第83話


 「その……体調の方はどうなのかな、調子が悪いとか……シェルンに限ってそんな心配は要らないとは思うんだけど……」


 「そうですね、試合も近いですしそろそろ休んだ方が良いかも知れませんね」


 食事を終え、広間で寛いでいたシェルンの元に遣って来たエレナとカタリナが開口一番そんな事を言う。近頃エレナやカタリナの態度がおかしい事に流石のシェルンも気づいていた。


 エレナは最近妙に自分の事を気に懸けてくれるし、カタリナに至ってはレティシアやリムが居ない為外食で済ませ様とするシェルンの食事の心配までして、こうして自宅には帰らず泊り込みで夕食の用意をしていた程だ。


 一番シェルンを驚かせたのは、あのエレナがカタリナを手伝って料理の真似事までしてくれた事だろうか。エレナの手で作られた物体はこの際置いておくとしても、シェルンにしてみれば初めて自分の為にエレナが作ってくれた手料理が嬉しく無い筈はない。例えそれがどんな物体であったとしても……だ。


 「エレナさん、最近何かあった?」


 「な……なにも無いよ? ねえカタリナさん」


 「え……ええ、本当にまったくこの子ったら何を言い出すんでしょうね」


 笑顔を浮かべて見つめ合いながら互いに頷きあっている二人の姿に、シェルンは露骨な怪しさを感じてはいたが敢えて気づかぬ振りを続ける。


 どんな理由であれ最近エレナが自分の傍に居てくれるこの状況は、シェルンにとっては願っても無い事であったし、下手にエレナを問い詰めてこの空気を壊してしまう事の方が惜しまれたのだ。


 気づかれぬ様に自分をちらちらと盗み見るエレナの仕草にシェルンの胸の鼓動は高まり、らしくも無くちょっとした悪戯心が芽生える。


 「そう言えば最近右肩の調子が悪くて、たまに痛むんだ……」


 軽い冗談のつもりで発したシェルンの一言にエレナとカタリナの顔色が激変する。


 「カ、カタリナさん、医者を……医者を呼んで下さい!!」


 「分かりました!!」


 血相を変えて広間から駆け出しそうな勢いのカタリナをシェルンは慌てて制止すると、大した事は無い、気のせいかも知れない、とカタリナを説得しながらなんとか椅子にと座らせる。


 尚心配そうに自分を見るカタリナの姿に額に汗を浮かべながら、シェルンは自身が座る椅子へと戻り――――不意に右肩に触れる柔らかな指の感触と、鼻腔に届く甘い花の様な香りに身を震わせた。


 「筋肉が硬くなると怪我をしやすいからね、まめにほぐして上げないと」


 シェルンの背中に身を寄せて小さな指でシェルンの右肩を揉むエレナ。吐息すら届きそうな程自分に顔を近づけて無防備な横顔を晒すエレナに、シェルンは頬を真っ赤に染めて目線を逸らせてしまう。


 硬いな、などと言いながら小さな両手で必死に自分の右肩を揉むエレナの愛らしい姿に、シェルンは思わず感情に任せ抱きしめたくなる衝動に駆られるが、カタリナの手前何とかその欲求を押さえ込む。


 一方エレナの方はシェルンの葛藤など知る筈も無く、必死の表情を浮かべシェルンの肩を揉み続ける。


 今シェルンに怪我などされては堪らない。


 順調に参組を勝ち抜き、後は明日のヴォルフガングの試合の結果待ちにはなるが、順当にいけばシェルンは次の準々決勝でヴォルフガングと当たる事になる。

 四組三十二名が出揃う準々決勝からは試合間隔が空けられ体調の管理がし易いとは言え、エレナには次の自分の試合よりもシェルンの事を考えると気が気では無かった。


 シェルンには絶対にヴォルフガングに勝って貰わねば困るのだ。そうでなければ最悪の場合、夜逃げ同然にライズワースから逃げ出すか、ヴォルフガングを闇討ちするしか手段が無くなる。


 傍から見れば呆れる程馬鹿馬鹿しい話ではあったが、当事者であるエレナには真剣かつ深刻な悩みであり、最大の窮地でもあったのだ。


 とは言えこの状況が全て自分が招いた結果であり、自業自得以外のなにものでも無いのだから理不尽だと嘆く訳にもいかない。


 だからこそエレナはシェルンを勝たせる為に労を惜しむつもりは無かったし、シェルンには万全の状態で試合に挑んで貰うよう全力を尽くすつもりでいた。


 だがその思いが余りにも強すぎて、不自然かつ空回りしている事にすら気づいていない。普段そうした不器用過ぎるエレナの行動をそれとなく諌める役回りである筈のカタリナが、その当事者の一人であった事もそれに拍車をかけていた要因の一つであろう。


 「シェルン、ちょっと床にうつ伏せになってみて」


 緊張した面持ちでエレナに身を任せていたシェルンは、エレナのその言葉の意味を図りかねて思わず振り向くが、目の前にエレナの黒い瞳が迫り慌てて顔を背ける。


 「いいから早く」


 「う…うん」


 促されるがまま、素直に床にうつ伏せになるシェルンの背中にエレナは跨る様に座る。背中に感じる柔らかなエレナの身体の感触にまたシェルンの身体が緊張し硬直する。


 「やっぱり筋肉が硬い……疲れが取れてないんじゃないのかシェルン」


 心配そうにシェルンの肩から背中……そして腰へと両手を這わせ満遍なく全身を揉み出すエレナ。そのシェルンの硬直が緊張故のものである事や、自身の握力の無さなどまるで考慮に入れていないエレナは、必死になってシェルンの全身の筋肉をほぐそうと全体重を両腕にかける。


 シェルン自身はそうした原因を分かってはいたが、エレナに触れられて緊張しているからなどとは恥ずかしくて言い出せる筈も無く、なにより愛しい少女にこうして触れられているこの状況が嫌な筈も無い為、敢えてその事に言及する様な真似はしない。


 些かだらしない話ではあったが、シェルンもまだ若い思春期の少年であり、そうした葛藤や感情を責めるのは些か酷な話であろう。


 「少し……疲れが残っているのかも」


 小さく呟くシェルンの言葉に、やっぱりとエレナは一掃力を込めてシェルンの背中を揉み出す。暫くすると非力なエレナには重労働だったのだろう、呼吸が乱れ息遣いが荒くなっていく。


 シェルンは自分の背中で動くエレナの柔らかな感触と乱れた息遣いに頬どころか全身を真っ赤に染め上げ、顔を床にと密着させてしまう。

 今のシェルンには頬に伝わる床の冷たい感触が心地よく、この夢の様な時間を神に感謝しつつその瞳を閉じるのであった。



 カタリナはそんなエレナの姿を応援する様に見つめ……カタリナにしてもこれはエレナだけの問題では無かったのだ。


 ヴォルフガングとエレナの賭けの内容を報告した時のレティシアの鬼の様な形相を思い出し青ざめる。


 初めは誰にも告げずエレナと二人だけの秘密にしておこうとも考えたのだが、砂塵の大鷲との合同の依頼を前にして、ヴォルフガング経由で砂塵の大鷲の構成員からレティシアの耳にでも入ってしまった場合、レティシアの気性を考えても依頼そのものがぶち壊しになる危険性が高かった上に、なにより隠していた事を後で知られると言う事の方が恐ろしい。


 最悪の事態ともなれば、絶対にレティシアはヴォルフガングにエレナの身を渡す様な真似はしないであろうし、レティシアが暴走する前に事前に話しておいた方が得策だと考えたのだ。


 エレナと二人で謝り倒しなんとかその場は収めたとは言え、レティシアの怒りが収まった訳ではない。エレナ絡みでレティシアに冷静な対処を求めるのは無理な話であり、口約束とは言え事がギルド間同士にまたがる話である為、冗談ではなく話が拗れれば抗争にまで発展しかねない事態にも為りかねない。


 カタリナにしても例えどんな手段を講じてもエレナの身は守るつもりではあったが、やはり最善の解決策はシェルンにヴォルフガングに勝って貰う事であった。


 だからこそシェルンにはこの事を告げずにいた。


 シェルンは感情を余り表には出さない性格ではあったが、だからと言って感情に乏しい少年と言う訳ではないのだ。寧ろ内に溜め込んで最後は爆発させてしまう、ある意味激しい気性の持ち主である事を幼い頃からシェルンの事を良く知るカタリナは知っていた。


 そういう意味でこの姉弟は良く似ているのだ。


 シェルンがこの事を知れば恐らく冷静ではいられないだろう。それが良い方向に向かえばいいが、最悪本来の力を出し切れない可能性もある。

 エレナが何の勝算も無くヴォルフガングの賭けに乗った訳では無い以上、実力を出し切ればシェルンの勝機は十分にある筈なのだ。だからこそ今はシェルンの勝利を信じて出来る事をやるだけであった。

 

 

 当事者たちには深刻で悩ましいが、外から眺めれば何処か滑稽でおかしな日々が過ぎゆき、いよいよ剣舞の宴も中盤を迎え、準々決勝まで勝ち残った三十二人が出揃い、数日間の期間を空けて発表された組み合わせに人々の注目が集まる。


 四組準々決勝一回戦


 所属 双刻の月 アニエス・アヴリーヌ対バンドール・ガラス 所属 天壌の焔


 参組準々決勝一回戦


 所属 双刻の月 シェルン・メルヴィス対ヴォルフガング・バーナード 所属 砂塵の大鷲


 奇しくも順番が逆転し、エレナ以外の二名が準々決勝の初戦を飾る事となる。


 エレナにとって……いや、双刻の月の命運を担う戦いが目前へと迫っていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る