第87話


 「レティシアさん、紅茶入れたよ」


 双刻の月。


 そのギルドの建物内にある応接室とレティシアの書斎を兼ねた一室に、エレナとそしてレティシアの姿がある。


 エレナは淹れたての紅茶の杯をテーブルに置くと、自分もレティシアの向かいの席にと腰を下ろした。


 有難う、と笑顔でエレナの淹れた紅茶に口をつけるレティシアの姿は、以前と変わらぬ落ち着きを取り戻している。シェルンの試合の後からの数日間……シェルンが近くの医院に移されてからの数日は、精神的に不安定な姿が見られたレティシアであったが、シェルンが医院からこの双刻の月へと戻って来るとそうした面は影を潜め、いつものレティシアへと戻っている。


 名門貴族の令嬢として生まれ、高い教育と作法を学んできたレティシアは、その美しい容姿と相まって多くの者が淑やかな淑女としての印象を持っている。


 確かにそうした一面もレティシアの本質を成す一部ではあったが、同時に情愛深く、故に激しい気性の持ち主であると言う側面も持っていた。だが後者の一面に関してはレティシアを良く知る近しい人間以外には余り知られてはいない。


 それは普段のレティシアが強い自制心と分別を持った聡明な女性である事の現れではあったのだが、裏を返せば高潔な故に潔癖を求めるレティシアの、他者を色分けする為の処世術とも言えなくも無い。


 二面性を持つレティシアのそうした姿を、年頃の女性が見せる愛らしさと見るか、計算高い女性と感じるかでレティシアに対する印象も評価も大きく変わってくるだろう。


 少なくともエレナ自身はレティシアのそうした部分を含め好ましく思ってもいたし、また妹の様に愛おしくも感じていた。


 「本人は納得出来ないかも知れないけれど、シェルンは棄権させようと思うの」


 レティシアの声の響きはエレナに問うていると言う声音では無く、既に決めた事を告げている調子が伺えた。だがそうだとしてもレティシアの決定にエレナも反対する気は無い。


 シェルンは医院から戻ってきたとは言え頭部、胸部、そして両腕の骨折、それらの完治は稼動域訓練のリハビリを含めて全治には三ヶ月は掛かるであろうとの医師からの診断を受けていた。


 若いシェルンの回復力を考えて、ある程度の期間の短縮は望めるとしても、少なくとも暫くは絶対安静の重病人である事は間違い無く、どう考えても一週間後の準決勝に参加する事など不可能な容態であったのだ。


 「私からシェルンに話しますよ、ギルドマスターと言っても、姉であるレティシアさんでは少し話し難いでしょうし」


 「有難うエレナ」


 自分が話すより尊敬しているエレナから告げられた方が、シェルンも納得して諦めがつくかも知れない。レティシアはそう考え、また自分たち姉弟に心を配ってくれるエレナの気持ちが嬉しかった。


 席を立ちエレナの隣へと座り直すレティシアの一連の動作が余りにも自然な流れであった為、エレナはその行為の不自然さに気づくのが遅れる。エレナがレティシアの変化に気づいたのは自分の左手にその手を重ねられた時であった。


 「こんな事を言ってはいけない……それは分っているの……」


 レティシアの真摯な瞳が自分を見つめるこの段に至り、エレナは不味い、とこの状況の変化に気づく。


 「シェルンだけじゃない……エレナ、貴方にも大会を棄権して欲しい……」


 先程とは違い、今度のレティシアの声は微かに震えその声音は懇願に近い。


 レティシアも傭兵となりギルドを立ち上げた時から、この世界で生きると言う意味も、そして覚悟も決めていた。だがこうして初めて大怪我を負ったシェルンを目にして、レティシアは容易くその覚悟が揺らいでしまっていた。


 元々家を捨て傭兵になったのも、このギルドを立ち上げたのも、全てはシェルンの居場所を作る為、だが愛しい弟を永遠に失うかも知れないと言う恐怖の中、レティシアはその事を強く思い起こし、迷い、揺らいでいたのだ。


 今回シェルンが助かったのは運が良かっただけ……そして次はエレナがそんな目に遭うかも知れないと想像しただけで、レティシアは足元が崩れていく様な、足場を失い何処までも落ちていきそうな激しい恐怖に襲われる。


 レティシアは今が幸せであるのだと気づいてしまった。シェルンが、カタリナが、手の掛かる新しい弟、妹とさえ思えるリムやアルク、ライエル、そして誰よりも愛おしいエレナが居る今この時が自分の幸せなのだと。


 「私の為に……辞退して……私が大切なら傍に居て欲しいの……」


 レティシアの瞳から涙の粒が頬を伝う。


 ずるい女……嫌な女だ……激情の中、レティシアの何処か冷静な部分がそう告げる。


 こんな言い方をされれば優しいエレナは折れてくれるかも知れない、大会を諦めてくれるかも知れないと、そう期待している自分に堪らない程の嫌悪感を抱く。


 不意にエレナの小さな腕が伸ばされ、レティシアの髪を優しく撫でる。

 そのエレナの行為にレティシアは期待とそして不安が入り混じった眼差しをエレナへと向けた。だがレティシアが目にしたのは、自分を見つめる悲しげな黒い瞳と、寂しそうな表情を浮かべるエレナの姿であった。


 「ごめんレティシアさん、それだけは出来ない、それだけは譲れないんだ」


 エレナから告げられた拒絶の言葉に、レティシアは堪らずエレナの小さな身体を抱きしめていた。レティシアの両腕はエレナを離すまいと強く、強く力が篭る。


 「もう失うのは嫌……父様や母様を……アインス様も……私は……」


 抑えていた想い、悲しみ、そうした感情が溢れてレティシアは言葉に詰まる。


 自分に縋る様に……子供の様に肩を震わせて涙を見せるレティシアの姿に、エレナはその震える肩にと手を伸ばし――――だが触れる事無くその手は止まる。


 かつての仲間たちがアインスと言う……人を殺すだけの道具として生き、偽りに塗れた名声だけを求め続けた自分を友として認めてくれた様に、今のエレナとしてのありのままの自分を受け入れ、必要としてくれるレティシアやシェルンの存在はエレナにとって大きな支えとなり、双刻の月こそが自分の居場所であると強く想うまでに至っていた。だが同時にそれが一時の儚き夢であり、決して叶う事の無い分不相応な望みだという事も分っていたのだ。


 この大会がどういう結末を迎えたとしても、自分は双刻の月を……レティシアやシェルンたちの前から去る事になるだろう。


 一年に満たない残りの寿命をレティシアやシェルンたちと、過去を欺き己の幸せの為だけに生きる事など許される筈はない。己の栄達や名声の為に、王命と言う仮初の大儀の元で、守らねばなぬ筈の幼い子供たちやその母親を……罪も無い女、子供ですらこの手に掛けてきた自分が、肉体を移り、新たな人生を得たからと言って許されて言い訳がない、救われてよい筈などないのだ。


 血に塗れているのはその手では無く、魂なのだ。


 だからこそ、エレナ・ロゼが求めるのは強さだけでいい、闘いという狂気と闘争の中で命を散らし、結果として救われる命があればそれで十分報われる。自分はそんな小さな自己満足の中で己の生涯を終えるのだと。それは仮に元の身体に戻れたとしても、同じ選択をし、同じ結末を辿るだろうとエレナの中にはその確信があった。


 だからこそ個人の親愛や情愛を、レティシアやシェルンの好意を、エレナは受け入れる事が出来ない。


 「レティシアさんは少し疲れているんだよ、今カタリナさんを呼んで来るから待ってて」


 殊更取り繕う様に明るい声でレティシアから離れようとするエレナを、その行動を阻む様にレティシアは小さなその身体を離すまいと両腕に力が篭る。


 「傍に居て……私の傍から離れないで……」


 子供の様なレティシアにエレナはそっと顔を寄せ、レティシアの額にエレナの小さな唇が触れる。


 「大丈夫……私はずっとレティシアさんの傍に居るから」


 エレナの諭す様な優しげな声と額に触れる柔らかな感触に、レティシアの瞳からはとめど無く涙が溢れ出し、感極まったレティシアはエレナの胸に顔を埋めて泣き続ける。


 どれくらいの時が流れたのであろうか、カタリナが応接室へと姿を見せその二人の姿に困惑しつつもレティシアを落ち着かせた後も暫く、レティシアの手はエレナを離そうとはしなかった。


 エレナが始めてついた嘘は優しく……だからこそ誰にとっても残酷な、救われない偽りの言葉。


 だがそれは初めてエレナが人として見せた人間らしい弱さであり、迷い、そして悩む一人の人間としての感情の発露の現れだったのかも知れない。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る