第88話


 オーランド王国の王都ラーズワースの中央区。その中央区を更に進むと堅牢な城壁に囲まれた限られた特権階級の者のみが住まう特別区が存在する。


 多くの貴族たちの邸宅が並ぶ中央区もまた、一般の人々が暮らす他の区画と比べ大きく赴きの異なる特殊な区画ではあったが、オーランド王国国王ランゼ・クルムド・オーランドとその青き血族が住まうヴュルツブルク宮殿を始め、オーランド王国の心臓部であり、権威の象徴として聳え立つ大陸屈指の王城ハイデルベルクを擁する特別区は、ライズワースに住まう者たちにとって不可侵な聖域であり、天上人たちが住まう別世界であった。


 広大な敷地を持つヴュルツブルク宮殿の一角に来賓たちの為に客室が用意されていた。いや……客室と言う表現は適切とは言えない。来賓の為に割り当てられた区画は十部屋以上の部屋数を有する離宮であり、その占有面積は中央区に居を構える大手の商会の建物とほぼ面積の上では変わらない。


 ロザリア帝国からの来賓であるクレイヴ・バルタ・ローディスに宛がわれたその広い宮殿の区画の一室に、白髪が目立つ初老の騎士と美しい長い銀髪の女騎士の姿がある。


 クレイヴの護衛としてライズワースへと赴いて来たオリヴィエとヘクターは、クレイヴが休息を取っている部屋の隣を控えの間として使用していた。

 護衛の任に就いているとは言え四六時中クレイヴに張り付いている訳ではなく、宮殿へと滞在している間は少なくともある程度の距離感を保つ様に配慮をしていたのだ。


 それはクレイヴがぞろぞろと護衛を引き連れて歩く大仰な慣習を事の他毛嫌いしていた為であり、二人以外の護衛の騎士たちはクレイヴの命でロザリア帝国の大使館に滞在させたまま、宮殿への同行を許されていなかった。

 そうしたクレイヴの気性もあり、オリヴィエやヘクターもクレイヴが公の席へと赴いている以外のこうした場では極力、主の意向を汲み傍近く侍る事は控えていたのだ。

 故に他の国の来賓に従ってやって来ている騎士たちに比べ、オリヴィエたちは時間を持て余す事も多いのだが、さりとて主の傍を遠く離れ街へと出る訳にも行かず、この様に手持無沙汰な状況が生まれる事がしばしばあった。


 テーブルに用意されていた紅茶の杯を手にし、姿勢正しく紅茶の注がれた杯を口にするオリヴィエの様子を見るとは無くヘクターが眺める。

 オーランド王国に来訪してからのオリヴィエは、その生真面目な性格故に緊張した趣が抜けず、その立ち振る舞いからも何処かぎこちなさを感じさせていたのだが、そんなオリヴィエが此処最近は妙に楽しげな様子を時折見せるようになっていた。


 もっともそうした仕草はヘクターと二人だけの時にしか見せた事は無く、おそらくクレイヴも気づいてはいないであろう微妙な変化ではあったのだが。

 そしてヘクターは孫娘のこの心境の変化の理由を悟ってもいたし、またオリヴィエもヘクターの前ではそれを隠す素振りすら見せていない。


 「昨日の準決勝の試合は素晴らしかったですね、お爺様、流石はアインス兄様ですわ」


 「またその話か……オリヴィエ、その妄想はわしの前でだけにしておくのだぞ」


 あの少女の試合を思い出しているのであろうか、うっとりと目を細め吐息を漏らす様に言葉を紡ぐオリヴィエの姿にヘクターは深く溜息をついた。

 確かにエレナ・ロゼと言う少女の剣はかつてのアインスの姿を彷彿とさせる。双剣を扱うからと言う形だけの話では無く、姿勢や身構え、太刀筋、そしてなにより双剣で十字を刻むあの独特の構えはアインスを知らぬ者が真似を出来る類のものでは無い。


 色々な意味でエレナと言う少女は謎深い存在ではあったが、だからと言ってオリヴィエが想像する様にあの少女がアインスであるなどと言う証拠も確証を何一つ無いのだ。

 ヘクターとてあの少女がアインスと無関係であるとは考えてはいないが、だからと言って結論を出すには早急過ぎる上に、エレナと言う少女について知らぬ事が多過ぎる。


 アインス・ベルトナーと言う英雄は大陸全土に大きな影響を齎す存在であり、軽はずみに扱ってよい名では無いのだ。ヘクター自身、アインスの生存を強く願ってはいたが、その事とあの少女がアインスであると言う事は同義では無い。


 だがもし……とヘクターの脳裏にオリヴィエの語った推測が過ぎる。

 あの少女とアインスが同一の存在であるとしたら……唯一理屈を付けられるとするならそれは――――魂の定着。


 魔法士が生み出した永遠へと至る禁呪。


 かつて魔法士アウグスト・ベルトリアスが行った忌まわしい実験は、皮肉な事にその事件が切欠となり現ローディス王家が誕生した経緯を踏まえ、ロザリア帝国の歴史を語る上では切り離せない一つの事件として語り継がれている。


 それ故に旧王家によって齎されていた戦乱による貧困に喘いでいたロザリア帝国の民たちは、一人の魔法士の悪魔の実験によって国家体制が転換されるという皮肉な結果を目の当りにし、その複雑で鬱屈した思いは他の国の人間以上に魔法士に対しての強い差別と憎しみを生み、またそれ故に魔法という不可思議な力に対しても造詣が深いという一面を持っていた。


 アインスの魂があのエレナと言う少女の肉体に移された、と推測するオリヴィエの考えは余りに突飛な推論ではあったが、なるほどそう考えるなら納得出来る部分も多い。だが魂の定着と言う禁呪は適合しても数日から数週間で肉体も宿る魂も崩壊してしまう不完全な呪法である事は、アウグストが残した実験書類からも判明しており、少し調べただけでもエレナと言う少女が少なくとも数ヶ月はこのライズワースに滞在している事が確認されている以上、そこに大きな矛盾が生じている事は否めない。


 だがヘクターが何より一番危惧していたのは、そうした話がクレイヴの耳に入る事であった。

 ただでさえあの少女に興味を示しているクレイヴに、こんな話を知られでもしたら間違い無くクレイヴはあの少女を手に入れようとすることは目に見えていた。


 欲しい物はどんな手段を講じても己の物とせずにはいられないクレイヴの悪癖を、第二次遠征軍の詰めの協議を迎えている今この時に出されては些か困るのだ。

 少なくとも真偽がはっきりするか、協議が終わるまではこの話はクレイヴには知れせぬ方が得策であり、故にオリヴィエにも固く口止めをして、またこうしてオリヴィエの言葉を妄想として斬って捨てたのだ。


 「直接お話し出来ればはっきりする事ですわ、お爺様」


 オリヴィエは待ち遠しそうにまた目を細める。


 大会の準決勝までが終わり本選も各組の決勝を残すのみとなった事で、決勝大会に駒を進める八人が実質上出揃っていた。そして決勝大会の前に彼ら八人の健闘を讃える晩餐会と舞踏会がこの宮殿で催される予定となっていた。此方から逢いに行く事はできずとも、向こうからこの宮殿へと足を運んでくれると言うのだ。

 舞踏会の場でならエレナと……いやアインスと話す機会は訪れる筈だ、そして直接話せばオリヴィエははっきりと確信を持てると信じて疑っていなかった。


 アインス兄様がご存命なら、アンリ兄様ももしかしたら……。


 アインスの口からアンリの安否も確認出来るかも知れないと思うと、オリヴィエの胸が期待で高鳴る。


 アインスとアンリ……二人の力添えがあればクレイヴが目指す、魔物を駆逐した新たな理想の世界を作ると言う偉業に大きく前進する事は間違い無い。そして尊敬し敬愛する兄たちと同じ道を歩めるという自身の幸運に胸が熱くなるオリヴィエ。


 高まり興奮するオリヴィエの脳裏に不意に浮かぶ一人の人物。


 エリーゼ・アウストリア。


 その名と姿を思い起こすだけで、オリヴィエは冷水を掛けられた様に心が凍りつく様な感覚に襲われる。


 穢れた魔女……薄汚い売女。


 アインスとエレナ……この一件にあの魔女が関係している可能性は高い。

 だからこそ慎重に事を運ばなければ為らない。今はまだあの魔女に此方の動向を気づかれるのは得策では無いのだから。


 因縁と思惑は巡り、だが時は止まらず流れ行く。



 ライズワースの各所に本選の決勝進出者の名前が大きく張り出され、多くの人々がそれらの名前を目で追うように眺め、そして噂し語り合う。


 決勝戦。


 序列一位 ベルナディス・ベルリオーズ対エレナ・ロゼ 序列番外。 


 序列四位 ライベルク・サイクス対カルロ・ヴァルザーニ 序列七位。


 序列三位 フィーゴ・アスレイス対マルクセス・フィリーズ 序列九位


 序列五位 アニエス・アヴリーヌ対クルス・ガリアス 序列六位。


 フェリクスを破ったエレナの存在以外では、参組の準々決勝において負傷したシェルンとヴォルフガングの両者が準決勝を棄権すると言う些か珍しい事態を除き、上位序列者が決勝へと駒を進めるという予想通りに推移した本選。


 本当の戦いが決勝大会の場である為、既にその切符を手にしている決勝進出者がこの本選の決勝で本気でぶつかり合う事はまず無い。互いに手の内を探り合う、言わば模擬戦に近い決勝戦では賭けも行われない為、正直多くの人々の関心は決勝大会の組み合わせの話題に移ってはいたのだが、唯一エレナとベルナディスとの一戦は人々の強い関心を集めていた。


 忽然と現れた新星であるエレナと絶対王者として君臨するベルナディスとの対戦に、決勝大会という大きな祭りの前にしての前夜祭の様な興奮を覚え沸き立つ人々。


 大陸最強と讃えられた英雄と、オーランド王国のギルド制度において頂点に君臨し続ける両者の戦いが目前にと迫っていた。

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