第94話
決勝大会の舞台となる中央区の闘技場、その中央広場に程近い宿屋にエレナは部屋を取っていた。
中央区は他の区画と比べ格段に治安が良い。それはこの中央区が貴族や商人たちの中でも富裕層の割合が高く、そうした人間たちを狙う犯罪の取り締まりや、憲兵隊の本部を始め、名のある高位ギルドに土地の斡旋を行う事で犯罪を未然に防止する為の抑止効果が働いていた為だ。
そうした背景からも伺える通り、中央区には他の区画で見られる安宿と呼ばれる様なものは存在しない。中央区の宿屋では宿自体が犯罪の温床となり、宿泊客がいきなり寝込みを襲われ身包みを剥がされる様な危険を避けられる対価として、相応の料金と引き換えに安全と一定水準の快適な環境を提供している宿屋が大半を占め、一部には貴族や豪商などが贔屓にしている高級宿が立ち並んでいる。
中央区では宿屋に限らず、店を出す為には寄合所となっている商館の認可が必要であり、些か縄張り意識や利権などが絡む薄暗い部分はあるとは言え、その反面犯罪を生業とする悪質な者たちが入り込み難い構造が構築されている為、中央区特有の格式の高さと安全性が保たれているともいえた。
剣舞の宴が開催されているこの時期に中央区で宿を取るのは実の所至難の業である。
オーランド王国全土から大会の観戦に訪れる来訪者に加え、今回の大会では南方からの渡航者も数多くライズワースを訪れていた。その影響で中央区に限らず各区画の宿屋はかなりの割合で満室に近い状況にあったのだ。
そんな中、決勝大会が行われる中央区の闘技場から徒歩で向かえる程の立地にあるこの宿にエレナが宿泊出来たのには理由がある。
稼ぎ時である大会期間に全室を貸し出す宿が多い中、中央区の一部の宿では敢えて空室を残し特別な顧客への急な来訪に備える宿も存在していた。エレナはそれらの幾つかの宿と交渉しこの宿の空けていた空室に滞在する事が出来たのだ。
今やエレナの名はその美しい容姿に加え、優勝候補の一角としてラーズワースでは有名であり、宿が設ける特別な条件を満たした存在であった。
宿屋側からして見ればエレナ・ロゼが滞在した宿としての知名度と、後の集客を呼べる広告塔としてのエレナの価値は高く、二つ返事でエレナの為に部屋を提供していた。
エレナとしても相場よりも安価でしかも立地的にも申し分の無い宿に部屋を確保出来たのは幸運であり、渡りに船といった心境ではあったが、同時にそうした好条件にはそれに伴う弊害というものもまた存在した。
その一つが今エレナの前に繰り広げられている光景と言えようか。
エレナが滞在する二間続きの広い室内には高級感がある調度品が配置され、生活感を感じさせない格式の高い雰囲気が漂っている。その広い室内には主となったエレナ以外にも複数の人物の姿がある。
テーブルを挟みエレナの向かいに座るアニエスは黙々と用意してきた酒瓶を空けている。既に二本の空の酒瓶がテーブルの端に並び三本目も半ばまで空けていた。
恐らくカタリナに相談をされたのだろうアニエスがエレナの下を尋ねて来てから此処まで二人の間に会話らしい会話は交わされていない。
エレナはアニエスの突然の来訪には驚きはしたものの、部屋に招き入れこうして酒の席に付き合っていたが、エレナ自らが進んで口を開く事は無く、元々口数の少ないアニエスとの間に奇妙な沈黙が続いていた。
「酒の肴が欲しいな、おいフェリクス、下に行って注文して来てくれよ」
「怪我人に頼むんじゃねえよおっさん、自分で行ってこいや」
「四十前の色男をおっさん呼ばわりするなと言ってるだろうが、若造が」
エレナの横で騒々しい男たちの声がする。
エレナを尋ねて来たのはアニエスだけでは無かった。エレナの隣の席では大分酒が入り出来上がり掛けているカルロと、平然とした表情で酒を水の様に呷っているフェリクスの姿があった。
何故双刻の月を出たエレナの居場所をアニエスやカルロ、そしてフェリクスが知っているのかと言えば、先に挙げた様に大会期間中の稼ぎ時にも関わらず、エレナに部屋を提供した見返りとして宿側が宣伝として盛大に大会参加者であるエレナの滞在を喧伝して回っていたからだ。
他の大会参加者が宿泊する中央区にある老舗の高級宿などなら、この様な不細工な真似は格式と信頼を損なうとして、宿泊客の情報などは一切外部には洩らさない高い節度を持った宿ばかりなのだが、エレナの知名度は高くとも深くは無い、とでも言えば良いのであろうか、そうした高級宿ではの軒並み滞在を断られたという経緯があり、宿が取れたというだけでも幸運であったとこうした弊害も甘受しなければならない程度にはエレナとしても納得はしていた。
そうした経緯から既にエレナが滞在している宿は中央区では広く知れ渡っており、さほど苦労も要らずアニエスはエレナの所在を掴めたであろうし、ましてカルロやフェリクスが所属している愚者の天秤はこの宿に程近い場所に拠を構えていたのだから言わずもがなである。
とは言えアニエスは兎も角、カルロやフェリクスまでもが賑やかしにやって来るなどとは流石のエレナも想像の範疇を超えた事態といえた。
「いい加減にしとかないと……明日の試合の初戦はカルロさんじゃないですか」
ふらつく手で酒瓶を握るカルロにエレナは軽く溜息をつきながらカルロの手から酒瓶を取り上げる。
カルロはエレナに強奪された酒瓶を名残惜しそうに眺めていたが、やがて諦めた様に深く息を吐く。
「なあエレナ、俺たちと共に旅をしないか」
何気ないカルロの一言にエレナの酒瓶を持つ手が止まる。
エレナが双刻の月を離れた事はまだカタリナと……恐らくアニエスしか知らない。仮にエレナの行動を不審に思いそれを察したのだとすればカルロの洞察力は侮りがたいものといえたが、この時点ではエレナにその真偽を確かめる術は無い。
「それも悪くないかも知れませんね……でも向かうなら南ですよ」
突然のカルロの物言いに、だがエレナはさして悩んだ様子すら見せず同調してみせる。
カルロが何処まで本気であるのかは分からないが、北のオーランド王国から大陸を南へと旅して南方のアドラトルテへと向かう。
陸路を行けば半年は掛かるかも知れない行程ではあるが、結成されるであろう遠征軍に合流するにしてもまだ時間的余裕はある筈だ。最後に大陸を気の置けない傭兵たちと渡るのも悪くない、とエレナは思う。
例えどんな最後を遂げようと、最後は笑って逝ける様な旅添えならばエレナも気兼ね無く共に行ける。
「決まりだな、フェリクスも張り合いがでるだろうし何よりお前さんがいてくれた方が華やかでいい」
カルロは楽しそうに目を細め、フェリクスは我関せずと酒瓶ごと酒を呷る。
「でもまずは互いに初戦を勝ち抜いて、約束を果たしましょう」
舞踏会でカルロと交わした約束は奇しくも現実味を帯びていた。
ギルド会館が発表した決勝大会の組み合わせは。
抽選順。
一番 カルロ・ヴァルザーニ。
二番 フィーゴ・アスレイス。
三番 エレナ・ロゼ。
四番 クルス・ガリアス。
五番 ライベルク・サイクス。
六番 ベルナディス・ベルリオーズ。
七番 マルクセス・フィリーズ。
八番 アニエス・アヴリーヌ。
エレナとカルロは互いに一回戦を勝ち抜けば準決勝でぶつかる事になる。対戦相手は互いに強敵ではあったが、俄然現実味を帯びた組み合わせとなっていた。
「それなら、私は決勝で貴方を待つわ」
これまで一切会話に加わらなかったアニエスがポツリと呟く。
そう……口下手なアニエスが此処までやって来たのはカタリナにエレナの真意を確かめて欲しいと頼まれたからではない。
ただ一言それだけをエレナに告げる為にアニエスは此処にいた。
アニエスにはカタリナが言う様にエレナが変わったとは思えない。こうして見つめるエレナの姿は変わらず真っ直ぐで何処までも気高く美しい。
エレナの内に秘めた炎は激しく、眩しく、時に映す姿を変えてとしても、その本質は、純粋な煌きは決して変質などしてはいない。だからこそ……自分が認めた存在だからこそ全力で挑みそして打ち破る。
アニエスがエレナに伝えたかったのはただその思いだけであった。
「そうですね……私もアニエスさんと戦いたい」
こんなに嬉しい事は無い、こんなに楽しい時は無い。
認めた好敵手たちと命を削り剣を競える……彼らとの死闘の中で燃え尽きる事が許されるならそれはどんなに幸せな事だろうか。
それは死の誘惑にも似た甘い囁きとなってエレナの心に忍び寄る。だが同時に自分の死地は此処ではないのだと冷めた自分がそれを戒め、二つの思いがエレナの胸に去来して消える。
エレナを囲む奇妙な酒盛りは結局深夜まで及び……。
剣舞の宴、決勝大会。
激闘の六日間の始まりを告げる夜が明ける。
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