第80話
それは放たれた一本の矢。
大気が震え悲鳴を上げ、雪崩が全てを飲み込むかの如く、圧倒的な威圧感と質量を持ってエレナへと迫るフェリクス。エレナの身体を穿つ様に、撃ち抜くかの様に放たれたフェリクスの長刀をエレナは僅かに身を捻り半身でかわす。
長刀の重量からは想像もつかない程のその速度。しかしエレナはその一撃すらも完全に掌握していた。
だがエレナが体勢を整える前に、フェリクスの長刀は斬り上げる様に再度エレナを襲う。
フェリクスの返しの速さはエレナをも上回り、結果としてエレナは防戦を強いられる形となる。
反応速度の面では拮抗する両者ではあったが、身体的能力においてフェリクスはエレナを遥かに凌駕していた。
そんなフェリクスと撃ち合いに為れば、この状況は容易に予想出来たエレナではあったが、しかし敢えてフェリクスの土俵に上がる。
距離を取り戦い続けても、自身の最速の剣を防がれた以上、やがて追い込まれるのは自分の方であるからだ。全力で戦える時間に制限があるエレナにとって、それは分が悪い選択であった。
だが同時にそうした理屈を抜きにして、フェリクスと全力で撃ち合いたいと言う、エレナ自身の欲求が勝ったという側面はあったのかも知れない。
勝敗や計算すら超えてその黒き瞳には歓喜と闘争の炎が宿る。
エレナは温室に咲くたおやかな花などでは無い。嵐吹き荒れる荒野に、極寒の氷結の大地にこそ凛として美しく咲き誇る、野に咲く可憐なる華であり、フェリクスと同様、剣戟と血風吹き荒れる戦場に生を感じ輝き躍動する一個の魂なのだ。
フェリクスの猛攻に晒されるエレナ。
エレナの双剣が旋律を描く華麗なる剣撃であるのなら、フェリクスの長刀はさながら無秩序に振るわれる乱撃。その中級位危険種を一撃で絶命させるに足る殺傷力を秘めたフェリクスの長刀を、エレナは真っ向から受け止める。
繰り出されるフェリクスの長刀にエレナの双剣が奔り僅かに長刀の軌道を反らす。その修正された長刀の軌道に合わせエレナの肢体が左右に揺れる。
エレナの身体のすぐ傍を触れ合う程に接近しては流れゆく長刀の軌跡。死神が誘う、苛烈なる白刃の中、火花を散らす剣戟の狭間を、エレナは華麗なまでに舞い踊る。
防戦に終始しているエレナの姿に、フェリクスは相反する別の感覚を抱いていた。
フェリクス程の使い手ならば、本来一度変えられた長刀の軌道を再度修正する事など難しい事では無い。だがエレナの双剣によって変えられた長刀の軌道はフェリクスでも変える事は至難の業であった。
何故ならば、エレナが軌道を変える長刀を弾く打点が、フェリクスの及ぶ稼動領域のその先であるからだ。言い換えるならばエレナは自身の眼前で長刀の軌道を変えている。
だがそれは人が物理限界を超えられぬ生物である以上、物理的に不可能な芸当である筈なのだ。フェリクスの剛剣を弾く技術、それが如何に卓越した技術であろうと、直前で軌道を変えた長刀を完全にかわし切る事など、人が有する反応速度の限界を遥かに超えている。
身体的能力ではフェリクスに遥かに劣る筈のエレナが、そんな芸当を可能にしているのだとすれば、今フェリクスの前で繰り広げられているこの光景は、身体的な能力に起因する事象ではなく、フェリクスにとってこれまで副次的なものでしか無かった技術に寄るものでは無いのかと。
そう考えた時、フェリクスの胸に去来するのは未知なるものへの好奇心と、それすらも打ち砕かんとする自身の力への自負。それはこれまでフェリクスに欠けていた信念とすら呼べる感情であったかも知れない。
乱れ迫るフェリクスの長刀は、だがエレナの身体に触れる事は無い。
自身を捉える長刀の軌道と、弾いた長刀の軌道。エレナはその全てを掌握し、長刀が描く軌跡より僅かに早く体重を移動させていく。
それは最早未来視に至る極地。エレナの黒き瞳は数秒先の世界を見通し映し出す。
人の身体は物理限界を超える事は出来ない。それは例え才能に恵まれたフェリクスであろうとだ。だがエレナの研ぎ澄まされた精神は、その魂は、肉体の限界を、物理限界の壁すら超えて遥かな頂へと至る。
防戦一方に見えたエレナの右腕が刹那奔る。
乱撃の嵐の中、雷光の如く閃くアル・カラミス。
その雷撃の様なアル・カラミスの刃先がフェリクスの左頬を深く切り裂く。繰り出されるフェリクスの長刀が僅かに単調となった一瞬をエレナは見逃がさ無かった。
自身の頬から飛び散る血で視界を遮られたフェリクスの動きが一瞬鈍る。・
交差されるエレナの両腕。放たれた双剣が虚空に残滓を刻む。
フェリクスのしなやかな筋肉が軋みを上げて躍動し、長刀の刀身がアル・カラミスの刃先を防ぐ。しかし僅か……瞬き程の刹那の瞬間、死角となった左側面からのエルマリュートの軌道をフェリクスは捉え切れず、鋼鉄の長刀の柄を火花を上げて滑るその刃先がフェリクスの首筋を断ち切る。
吹き上げる血吹雪。
フェリクスの首筋から大量の血が噴出し、床を一瞬で鮮血で染め上げる。
だがフェリクスは意に介す素振りすら見せず、そのまま双剣事エレナを薙ぎ払う。
エレナは長刀の威力を殺す様に自ら跳ね、横殴りに飛ばされた身体を空中で態勢を建て直すと膝を付く事無く地に降り立つ。
フェリクスの首筋から流れ出す血の量は尋常では無く、間違い無くエルマリュートの切っ先はフェリクスの頚動脈を絶っていた。
そのフェリクスの姿に立会いの男が慌てて舞台へと駆け寄ろうとするのを、フェリクスは右腕を伸ばし制止する……が、邪魔をするな、とその身体がその意思が覇気となり、男の横槍を拒む。
エレナは地を蹴り上げフェリクスへと駆ける。
エレナの細き両の腕が真横に滑らかに広げられる。己の身体を一振りの刃と成して刻む正十字は暴風への序曲。
現すは流星。体現せしは神風。
エレナの両手から乱舞する双剣は、一切を蹂躙する暴風となってフェリクスを襲う。
一転して攻守を変えた両者の攻防に全ての者が目を奪われる。
無限の残滓を刻み、流星の如く流れる様な軌跡を描くエレナの双剣がフェリクスの四肢を刻む。極限にまでに高められた神速の乱舞はフェリクスの反応速度すら凌駕し、巻き上げる血飛沫が二人の姿すら霞ませる。
本来双剣が持つ最大の特性は左右から繰り出される絶え間無き連撃。アインスの暴風はその特性を極限まで高め昇華させた剣撃の極地。
故に、体格で劣り、膂力も体重すら無いエレナには一撃に十分な威力を乗せる事が出来ず、体現する事が適わなかった。
今エレナが見せる暴風はアインスのそれとは異なる。守勢を捨て、魂すら乗せて繰り出される神速の乱舞は刹那巻き起こす旋風。それはエレナ・ロゼの刹那の暴風である。
暴風が止んだエレナの眼前には尚もフェリクスは立ってる。首筋から、そして四肢に刻まれた無数の傷口から夥しく出血しながらも倒れる事無くエレナの前に立ち塞がる。
エレナは荒い息を吐き、双剣を支えに膝をつく。
「まさに祝福されし戦神の子か……」
数々の戦いを経験してきたエレナにしてフェリクスの底知れない才に感嘆を禁じえない。
フェリクスの四肢に刻まれた傷はどれも致命傷には至っていない。全てを断ち切るエレナの神速の乱舞をフェリクスは受けきっていたのだ。
荒い剣筋。乱雑な体裁き。フェリクスが誰の手解きをも受けず、野生の豹の様に己の資質のみでこの極地にまで至ったというならば、それはシェルンすら及ばぬ才覚であるだろう。
動かぬ両者に立会いの男が駆け寄る。そしてフェリクスを人目見て慌てて入口の方角を見る。
「意識が無い、急ぎ医者を呼べ!!」
立会いの男の身振りで異変を察し、入口から数人の男たちが姿を見せ意識を失っているフェリクスを数人で抱える様に連れ出していく。
その光景にざわつく観客席。
「勝者 エレナ・ロゼ!!」
だが次の瞬間行われた勝利宣言に寄って一転、観客席から大歓声が上がる。大方の予想を覆して勝利したエレナの姿に会場が熱狂に沸き上がる。
力が入らず震える両足に鞭打つ様にエレナは立ち上がり右手を掲げる。
勝者が無様な姿を晒す事は許されない。それは負けた敗者に対する礼儀であり、勝者が負うべき最低限の責務でもあるからだ。
エレナは大歓声の中、観客席から姿が見えなくなるまで一人で歩ききり、そして入口の死角まで来るとその場に倒れ込む。
結果だけ見ればフェリクスに触れさせる事なく勝利を収めたエレナの圧勝にも見えたかも知れない。
だがその実エレナにとってもぎりぎりの、まさに死闘であったのだ。
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