第85話

 シェルンは自身の前に立つ大男の巨躯を見つめる。

 野太い眉、はっきりとした目鼻立ち、ヴォルフガングはシェルンの様な整った端整な容姿とは言い難かったが、野生的で強い光を帯びた瞳が印象的な精悍な顔立ちをしている。

 その鍛え上げられた体躯も、胸当てと手甲のみと言う軽装から覗く全身に無数に奔る刀傷も、ヴォルフガングがこれまで駆けて来た戦場の、数多の死線を越えて来た者だけが持つ独特の雰囲気……威風とでも呼ぶべき圧力をシェルンはヴォルフガングから感じていた。それは今だシェルンが持ち得ぬものであり、エレナとの手合わせで感じて来たのと同種の威圧感をシェルンに与えていた。


 シェルンにとってヴォルフガングは自身の成長を測る最も明確な道標であり、越えねばならぬ最初の壁であった。今だ十六歳と言う若輩者の自分が、ヴォルフガングの様な歴戦の傭兵に対して抱くには余りにも不遜な思い。

 だが同い年となった少女が……エレナが遥かな先へと進むのを、ただ指を咥えて見ている訳にはいかない。目の前の壁がいくら高かろうが、それを超えて自分も前に進まねば為らないのだ。


 立会いのギルド職員が舞台を離れ、開始の合図が響く。


 その合図と共にシェルンは一気にヴォルフガングとの距離を詰める。

 体格差はあれどシェルンの愛剣であるエクルートナの間合いはほぼヴォルフガングと変わらない。ならば初手からの連撃で攻勢を掛け、先手を取る事で戦闘の主導権を取りに行くシェルン。


 完璧な速度とタイミングでヴォルフガングとの間合いを詰めたシェルンのエクルートナがその両手から奔り――――瞬間、シェルンは背筋に奔る悪寒に咄嗟に上体を反らす。

 ヴォルフガングから放たれた大剣の白刃が一瞬遅れてシェルンの胸部を掠める様に通過する。だがヴォルフガングの大剣はそのまま刃先を横に反すと、流れる様に今度はシェルンを横に薙ぎ払う。


 「ぐっ――――」


 シェルンは間一髪の差で返したエクルートナの刀身の半ばでそれを受け止めるが、およそ力を込められぬであろう近距離からの大剣のその予想外の圧力にそのまま弾き飛ばされる。


 舞台の上を滑る様に弾かれる身体を両足で支え何とか姿勢を維持するシェルン。

 胸元に奔る鈍い痛みに僅かに目を向けると、鋼の胸当てが大きく削り取られ、そこから僅かに血が滲んでいた。幸い傷自体は深くは無い……だが……。


 「あれを避けるとはなかなか成長したじゃねえか、小僧」


 感心したような表情でシェルンを見下ろすヴォルフガング。

 だが言葉の節々からは自分が上位者である事の自負と自信がまざまざと感じ取れ、自分を見下す様なヴォルフガングの姿にシェルンは唇を噛み締める。


 「舐めるな!!」


 シェルンは床を蹴り上げヴォルフガングへと駆ける。

 床を削りながら斬り上げられたエクルートナとヴォルフガングの大剣の軌道が重なり、金属同士がぶつかり合う轟音と共に激しい火花が散る。

 流れる様な斬り返しからのシェルンの斬撃をヴォルフガングが受け止めていく。

 重量を持つ大剣同士のぶつかり合いは圧巻の一言であり、観客たちは息を飲んでその攻防を見つめていた。


 「シェルン……」


 ヴォルフガングとシェルンの激しい打ち合いを目の当たりにして、エレナは眉を顰める。

 息を付けぬ程の攻防。伯仲する両者の実力――――だが。


 「シェルン・メルヴィス。軍神リュミクスの再来と称される若き天才ね……噂なんてあてにならないもんだねえ……」


 フィーゴの声音からは明らかにシェルンに対しての失望が感じ取れた。

 エレナの目から見ても今のシェルンはいつものシェルンらしくない。だが同時にエレナはその理由に思い当たる節がある。

 それはヴォルフガングとの圧倒的な経験の差。

 シェルンは自分と同格の実力を持つ相手との戦い方を……傭兵同士の本当の戦い方を知らない。

 シェルンの動きは決して悪くは無い。いや、俊敏性や反応速度の面ではヴォルフガングを上回っているだろう。だが戦いとはエレナ自身がフェリクスとの試合で示した様に、身体能力や才能の優劣のみで決するものでは無いのだ。

 エレナはシェルンと数え切れない程剣を交えてきた。しかしエレナがシェルンに教えてきたのは基本的な技術や心構えの様な、云わば教科書通りの剣術。

 故にシェルンの剣には癖が無い。だがそれは長所でもあり短所にもなる。ヴォルフガングの様な男が相手ともなれば尚更その短所が際立ってしまう。

 例えばヴォルフガングが見せた初撃の突き。

 本来突き技など大剣には不向きな大技である。見事にシェルンの動きに合わせたヴォルフガングの技量は感嘆に値するものではあるが、あんな隙も多くリスクも高い大技などシェルン相手に何度も通用する類の技では無く悪手とすら言える一手。

 だがヴォルフガングは開幕の最も効率的なタイミングで、シェルンにそれを深く印象付ける事に成功させている。ヴォルフガングはシェルンに突き技を強く意識させる事で、シェルンの動きに無意識の制約を課していたのだ。それによりシェルンの踏み込みが僅かにだが甘い。それ故に攻勢に出ているシェルンより、受身のヴォルフガングの方に若干の余裕を与える事になり、シェルンは今だ主導権を奪えずにいる。

 シェルンは自身で気づかなくては為らない……ヴォルフガングが仕掛けているのは試合では無く死合い……規則や手段など一切介在しない傭兵同士の戦いであると。



 シェルンの額を一筋の汗が流れて落ちる。


 拭えぬ違和感にシェルンは噛み締める奥歯からぎりっと鈍い音が漏れる。

 打ち合わされるエクルートナからは確かな手応えが返ってくる。ヴォルフガング相手に力負けをしている訳では無いことはその感触からも確かである筈なのに……まるでヴォルフガングの守勢を崩すことが出来ない。

 エレナが相手の時の様に受け流されている訳では無い。互角の打ち合い……いや、寧ろ手数で押しているのにも関わらず、シェルンは知らず僅かずつではあったがヴォルフガングに押され後退していた。


 「どうした小僧、お前の力はその程度か」


 打ち合わせれる斬撃。飛び交う白刃の中、ヴォルフガングは不敵な笑みを浮かべシェルンを煽る。

 刹那、ヴォルフガングの大剣が大きく後ろに引かれ、シェルンはその大剣の動作に反応し迎え撃つ様に身を沈める。だがヴォルフガングはそのシェルンの動きを予測していたかの様に、一気にその巨躯をシェルンの懐へと滑り込ませる。

 突きの構えを見せたヴォルフガングの動作に自らの動きを合わせていたシェルンは、その予想外のヴォルフガングの動きに僅かに反応が遅れる。密接した状態からエクルートナを窮屈な姿勢のまま斬り上げるが、速度を得る前にヴォルフガングの野太い左腕の手甲がエクルートナを阻む。


 「此処は剣術のお披露目会じゃねえんだよ、覚えときな坊や」


 眼前のヴォルフガングの頭部がそのままシェルンの額を捉える。

 瞬間シェルンを凄まじい痛みと共に激しい耳鳴りが襲い、意識が途切れ掛ける。

 ぐらり、と身を傾かせ、閃光に包まれたシェルンの視界にヴォルフガングの左腕が伸び――――シェルンの髪を鷲掴みにするとそのまま床へと叩き付けた。


 顔面を床へと強打されたシェルンはそのままうつ伏せに倒れて動かず、その頭部から流れ出す血が舞台の床を濡らす。


 

 「いや……いやよ……シェルン!!」


 その惨状に観客席から身を乗り出し、シェルンの元へと駆け寄ろうとするレティシアをカタリナとエレナが抱き付く様にして止める。


 「レティシアさん、しっかりして!!」


 「レティシア、駄目です!!」


 無残なシェルンの姿を目の当たりにして錯乱するレティシアには親友の声も、愛しい少女の声すらその耳には届いていない。そんなレティシアの取り乱した様子に、エレナは悲しげに僅かに表情を曇らせ、その手刀をレティシアの首筋へと奔らせた。

 暴れていたレティシアの身体から急速に力が抜け、カタリナへと身を寄り掛からせる様に意識を失うレティシア。


 「済みませんカタリナさん、レティシアさんを医務室に連れて行ってあげて貰えますか」


 カタリナはエレナに悲しげに頷くと、レティシアを抱える様に席を後にする。

 二人が席を離れてもエレナは席を立たず舞台を見つめる。そしてそんなエレナの様子をフィーゴは声を掛けるでも無く、ただ興味深げに眺めていた。



 床に伏したまま動かぬシェルン。

 その横に立ちヴォルフガングはそんなシェルンを見下ろすように眺める。


 「加減はしてやった、運が良けりゃあ助かるだろうよ」


 だがそんなヴォルフガングの声は何処かつまらなそうに、遊び足りない子供の様な、そんな響きを帯びていた。そして何かを思いついたようにそっとシェルンへと身を寄せる様に屈み込む。


 「そうだ小僧。エレナの事は心配するなよ、これからはちゃんと俺が面倒見てやるから」


 エレナと言う言葉にピクリ、とシェルンの身体が一瞬反応を示す。


 「実はエレナと賭けをしていてな、俺が勝ったら俺に抱かれる約束なんだが、小僧お前知ってたか」


 シェルンの右手がゆっくりとだが動き握り締められる。


 「男を知らねえ生娘を抱くってのは面倒くせえがよ、エレナはどんな声で俺の胸で鳴くのかねぇ、だけど安心しな、ちゃんと壊さねえ様に可愛がってやるからよ」


 ヴォルフガングの声に反応してシェルンはゆっくりと両腕を床に付き、上体を起こして行く。

 僅かに上げたシェルンの顔面は表情を伺う事すら出来ない程に血に塗れていたが、その瞳には爛々と宿る光が見える。

 それは激しい怒り。痛みや限界すらも霞ませる程の紅蓮の炎。


 ヴォルフガングの勝利を告げる為に、舞台へと駆け寄る立会いの男をヴォルフガング自らが手で制する。

 ヴォルフガングのその行為に戸惑う立会いの男の目にゆらりと力無く、だが確かに自身の両足で立つシェルンの姿が映る。


 「そうだ小僧、守りたい何かがあるのなら力を示せ。力がねえ奴は何も得られねえ、ただ失うだけだ」


 ヴォルフガングはエクルートナを支えに立つシェルンの姿を満足そうに見つめ、そして今度こそ本気である事を示す様に、腰を落とし半身にその大剣を構えて見せた。


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