第84話


 アニエスが闘技場の舞台に姿を見せると観客席から会場を揺らさんばかりの大歓声が上がる。


 「流石に凄い人気ですね、アニエスさんは」


 「確かに……凄いね」


 周囲の喧騒に耳を塞ぐように両手を耳にと添えながら呟くカタリナに、隣に座るエレナが同意を示すように頷く。


 「エレナがこの大会に出場するまでは、唯一の女性の高位序列者ですもの、当然と言えば当然なんだけどね」


 エレナの隣に座るレティシアが補足する様に付け加える。

 フェリクスを破り華々しい登場を飾った事で、エレナも今やライズワースで名を知られる程有名には為ったが、氷の女王、銀閃の女王、幾つもの渾名で称されるアニエスの名は、オーランド王国全土に知れ渡る程の勇名でありその人気は絶大であった。

 強くそして美しく成熟した美を持つアニエスの姿は男たちのみならず、女性たちの憧れの的であり、今尚尊敬の対象となっている。そうした意味合いにおいては、まだまだライズワースでは一過性のものであるエレナの人気は、性質も成熟度もアニエスの名声には遠く及ばないと言えた。


 「でも本当に大丈夫だったのですか、一人戻って来てしまって」


 「後はセント・バジルナで荷物を受け取ってライズワースに戻るだけだから大丈夫よ、それにちゃんと話しはつけてきたから」


 言葉とは裏腹にレティシアはカタリナの問い掛けに一瞬ばつが悪そうに目線を泳がせるが、その原因を思い出し少し拗ねた様な表情を見せる。

 レティシアがこうしたまだ若い年頃の女性らしい、歳相応の仕草を見せる相手は限られており、レティシアが本当に心を許している一部の人間にしか見ることが出来ない素の表情ともいえる。


 リムたちをセント・バジルナに残し、試合観戦の為に単身ライズワースへと戻った来ていたレティシアの行動は無論褒められた行為とは言えない。しかし当初は往復三日程度の予定が、ロザリア帝国経由で届く筈の積荷が定刻通り届かず今だリムたちはセント・バジルナで足止めを受けていたのだ。

 同様に他の船も入港が遅れている状況から、恐らくは東の海の天候が思わしくない為に遅れが出ているのではないか、との予測が商人たちの間で囁かれてはいたが、情報の伝達手段が伝書鳩の様な水準にまで退化せざる得なくなった大陸の現状では、迅速な確認作業をとる事は難しい状況にあった。


 「何か問題が起きれば直ぐに知らせが来る事になっているから」


 セント・バジルナからこのライズワースまでは単騎で馬を走らせれば数時間の行程であり、ギルドの活動範囲である日中の街道であるならば、寧ろ単独の騎馬の方が安全に移動出来る環境にあるのだ。


 「試合始まるよ」


 エレナの声にレティシアとカタリナも中央の舞台へと目を向ける。

 悠然と舞台に立つアニエスとそのアニエスとの距離を慎重に取る様に間合いを測るバンドール。

 静かな両者の立ち上がり。

 だがエレナの黒い瞳は両者の実力の差をはっきりと映し出していた。

 バンドール・ガラス 序列十八位。

 此処まで勝ち残ってきたバンドールの実力は確かなもであり、その立ち振る舞いからもそれは感じ取れた。だがやはりこうしてアニエスの前に立つとその力の違いを歴然と感じさせる。

 周囲から見ればバンドールが慎重に距離を測っている様に見えるのであろうが、エレナから見ればバンドールがアニエスの間合いに踏み込むことが出来ない様にしか感じられない。

 アニエスの周囲に展開されている絶対王域は不可侵なる女王の王国。何人も侵す事が敵わないその領域にパンドールは踏み入れる事が出来ずにいるのだ。


 動かぬ試合展開に観客席からは不満の声が上がり出す。

 ざわめく周囲の状況に背中を押される形でバンドールが動く。


 だが決死の覚悟を決めたであろうそのバンドールの判断が呆気無い程の幕切れを齎す。

 アニエスの両手が僅かに動きを見せた刹那、バンドールの四肢があらぬ方向へと折れ曲がる。

 観客席に座るエレナたちと舞台とは距離がある為、その音を聞き取る事は出来なかったが、一瞬で意識を刈り取られ、本来有り得ない方向へと四肢を投げ出し床に顔を埋めるバンドールの四肢の骨が折れ曲がっている事は疑いようも無く、歴戦の傭兵であろうバンドールが意識を絶たれる程の痛みを想像し、カタリナは思わず顔を背けてしまった。

 一片の躊躇も躊躇いも無く人体を破壊出来るアニエスの冷徹で非情な在り様に、近しい存在である筈のカタリナの表情はアニエスに対しての恐怖で青ざめている。

 だがカタリナのそうした反応とはエレナもそしてレティシアもまた違う感慨を抱いていたのだが、敢えてそれを口に出す事は無かった。

 どれ程親しい関係にあろうが、傭兵と一般的な人間たちの間には価値観において大きな違いがある。それをカタリナにいくら口で説明しても本当の意味で理解する事は難しいと考えたからだ。


 「相変わらず、優しい女王様だね彼女は」


 不意に生まれたその気配にエレナは咄嗟に腰へと手を回す。

 だが帯剣が許されていない闘技場内では無論エレナも愛剣を帯刀しておらず、その手は腰の辺りで空を切る。

 その声音とは対照的に、エレナが即座に反応する程にその気配は鋭利でそして剣呑であり、それはエレナにとって極めて不快な感覚であった。

 エレナとレティシア、そしてやや遅れてカタリナが背後を振り返る。三人の目に自分たちに微笑む青年の姿が映る。

 歳の頃は二十代中盤であろうか、その整った容姿はレイリオやライエルの様な其処か穏やかな気品の様なものを感じさせてはいたが、青年が見せるその眼差しがそれらの全てをぶち壊していた。切れ長の鋭い瞳、その瞳に宿る隠し様も無き暗き光は深遠の闇を思わせる狂気を感じさせる。


 「フィーゴ・アスレイス……」


 青年、フィーゴを見つめるレティシアの声音には恐怖の色が篭る。


 フィーゴ・アスレイス ギルドランク三十二位 荒野の土竜所属 序列三位。


 アニエスと同様に王立階位を持つフィーゴ・アスセイスの名は他の序列保有者とは異質な意味合いを持って広く知れ渡っていた。

 勇名と名声。ある種英雄の様に讃えられる他の王立階位の序列者たちとは異なり、皆殺し、凶剣の異名で知られるフィーゴは、常に不穏な噂と共に語られる凶兆を現す不吉な名であった。

 生い立ちからライズワースに姿を見せるまでの経歴も全てが謎に包まれているフィーゴ。そうした意味においてはエレナとほぼ同様に剣の腕のみで此処まで上り詰めた、本来人々が好む英雄譚を体現する存在である筈の人物。

 だがフィーゴのその英雄譚は全て血に塗れたものであった。

 フィーゴがこれまで参加した闘神の宴、そして前回の剣舞の宴。その全ての対戦相手はフィーゴの手により命を絶たれていたのだ。

 護衛の依頼であろうが剣を向ける相手は全て斬り殺し、殺戮を心底楽しむかの様なフィーゴの姿に人々は賞賛では無く恐怖を、名声では無く畏怖をもってフィーゴを称した。現大会に置いてもここまでフィーゴの対戦相手は全てその手に掛かり死亡が確認されている。

 フィーゴと対戦して今だ生存しているのは、前大会でフィーゴを下したベルナディスと三位決定戦でフィーゴと死闘を繰り広げた現序列四位、ライベルク・サイクスの両名だけである。

 英雄の名を騙る死神。

 フィーゴ・アスレイスは恐怖と狂気の象徴としてライズワースの人々の胸に刻まれ、そして恐れられていた。


 「此処、いいかな」


 軽い調子でレティシアの隣へと座るフィーゴ。

 返事を待たず早々に席にと腰を下ろすフィーゴの姿にレティシアは、フィーゴから避ける様にその身を竦める。


 「心外だな……そんなに怯えなくてもいいだろうに……」


 レティシアの露骨に自分を避ける様な態度に、傷ついたという様に大仰な身振りでおどけるフィーゴ。其処だけを切り出せば明るい、屈託の無い好青年に見えなくも無い。


 「席を替わろう レティシアさん」


 「エレナ……」


 立ち上がり自分へと手を差し伸べるエレナの手を、レティシアは迷いながらも取る。

 エレナをこの男の隣に座らせる事への嫌悪感は耐えられぬものではあったが、それ以上に生理的にどうしてもレティシアはフィーゴの隣に居る事が我慢なら無かったのだ。

 レティシアと替わり隣に座るエレナの姿を見つめるフィーゴの瞳は、浮かべる笑顔とは対照的に舐める様にエレナの肢体に視線を這わせる。


 「へえ……君が噂のエレナちゃんか、なるほど……」


 一人納得する様にうんうん、と頷くフィーゴ。

 エレナはそんなフィーゴの様子を気に留める様子すら見せず会場の舞台へと目線を移す。

 エレナにとってフィーゴの様な存在は特に珍しくは無い。かつての戦場ではこうした欠落者……快楽殺人者は掃いて捨てる程見掛けてもいたし特別に珍しい存在では無かった。

 戦場という狂気の場が日常に存在し、その場に身を投じていたエレナには今や特異な存在としてしか見られる事の無いフィーゴの様な人間に対しても、格段に嫌悪や畏怖を抱く様な事は無い。ただ多少不快なだけである。


 「あんな面倒な事をするくらいなら、殺した方が楽なのにね」


 呟くフィーゴの声をエレナは無視する。

 フィーゴが言う通り、アニエスが操る鋼線は本来暗殺者が好んで扱う暗器である為、殺傷のみを目的に作られている性質上、対象を生きたまま制圧する事には不向きである事は間違い無い。

 バンドールの四肢を折ったアニエスの行為は一見非情さを感じさせるものではあったが、それは四肢を断ち切るよりも遥かに高度な技術を必要とする技であり、また綺麗に折られた骨折箇所は比較的接合が容易である為、バンドールの再起は恐らく可能であろうことが伺える。

 フィーゴはそうしたアニエスの行為が甘さであり無駄だと断じていたのだが、エレナもまたそれを完全に否定する事は出来ない。

 フェリクスとの試合でもそうだが、エレナもまた戦いの場に置いて相手の命を奪うことに一切の呵責を持ち合わせてはいないからだ。そうして意味においてフィーゴの様な存在に自分は近いのかの知れないという感慨がエレナにはある。


 圧倒的な強さで勝ち抜くアニエスの試合が終わり、いよいよシェルンとヴォルフガングとの試合が始まろうとしていた。


 「楽しみだなー……勝ち残った方が決勝で当たるかも知れないと思うとぞくぞくするね」


 フィーゴが舌舐めずりをする様に今だ両者の姿を見えぬ舞台を眺め呟く。

 フィーゴ・アスレイスは参組 二十七番。

 シェルンが勝ち残れば決勝で当たるであろう対戦相手の一人であったのだ。


 ここまで圧倒的な強さで大会を勝ち上がる王立階位を持つ序列者たち。

 各組へと振り分けられた彼らの存在はギルド会館側が意図的に仕組んだものであり、本選とは彼ら五名と、決勝大会で彼らに挑む挑戦者たる三名を選出する意味合いのものでしかないのだ。

 だからこそフェリクスを破ったエレナの快挙が異例であり、それ以外の試合において波乱は生まれていない。

 序列者の中でも別次元の強さ。故にこその王立階位(ロイヤル・ナンバー)。


 エレナとレティシア、そしてフィーゴが見つめる視線の先、その舞台にシェルンとヴォルフガングが姿を見せる。


 エレナたちが見守る中、準々決勝の第二試合が始まろうとしていた。

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