第78話
オーランド王国の国王自らが演台へと立ち、開会を宣言して執り行なわれた盛大な開会式を終え、今だ興奮が冷めやまぬ中、先陣を切り剣舞の宴の壱組の試合が此処中央区の闘技場で始まろうとしていた。
先に選手の控え室へと向かったエレナと別れ、レティシアたち双刻の月の面々も全員がエレナの応援の為、闘技場へと遣って来ていた。
参組に入ったシェルン、四組に入ったアニエスも自身の試合が明日以降の為、今日はエレナの応援に駆けつけて来ている。
「皆、離れずに着いてきてね」
まるで子供たちを引率する様に皆を関係者入口へと誘導するレティシア。
だがそれも無理からぬ状況と言えた。
闘技場の収容人数は三万人を越える。だが既に事前の抽選で一般の観客席は埋まっており、闘技場の外には観戦の為に入場する人々と、当日出る僅かな欠員と開放される立ち見での入場に望みを懸けた人々の群れで、闘技場の外は足の踏み場も無い程に溢れ返っていたのだ。
参加者を出すギルドには事前にギルド会館に申請すれば、闘技場の関係者席を取る事が可能であり、レティシアも当然人数分その席を確保していた。
人混みを掻き分ける様に何とか専用の入口から闘技場へと入る事が出来たレティシアたちであったが、女性陣は皆疲れた様な表情を浮かべている。
人混みの中、男たちに身体を触られてしまう事が多く、偶然当たっているのか、それとも故意に触られているのか判断出来ない為、文句をいう事も出来ず我慢をしたまま何とか此処まで辿り着いたのだ。
リムやカタリナだけでなく、アニエスも露骨に眉を顰め不快そうな表情を浮かべている。
レティシアにして見ても、うら若い乙女たちの身体に触れるなどと、例え故意で無かったとしても一言謝罪があって然るべきであり、無言で身体を併せてくる男共の行為に憤りを感じてはいたが、早々と始まるであろうエレナの試合を前に、いつまでもそんな小事に関わってもいられなかった。
「あ、俺たち拠る所があるんで皆さんお先にどうぞ」
アルクがライエルをせっつきながらレティシアへと満面の愛想笑いを浮かべる。
「あんた達、賭け事もいいけど程々にしときなさいよ」
リムはアルクたちの意図を察し、呆れた表情を二人に向ける。
「じゃあ先に渡して置くわね、後で合流しましょう」
レティシアはギルドの関係者である事と座席の番号が記載された書面を二人へと手渡す。
レティシアから書面を受け取り、真っ先にアルクたちが向かった先は闘技場内に設置された賭札所だ。
二人は闘技場の階段を駆け上がり、五階席、闘技場の最上段に設置されている賭札所へと急ぐ。
賭札所は集計の為に早い段階で対象の試合を締め切る為、開幕戦となるエレナの試合の締め切りが目前に迫っていたのだ。
「おいおい……どうなってんだこれ……」
賭札所へと辿り着きアルクが目にしたのは壁に掛けられている賭け率を示す木の札。その賭け率に驚きの声を洩らす。
フェリクス・ナザリエル 六
エレナ・ロゼ 四
其処に示された比率は六対四。
俄かには信じられない賭け率である。
前回大会準優勝者であり、序列二位の王立階位を持つフェリクスと、実績どころか序列すら持たない無名のエレナの試合など、本来はフェリクスに賭けても同額の払い戻しになるか、そもそも賭け自体が成立せず不成立になるかのどちらかで然るべきなのだ。。だがアルクを含め大方の予想に反してフェリクスとエレナの賭け率はほぼ拮抗していた。
「恐らく、あれが理由なんじゃないかな」
唖然とするアルクにライエルは視線を送り、観客席へとアルクの目線を誘導する。
二人の視界の先には満員の観客席。そして左翼席を埋め尽くす人々が振る旗に目線がいく。観客席から振られるその旗に刻まれるのは、三又の矛と盾。
「ファーレンガルト連邦の連邦旗……南部の連中か」
アルクの言う通り、闘技場の左翼席を埋め尽くす一団はファーレンガルト連邦からの来訪者の一団であった。
闘技場正面の関係者席、正面上段の貴賓席、そして右翼を占めるライズワースの住民たちとは左翼席の雰囲気はまるで違う。
純粋に闘技を楽しむ者、賭けに興じる者、目的はそれぞれ異なってもやはり右翼席は男たちで埋め尽くされている。
だが左翼席を占める三分一近くは女性であり、子供連れの姿も多く見られる。
本来血生臭い闘技場に子供などを連れて来る者などは滅多に見られず、それを踏まえて考えて見てもこの光景は甚だ異常である。
この状況を見ても分かる通り、南部から態々船を経由し、集団とは言え危険な陸路を辿ってまでライズワースにまで赴いた彼らの目的は剣舞の宴の観戦ではない。
噂を聞きつけた彼らが、危険を冒してまでライズワースまで遣って来たのは、この大会に出場する恩人でもあり、英雄でもあるエレナに声援を送る為であったのだ。
左翼席からは今だ姿が見えぬと言うのに、エレナの名と福音の風と言うエレナへの敬称が、観客席から合唱の様にアルクたちがいる右翼席の五階席にまで響いて来ていた。
「これは……ギルド会館も、王国も笑いが止まらないだろうね」
ライエルもエレナが南部の地で名が知れた存在に為っているとは話には聞いていた。だがまさかこれ程までだとは思いもよらなかった。完全にライエルの予想を超えていた。
だがギルド会館の内部にはエレナの価値を理解し、それを利用してファーレンガルト連邦からの集客を画策した者がいるのだろう。そうでなければ本来抽選である筈の左翼席が、南部からの来訪者で埋め尽くされるなど、その確率を考えても有り得ないからだ。
憶測の域は出ないが、ギルド会館側が何らかの取り決めをファーレンガルト連邦側と交わし、大々的にエレナの大会への参加を喧伝して回ったのだろう。
そう考えるのなら、この異常な賭け率にも説明が付く。
本来の賭け率はやはり一対九。
ライズワースの住民たちが、無名のエレナに賭ける等まず有り得ない話であり、まして相手はあのフェリクス・ナザリエルなのだ。
余程の物好きや大穴狙いが僅かにエレナに賭けた所で賭け率は微動だにしないだろう。
そうなれば大方の予想通り、この試合の賭けは成立しないか、エレナが勝利すると言う大番狂わせが無い限り元金の払い戻しとなる。
そうなれば限りなく確率の低いエレナの勝利でしか胴元は利益を上げられず、フェリクスが順当に勝っても微々たる利益しか得られない。まして賭けが不成立なら収益は零になるのだ。
だが現状は大きく異なる。現にエレナへの賭け率は四割にまで至り、フェリクスに迫る勢いを見せている。
つまり本当ならば、何の旨味も無い、ギルド会館側から見れば捨て試合でしかないこの一戦を、裏で画策し莫大な金が動く、金のなる木へと変えた者がいるという事だ。
もしエレナの賭け率を跳ね上げているのが、これら南部の来訪者たちであるのなら……いや、これ程の拮抗した賭け率にするには彼らだけでは無理だろう、恐らくは七都市同盟、もしくは纏まった数の南部の豪族たちの資金が流れていると考えた方が道理には適うかも知れない。
もしライエルの読みが正しければ、この試合で動く金額は莫大なものになるであろうし、その規模を考えればこの一試合だけで平均的な数試合分……正確な額はライエルには計り知れないが、例えエレナとフェリクスのどちらが勝とうが過去最高額の収益をギルド会館と王国に齎す事は間違い無い。
そして万が一にでもエレナが勝ち続ける様な事にでもなれば、その累積されていくであろう収益はライエルの想像すら出来ない額にまで積み上がっていく事になるだろう。
「アルクはどちらに賭けるんだ?」
既に賭ける相手を決めているライエルはアルクに問う。
普通に考えても、穿った見方で考え様がフェリクスの勝ちは揺るがない。だが……。
「勿論エレナに決まってんだろ、俺の手持ちの全財産を賭けるぜ」
「エレナが仲間だから?」
「な、訳ねぇだろ」
心外そうな様子でライエルを見るアルク。
「知り合いだろうが、仲間だろうが関係ねえよ、俺は勝つと思う方に賭けるだけさ、それにエレナが勝った方がこの先も色々楽しめそうだろ」
不敵な笑みを浮かべるアルクにライエルも表情を崩す。だがその表情とは裏腹に、ライエルの瞳は観察する様にアルクを見据えていた。
この男……ただの筋肉馬鹿と言う訳では無いのだろうか……。
ライエルはこのアルク・リッチオという男を今だ計りかねていた。
自分にとって利用出来る優秀な人材と、そうでは無いただの捨て駒は早急に見定めなければ為らない。
果たさねばならぬ宿願がライエルにはある。その成就の為にもこんな所で足元を掬われる訳にはいかないのだ。
「じゃあ僕もアルクに倣ってエレナに賭け様かな、僕にとっては大切な仲間だからね」
最初からこの流れに乗るつもりであった事などおくびにも出さず、わざと演技じみたおどけた姿を見せるライエル。だがそんなライエルの姿を見てもアルクは浮かべる不敵な笑みを崩そうとはしなかった。
立ち入りを厳しく制限され、周囲を厳重に警護の兵士たちが固める闘技場の貴賓室の席には、各国の錚々たる面々が連なり席についていた。
左の席からファーレンガルト連邦、七都市同盟の二人の執政官。ラグス・バラッシュとマルーク・エルメリオが並んで座り、数席空けてロザリア帝国の若き第二王子クレイヴ・バルタ・ローディスが肘掛に肘を付き優雅に座している。
そのクレイヴの背後には特別に帯剣を許された護衛の騎士、壮年の老騎士ヘクター・ハーヴェルと銀髪の女騎士オリヴィエ・ハーヴェルが控える様に立つ。
「ラグス殿、エレナ殿には本当に会われぬおつもりなのですかな?」
広い貴賓室とは言え隣に座る他国の王子を気にしてか、マルークがそっとラグスの耳元へと顔を寄せ囁く様に呟く。
「ええ、エレナ殿と次に会うのは戦場でと、そう約束を交わしましたから、今回はエレナ殿を影ながら応援する事に徹しさせて頂きますよ」
今はまだラグスはエレナとは会う訳にはいかなかった。
交わした約束を果たす為、アドラトルテを取り戻す為、ラグスは今此処にいるのだから。それを果たすまでエレナにあわせる顔などありはしないのだ。
ラグスたちが遥々このライズワースにまで赴いたのは、剣舞の宴の開催期間中、各国の代表たちと話し合われる事が決まっている四大国連合軍による、第二次遠征軍の詰めの協議の為であった。各国代表にとって剣舞の宴の観戦は副次的な目的でしかない。
一般の人々にはまだ秘匿されている重大な案件の為、こうした回りくどい体裁を整えねば為らなかったのだ。
既にファルーテ王国のベルチとビエナート王国の外務大臣であるオーギュストは、それぞれ王宮においてオーランド王国側と個別の調整に入っていた。二人がこの場に居ないのはそうした事情に寄るものだ。
「お久しぶりですね、ハーヴェル卿、ご壮健で何よりですわ」
貴賓室に居る最後の一人。
その絶世と呼べる程の美女が艶やかにヘクターへと微笑む。
その美女の名はエリーゼ・アウストリア。
稀代の魔法士にして賢者の名を戴く者の名であった。
「魔女め……」
オリヴィエは激しい憎しみと怒りをその瞳に湛え、感情を剥き出しにしてエリーゼを睨みつける。
そんなオリヴィエを制する素振りすら見せず、クレイヴは三人の様子を楽しげに眺めている。
「これはエリーゼ殿、まことにお久しいですな、一年半……いや二年ぶりになりますかな」
「そうですわね、時が過ぎるのは早いものですわ アンリ殿は本当にお気の毒でした」
そのエリーゼの言葉に逆上したオリヴィエの手が腰の剣へと掛かる。
「空々しい事を言うな、この売女め!! アインス兄様とアンリ兄様を見殺しにして、一人おめおめと逃げ帰った貴様がそれを口にするのか!!」
「止めぬかオリヴィエ!! 殿下の御前であるのだぞ」
ヘクターに一喝されオリヴィエは辛うじて思い留まる。
ヘクターの言う通り主であるクレイヴの許可無く剣を抜く事など騎士として許されない。まして同じ来賓であるエリーゼに剣など向けてはクレイヴの顔に泥を塗る事になる。騎士としての矜持が辛うじてオリヴィエの激情を押さえ込む。
「孫娘が失礼しましたな、エリーゼ殿」
「良いのです、ハーヴェル卿。今だ悲しみが癒えぬのでしょう、あらぬ誤解とは言えそれで彼女の傷が癒されるのなら、わたくしへの中傷も甘んじてお受けいたしましょう」
オリヴィエの激昂などまるで気に留めた様子すら見せず、優美に微笑むエリーゼの姿に、瞬き程の刹那ヘクターの身体が震える。
「時にエりーゼ殿、貴方は覚えておられぬかも知れませぬが、貴方と初めてお会いしたのは、確かもう十五年は前に遡る昔の事で御座います。当時からまるで変わらぬその美しきお姿。どの様に歳を重ねればその様に面の皮が厚い、傲岸な言葉がすらすらと吐ける様になるのか、このご老体にもご教授願えますかな」
慇懃な姿勢を崩さぬまま紡がれた、ヘクターの痛烈なまでの皮肉の言葉に、エリーゼは細い美しい右手を唇に当てて驚いた様な仕草を見せる。
「どうやらわたくし、暫く人里を離れていたせいでしょうか、場の空気と言うものを読めなく為っていたようです。皆様にはご迷惑をお掛けしまして大変失礼致しました。わたくしは場所を変えて観戦させて頂く事にします」
少し悲しげに表情を曇らせ、僅かに潤んだ瞳で一同へと会釈し、まるで淑女の見本の様な雅な所作を見せて踵を返すエリーゼ。
「またね、ハーヴェル坊や」
だがエリーゼはすれ違い様、ヘクターの耳元へと囁く様に呟く。
誰もが魅了され、傅きたくなる様な男の芯を蕩けさす妖しい微笑みを浮かべ、ヘクターへと流し目を送るエレーゼ。
そんなエレーゼに視線すら合わせる事無く見送るヘクター。
エリーゼが貴賓室から姿を消すと、ヘクターはクレイヴの下へと赴き恭しく頭を下げた。
「お見苦しい醜態をお見せして申し訳御座いません、殿下」
「確かにらしく無い姿ではあったな、そなたもはやり人の親と言う事か、ヘクター」
「真に遺憾ながら、歳を重ねただけの未熟者で御座います」
「構わぬ、許す。時間潰しには良い余興であった」
クレイヴが視線をヘクターから闘技場へと戻すと同時に、楽団が奏でる勇壮な楽曲が闘技場全体へと響き渡る。
そして闘技場中央部の東西の門が開かれ、それぞれの門からエレナとフェリクスが姿を見せる。
二人の姿に闘技場は割れんばかりの大歓声に包まれる。
「あれが噂の……」
クレイヴは闘技場の中央へと向かうエレナの姿を、目を細め興味深げに眺めるのであった。
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