第93話


 宮殿で催された舞踏会から数日が過ぎ、決勝大会を目前に控えたライズワースの南の区画の酒場にエレナとカタリナの二人の姿があった。

 カタリナは向かい合って座るエレナとテーブルの置かれた封書を交互に見やり深い溜息をつく。

 こうしてエレナに個人的に呼び出されたのは二度目であり、前回の顛末とあわせエレナの今の真剣な表情を見れば話の内容が、年頃の少女が思い悩み年長の女性に相談するような、そんな甘酸っぱい類の微笑ましい内容ではない事は容易に想像出来た。


 「封書の内容を確認させて頂いても?」


 「はい」


 エレナの同意を得てカタリナは封書を手に取ると封書の内容に目を通していく。その封書に書かれている文面にカタリナの視線は幾度と無く止まるが、途中で疑問を差し挟む事なく最後まで読み終えると先程よりも更に深く息を吐く。


 「本気……なのですか?」


 エレナはカタリナのその問いに深く頷いた。


 書面に書かれていた内容はカタリナの想像を超えたものであった。封書に収められていたのは二通の便箋……エレナの双刻の月からの離別の意思を示したものと、正式な書体で記されたギルド会館へ提出する為の書面。

 双刻の月からの決別のを告げるこのエレナの行動に、カタリナは困惑を隠し切れない。


 「今回ばかりは以前の様に何も聞かず協力すると言う訳にはいきませんよ、私にも分かる様にきちんと理由を説明して貰えますか」


 エレナの余りにも唐突で受け入れ難いの行動に、カタリナにしては本当に珍しくエレナに対して苛立ちの様な感情を抱いていた。カタリナにとって家族も同然な大切な友人であるエレナの、余りにも突然で一方的なこの通告を唯々諾々と受け入れるなど出来よう筈も無い。


 「初めて私が双刻の月に来た時の事……カタリナさんは覚えていますか」


 真剣な眼差しを自分に向けるエレナにカタリナは当時の頃を思い出す。

 忘れる筈など無い……カタリナにとってもそれは大切な思い出の一つであったのだから。


 「あの時私は言った筈です。私の目的が剣舞の宴に参加する事だと、そしてその目的が果たされたならもう私が此処に残る理由はありません」


 エレナの口から発せられたとは思えぬ程感情の篭らぬ冷たい響きに、カタリナは背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。

 カタリナ視線の先、普段と変わらぬ美しいエレナの顔が其処にはある……だが感情を現さない今のエレナの姿は何処か作り物めいた……そう精巧に作られた綺麗な人形の様な印象をカタリナに与えていた。


 「最初の目的がどうであろうとそんな事は関係ありません!! 今日まで私たちと過ごして来た時間は貴方にとって無為なものであったとでも言うつもりですか……」


 思わず激昂しテーブルを叩くカタリナ。カタリナはエレナの心無い言葉に苛立ちを爆発させていた。

 例え今の言葉がエレナの本心だとしても、少なくともカタリナにはエレナと過ごした来た日常は掛け替えの無い大切な日々であり、だからこそ許容し難い怒りと……悲しみがカタリナを突き動かす。


 「意味など在りませんよ」


 ぞっとする程冷たいエレナの声に、カタリナは信じられないと言った表情でエレナを見つめる。


 「始めから意味など無かったんですよ……私にとって双刻の月は目的を果たす為の手段でしかありませんでした。だから――――最初から私の居場所では無かった」


 エレナの黒い瞳に刹那宿った揺らめきをカタリナは気づく事が出来なかった。だがそんなカタリナを誰が責められようか……それ程にそれは小さな儚い揺らぎであったのだから。


 「私に……何を協力しろと……」


 カタリナは搾り出す様にそれだけを口にする。

 エレナの突然の変わり様にカタリナは……自身の理解を超えたこの状況に、信頼していた者に裏切られた事への失望感と悲しみ、そして湧き上がる怒りに乱れた心を整理することが出来ずにいた。

 こんなエレナの姿を見たら、真実の彼女を知ったらレティシアはどうなってしまうのか……。

 カタリナの脳裏に浮かぶのは親友の事。

 レティシアがエレナに抱く深い愛情は最早、彼女がこれまで心の支えとして生きてきた英雄アインス・ベルトナーへの思慕の念と比肩しうる程に大きくなっている事は、幼い頃からレティシアの傍にいたカタリナの目から見てもはっきりと見て取れた。

 いや……言葉を交わし、触れられる、より身近に存在するエレナの方にレティシアが強い執着と依存と呼べる程の繋がりを求めているのは間違い無い。

 もしそれが突然、しかもこんな形で失われてしまったらレティシアは壊れてしまうかも知れない……そんな漠然とした恐怖がカタリナを支配する。


 「大会が終わったら私は直ぐにライズワースを発ちます。しかしこのままでは双刻の月に大きな迷惑を掛けてしまう事になるでしょう。だからカタリナさんにその封書を活かして貰いたいんです」


 カタリナは始めエレナが何を言っているのかその意味を理解出来なかった。混乱の極みにすらあったカタリナにはエレナの意図を読み取るのに暫く時間が必要であったのだ。

 だがやがて思い至る。

 剣舞の宴。その決勝大会にまで駒を進めたエレナは現時点で暫定的だが八位までの序列が確定している。仮にエレナが初戦で敗退したとしても一桁の序列者としての恩恵と、そしてそれに伴う責務が発生する事になるのだ。

 一桁台の序列者に与えられる恩恵は他の序列者と比べても特別な待遇を約束される一方で、与えられる責務も当然大きなものとなる。

 そのエレナがライズワースを出奔する様な事になれば、事は単純にエレナの序列剥奪では収まらず、監督責任を問われ双刻の月、ひいてはギルドマスターであるレティシアに重い罰則が科せられる事になる。

 エレナは今のこの時点でギルドから抜ける事で双刻の月やレティシアに害が及ぶのを避け様としている……そう考えるのが自然ではあったが、だが何故……。

 そこでカタリナは愕然とする。

 エレナは気づいているのであろうか。

 もし本当に彼女が双刻の月を、自分たちを目的を果たす為のただの手段として、道具として見ていたのだとしたら、態々こんな手の込んだ方法など取らずともただ黙って己の身一つで姿を消してしまえばいいだけの事であり、そんな人間が残された者の心配などしないと言う事に。

 カタリナの中に僅かな希望が生まれ、同時にエレナの悲壮なまでの決意を悟りその身を震わせる。

 全てが彼女の演技でとしても、大切な者たちを欺き全てを捨ててまで彼女は……エレナは何を求めるというのだろうか。

 大陸に生きる多くの者が大なり小なり、それそれ悩みや傷を負って生きている。まして傭兵として身を置く者がその身の上に複雑な事情を抱えている事などは珍しい話ではない。

 だからこそエレナの過去も素性もこれまで詮索する様な真似は誰もしてこなかった。だがもしカタリナが思うようにこれが全てエレナの演技なのだとしたら……それは十六歳の少女が思いつき決断するには余りに残酷で……救われないではないか。


 「カタリナさんが協力して頂けないなら、レティシアさんに直接事情を説明しなければならなくなりますね」


 表情を変える事なく決断を迫るエレナの姿を、カタリナは深い悲しみを湛えた瞳で見つめる。


 「分かりました……ギルド会館への手続きは私が代行しておきます」


 大会期間中にギルドの所属から離れる事は、本来の大会の規定から言えば違反行為に当たり出場の権利を失いかねない異例な行為ではあったが、決勝大会を二日後に控えた今、エレナの出場を取り消す事などギルド会館側がするとは思えない。

 エレナもそれが分かっているからこその行動なのだろうが、だからこそ余計にカタリナの胸は締め付けられる様に痛んだ。


 「私の荷物は処分して貰って構いませんので」


 カタリナの承諾を受けエレナは席を立つ。

 立ち去ろうとするエレナの顔には何の感傷も感慨も浮かんではいない。

 決別を告げるエレナをカタリナはただ見送る事しか出来ずにいた。今のカタリナにはエレナに掛ける言葉が見つけられず……ただただその小さな背中を見送る事しか出来ない。



 背中にカタリナの視線を感じながら、だがエレナは振り返る事無く歩みを進める。

 これでいい……決勝大会の開催期間は六日間、その程度の期間なら自分の不在の理由をカタリナならば上手く誤魔化してくれるだろう。

 短い期間で行われる大会に合わせ中央区に居を構えて試合に集中する参加者は珍しくない。多少不自然な行動であろうと、大会の期間中であれば誤魔化しもきく。


 別れが避け得ぬものならば、惜しまれ悲しまれるより失望され憎まれた方がましだ。

 深い悲しみや愛情は残された者の心に大きな傷跡を刻み、長い時と時間を掛けてその心を蝕み続ける。だが怒りと憎しみは強い思いとなって生き抜く力を与えるだろう。

 大切な者たちの心に自分が残す思いがあるとすれば、それは怒りと憎しみの対象で在れねばならない……エレナ・ロゼとは自分たちを騙し利用した下らぬ存在であると、レティシアやシェルンたちが更なる成長の為の礎になれればこんなに報われる事は無い。

 自分を愛してくれた者たちに対して共に歩めぬ自分が、せめて彼らに報いる手段をエレナは他に思いつけなかった。


 エレナの黒い瞳は前だけを見つめる。

 その黒い美しい瞳は憂いも迷いも無く、ただ進むべき未来のみを映し出していた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る