第86話


 先程までとは違う荒々しい闘気を纏ったヴォルフガングは、まだ意識が虚ろなのだろう、無防備な姿を晒しながらもやっと立っている様子のシェルンに容赦の無い斬撃を繰り出す。


 ヴォルフガングの全身の筋肉が収縮し軋みを上げて放たれた剛剣は、シェルンの無防備な首筋へと奔り――――空を斬る。


 シェルンは緩やかに身体を反らす事でその剛剣を避ける。

 弛緩した身体、まったく全身に力が入らぬ様子のシェルン……よろめいた様にヴォルフガングの大剣を避けたシェルンの動きを、誰もが偶然の産物であると、幸運に恵まれた二度とは起こり得ぬ奇跡であると、そう感じていただろう。

 だが次々に繰り出されるヴォルフガングの大剣を、シェルンは悉くかわしていく。そうしたシェルンの姿は、エレナが見せる舞い踊る様な華麗な美しさなどとは違い、例えるならば強風の中を翻弄され漂う木の葉の一枚が如く虚ろげな姿であった。


 故にいつまでもシェルンを捉えられぬヴォルフガングの姿に、目の前で繰り広げられている光景に、観客席からざわざわとざわめきが起き始める。


 力が入らないのであろうシェルンは、右手に持つエクルートナを床に引き摺りながら、ただ燃える様な瞳でヴォルフガングの瞳のみを映し出す。

 シェルンはヴォルフガングの動きも繰り出される大剣の軌道すら見てはいない。


 シェルンが己の身を任せているのは本能的な直感。


 ヴォルフガングから放たれている気配を感じ、そして感じる感覚のままにその身を委ねていた。それはエレナの軌道を読みきる技術とはまさに対極に位置する技術……いや、それはエレナが持ち合わせないシェルンやフェリクスの様な一部の者のみに与えられた贈物(ギフト)と称すべきであろうか。


 今シェルンが発揮しているのは技術と呼ぶべきものでは無い。危険予知……人間が持つ第六感と言われる感覚の一つの帰結……発露の形であったのだから。


 額が割られそこから流れ出す血の脈動が心臓の鼓動と同調しているのをシェルンは感じ取っていた。額の傷だけでは無い……床に叩きつけられた時の衝撃で胸骨が何本が折れているのだろう、絶える事の無い突き刺さる様な激しい激痛にシェルンは苛まれていた。


 幸い折れた骨は内臓に刺さるような最悪の事態は免れている様だが、このまま動き続ければいつ致命的な状況に陥っても不思議では無い程の傷をシェルンは負っている。


 本来ならのたうち回る程の激痛の中、シェルンを支えていたのは怒り……だがそれはヴォルフガングに向けられたものでも、ましてエレナに対しての物でもない。

 自分に対する激しい怒りが、気力となり肉体を襲う痛みを凌駕させていた。


 エレナは……普段は何処か抜けた一面すら見せる愛らしい少女は、だが決して闘いの場において判断を誤った事は無い。そのエレナがどういう経緯からにしろ自分の勝利を信じてくれたのだ。


 その信頼を裏切る事が何よりも許せない、我慢がならない、だからこそ負ける訳にはいかないのだ。


 以前エレナはヴォルフガングにはまだ自分は及ばないと告げた。


 それから七ヶ月余り、修練を重ね、研鑽し、そして南方での戦いを生き抜き経験も積んで来た。エレナはそんな自分の成長を認めてくれたと言うのに、自分は今その信頼を自分の手で裏切ろうとしている。


 負けるのはいい……だが彼女に失望されるのだけは耐えられない。


 シェルンは渦巻く怒りの感情にその身を委ねる。そうしなければ肉体が耐えられない、その事をシェルンは本能的に察していたからだ。

 シェルンは渦巻く怒りの感情すら力に変える様に、訪れるかすら判らない刹那の機会を伺う。


 ヴォルフガングの斬撃は、速度や間隔、そして多彩な軌道を描く事で恐ろしく避け難い連撃となっている。シェルンは自分の感じる感覚のみを信じ、その剣戟の中に身を投じる。


 一転して自分の懐にと飛び込むシェルンにヴォルフガングは巧みに大剣を切り返し、上段から叩き潰す様にシェルンの頭部へと大剣を振り下ろす。

 避けねば間違い無く致命傷となるヴォルフガングの大剣の軌道を前に、だがシェルンは回避動作を取らず左手に残る全ての力を込めてエクルートナを撃ち抜く様に奔らせる。


 到達速度はヴォルフガングの大剣の方が早い。だがシェルンの玉砕を覚悟した様な捨て身の突きは、例えシェルンの頭部を砕き即死させたとしても止まらぬ勢いで放たれている。

 自分の心臓を違わず狙い来るエクルートナの刃先にヴォルフガングは舌打ちし上体を横へと反らす。ヴォルフガングにしてみれば相打ちで命を落とすなど割に合わないからだ。

 エクルートナを避ける為に無理な態勢を強いられたヴォルフガングの大剣が速度を落とした瞬間、シェルンは身体を瞬時に反転させ急制動が掛かったエクルートナの刀身が半円を描き、真横にとその軌道を変える。

 速度とエクルートナの重量……直進するその大きな力の流れを真横へと変化させた事によって、莫大な負荷が掛かったシェルンの左腕からミシミシと何かが千切れる様な音が漏れる。


 「小僧――――!!」


 シェルンとヴォルフガングの瞳が真近で激突し、刹那――――エクルートナの鉤状の刀身がヴォルフガングの右の脇腹の肉を抉り取る様に叩き込まれた。

 ヴォルフガングの巨体がその衝撃でくの字に折れ曲がり、口から激しく吐血する。だが踏み止まったヴォルフガングの大剣は止まらず、シェルンの頭部へと振り下ろされる。

 シェルンは一瞬の逡巡すら見せず右肘を突き出し、大剣の柄へと叩き込む様に打ち上げた。

 威力が殺がれていたとは言え、大剣の柄へと激突したシェルンの右腕は衝撃音と共に砕け、反対方向へと折れ曲がり――――軌道が反れたヴォルフガングの大剣がシェルンの傍らの床を砕く。


 時が止まった様に動かぬ両者――――静寂が舞台を包み込む。


 やがてゆっくりとヴォルフガングの上体が揺らぎ、仰向けにその巨体を舞台の床へと沈ませる。それを見届けたシェルンもまた力尽きた様にその場に倒れ込む。


 慌てて舞台へと駆け寄る立会いの職員がシェルンの勝利を告げる前に、エレナは席を飛び出す様に駆け出していた。

 大歓声に沸く観客席を走り抜け、一階の選手専用の控え室へと続く通路にと向かう。

 通路は一般の人間の立ち入りを禁じていた為、エレナは数人の警備の兵士に入口で止められるが、関係者である事と名を告げただけであっさりと通る事が出来た。

 名前を語った偽者の可能性は、エレナの容姿を見れば直ぐに本物であると判断出来る程に、エレナの名とその美しい容姿の噂は兵士たちの間でも有名になっていたのだ。


 通路の先、担架に乗せられ職員たちに運ばれるシェルンの姿を見つけエレナは駆け寄る。

 応急の措置であろうか、担架に寝かされたシェルンの頭部には出血を止める為に幾重にも布が巻かれ、その両腕は添え木をされ固定されている。

 意識を失っているのであろう、シェルンはエレナが近づいても何の反応も示さない。


 「シェルンは大丈夫ですか!!」


 エレナは担架の横に立つ医師らしき男を見る。


 「心配は要らない、重症なのは間違いないが致命傷になる程の深手は避けられている、この子は本当に運がいい」


 医師の男はエレナを安心させる様に頷いて見せる。


 「そうですか……後はお願いします」


 医者の男の言葉にほっと胸を撫で下ろし、安心した様に小さく息をつくエレナ。

 心配ではあるが此処で引き止めていては治療の遅れを招く事になる為、エレナは頭を下げて医務室へと運ばれていくシェルンの姿を見送った。


 「たくっ……無茶な小僧だぜ」


 エレナの背後から野太い男の声が掛けられ……振り返ったエレナの瞳にヴォルフガングの姿が映る。


 「シェルンに勝ちを譲ってくれたんですか」


 最後のシェルンの一撃……それが致命傷に至っていない事はエレナも気づいていた。そしてヴォルフガング程の者が深手とはいえ、覚悟の上で受けた一撃で意識を刈り取られたという事に違和感を感じていたのだ。


 「ふんっ、冗談言うな、本当に意識が一瞬飛んじまっただけだ、恥ずかしいから人に話すんじゃねえぞ」


 上着を脇腹に巻き付け止血するヴォルフガングの傷も決して浅いものではない筈である……吐血した所を見ると折れた骨が臓器を傷つけている恐れもあるのだ。

 だがヴォルフガングは駆けつけた医者の手を払いのけ、酒でも飲んでりゃ治る、と誰の手も借りず一人自分の足で此処まで歩いて来ていたのだ。


 エレナはそんなヴォルフガングの姿にらしいな、と呆れる反面、そうした男の意地を好ましく、そして誇り高いとすら感じていた。


 「酒で傷が治るなら今度朝まで付き合ってもいいよ」


 エレナに背を向け通路を歩き去るヴォルフガングにエレナは声を掛ける。


 「そりゃ光栄だね、だがよ、俺の前で酔い潰れたら後の事は保障しねえぞ」


 エレナに背を向けて歩くヴォルフガングの表情は伺えない、だが軽い調子で右手を振るその姿にエレナの表情が緩む。


 ヴォルフガングの姿が通路の奥へと消え、エレナもまたレティシアたちにシェルンの無事を伝える為に医務室へと向かうのであった。



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