む。馬車に併走するように馬を走らせる馬上の人物の姿を目にしたエレナはまた苦笑を浮かべた。
馬上の人物、フィーゴ・アルセイスはエレナの視線に気づくと屈託の無い笑顔を返す。
当然これが偶然の再会だとは考え難い。クレストがエレナの預かり知れぬところで何らかの手を回したのか……或るいはフィーゴの独断なのかエレナには知り様もないが、自分を取り巻くこの数奇な巡り合わせにエレナ自身呆れてしまう。
そして砂塵の大鷲のギルドへとやってきたエレナの前に、ギルドの入口でヴォルフガングと共にエレナを迎える人物。その姿を目にしても予期していなかったフェリクスやフィーゴの時とは違い、エレナには驚きは無かった。当然そうなるであろうと言う予感がエレナにはあったからだ。
ヴォルフガングと並びエレナを待つ人物。
まだ本来ベルナディス戦での怪我の治療の為に入院している筈のアニエス・アヴリーヌの姿が其処にある。
馬車を降りたエレナは自分を待つアニエスへと頷いて見せる。
自分と共に闘争の果てに命を散らす覚悟を決めた者。
ただただ強さのみを追い求め闘いの場に身を置こうとする者。
自分を殺す為だけに絶望的な旅路に同行しようとする者。
それぞれの思いは別にして、彼らが自ら望み選択したのならばそれもいいだろう。
この旅の果てに何が待つのかはエレナには分からないが、その旅路も彼らとなら少なくとも退屈することはなさそうだ、とそんな不謹慎な考えが脳裏に過ぎり知らずその小さな口元に笑みが浮かぶ。
御者台からフェリクスが、馬を降りたフィーゴがエレナの後へと続く。
エレナたちは自分たちを待つヴォルフガングとアニエスの下へと歩みを進めるのであった。
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