第75話

 双刻の月において食事を皆で取ると言う行為は最早習慣となっていた。

 元々そうした決まり事があった訳では無かったのだが、エレナがこの双刻の月を訪れてから始まったこの習慣は、アニエスの加入からリムたち三人が加わった現在に至るまで今尚続いている。


 とは言えそれはリムたちにとっても有り難い話ではあったのだ。


 双刻の月は南の区画でも都市部からは少し離れた、立地的に言えば不便な場所に建てられている為、朝の簡単な食事を買い置きの軽食で済ませる程度なら兎も角、昼や夜の食事の度に態々食堂や酒場がある都市部の繁華街にまで出向くのは骨であり、まだ手持ちや俸給も少なく、若く食べ盛りな彼らのそうした日々の食費に掛かる出費は、やはり馬鹿に為らない比重を占めていたからだ。


 リムたちが来てからは皆の食事の支度などはレティシアとリムが分担して行っていたのだが、ギルドマスターであるレティシアには時間が取れない場合もあり、概ねリムがその大任を担う場合が多かった。


 以前であればカタリナも手伝いや手料理を作ったりと、何かと積極的に協力していたのだが、今の双刻の月は以前とは違い交渉事やそれに伴う多くの雑務が増えた為、カタリナがギルドを留守にする事も多く、今のカタリナはレティシア以上に忙しい身であり、なかなか時間が取れなく為っていたのだ。


 残りの女性陣であるアニエスに至っては、双刻の月に来て以来一度も厨房に立つ姿を見たことが無かったという、彼女の行動から大方は察しはつくとはいえ、ギルド最年長であり、何より女性の身でありながら序列五位という王立階位を持つアニエスは、リムのみならずレティシアにとっても憧れの対象であり、雑事に関して協力を求める者も、またそれを望む者もいなかった。


 そうした女性陣の中でやはり問題になるのがエレナの存在である。


 精神的な年齢でいえば最年長であるとは言え、見た目もそして年齢も十六歳と偽っているエレナは、双刻の月の中ではシェルンと並び最年少組である。


 そしてギルドと言う構造が実力の世界である以上、序列を持たないエレナが手間の掛かる雑務などを担当するのは、普通のギルドでは至極当然の事であり、仮に双刻の月が他のギルドと違い独自の方向性を示すというのなら、それはやはり新たに加わったリムたち三人にはギルドマスターであるレティシアが最初に説明しなければならない重要な事柄であったのだ。


 そうした説明が無い以上、炊事等の基本的な雑務にエレナが参加せず、それを当たり前に許容しているレティシアたちの姿に、リムたちが一般的なギルドの慣習からは外れた存在であるエレナに対して奇異な眼差しを向けてしまうのは無理からぬ事であったろう。


 エレナにしてもその殺人的な料理の腕は別としても、レティシアや周囲からは何も言われずとも、新しく人が増え、変わり行くギルドの中で、日常の細かい機微に対してもう少し気を配るべきであり、少なくとも多感な年頃の同世代の女性であるリムに対しては何らかの配慮や歩み寄りは必要であったであろうし、またそうした事に思い至らないと言う事が、己の半生を戦場と闘争の中で生きて来たエレナには直ぐには馴染む事が適わない欠落した部分であったのは否めなかった。



 リムは午後の教練を終えると、早々に夕食の支度に掛かっていた。

 普段は八人分の料理を一人で作っていたのだが、今日はカタリナがギルドの会合に参加して帰りが遅く、それに同伴しているアニエスもいない為六人分で済んでいる。


 とは言っても、八人分も六人分も正直掛かる手間はそう変わらない。


 最も前のギルドでは数十人分の料理を作らされていた事を考えれば苦になる量ではない上に、何より今は自分の手料理を毎日シェルンに振舞えるのと言う気持ちの問題が以前とは大きく異なる。


 やらされているか望んでやるのか。


 それはやはり重要な事であり、リム自身も今は楽しみの一つとして主にシェルンに、そして皆に料理を振舞っていたと言える。


 リムが食事を作る様になり、これまでまちまちであった食事の時間は、ある程度毎日一定の時刻に落ち着く様になり、その時刻が近づくと皆は声を掛ける前に食堂へと集まる様になっていた。


 最初に食堂に顔を出すのは、ほぼ毎回一番乗りであるアルクであり、待ちきれぬ様子で早々と席にと着く。


 次にライエル、シェルンと続き、そして書類の整理を終えたレティシアが食堂へと姿を見せた。

 リムは出来上がった料理をテーブルに並べながら、皆が座る席順を見て僅かに表情を曇らせる……だが、こうした席の席順はおおよそ決まっているのは当然であり、特におかしな事では無い。


 双刻の月、そして今の状況でいうならば、テーブルの向かって上座にギルドマスターであるレティシアが座り、空席を挟んでシェルンが座っている。

 そしてレティシアの向かいの席には本来カタリナが座り、その隣にアニエス、そしてシェルンの向かいの席にリムが座りその隣にアルク、ライエルと続く。

 今日はカタリナとアニエスが不在の為、リムたちが座る側の前から二席は空席となっていた。


 料理の数々が出揃いテーブルを色鮮やかに彩る。


 食べ盛りの若者が多い事とリム自身が大家族であった事もあって、リムの料理もどちらかと言えば質より量を重視した比較的濃い、男性向きな味付けを好む傾向にあった。

 並べられている料理の数々も個人一人一人では無く、各々が好きなだけ食べられる様に切り分けて食べられる料理が中心である。


 リムが料理を並べ終えた頃合を見計らった訳ではないのだろうが、皆に遅れてエレナも食堂へと姿を見せる。


 同性のそれもエレナと歳の近いリムから見ても、その黒髪の少女は美しかった。


 リムが夢想した物語に登場する憧れの騎士たちに、忠誠と永遠の愛を誓われる純潔の乙女や穢れ無き麗しの姫君たち……本来現実には存在しない筈の、リムの空想の中にしか有り得ない、エレナ・ロゼとはそんなリムの想像を体現したかの様な美しい少女であった。


 初めて会った時は目を疑った、こうして生活を共にする様になってもエレナを見掛ける度に溜息が出てしまう。


 だがリムはエレナに出会い初めて知る事になる。


 美しき乙女たちは物語の中で語られるからこそ、淡い憧れや理想の存在として在り続けられるのだ、と。


 それが現実の存在として目の前に現れた時、胸に抱くのは純粋な憧れでは無く、エレナに比べ容姿が劣る自分への劣等感と、自身の存在を肯定する為に生まれる対抗心……そしてそれらに起因する激しい嫉妬心であった。


 エレナを見る度に感じてしまう負の感情を、リム自身恥ずべき事だとは分かってはいても、湧き上がってくる黒い感情を自分自身どうしても抑える事が出来ず持て余してしまう。


 純粋で真っ直ぐな少女であるリムには初めて抱くその醜い感情も、それが元でエレナを嫌ってしまいそうな自分の矮小さも堪らなく許せず、だからこそ……それが苦しかった。


 エレナは迷わず空いている席に、レティシアとシェルンの間の席へと腰を下ろす。


 決められた席順。エレナの居場所。


 隣の席でエレナへと笑いかけるシェルンの姿がある……自分には決して見せることの無いシェルンの素顔が其処にはあった。


 リムは曇る自らの表情を隠す様に僅かに俯きながら自分の席へとつく。

 そんなリムの姿に隣に座るアルクはやれやれ、といった表情を見せ、ライエルは心配そうな視線をリムへと送る。


 「それじゃあ、皆も揃った事だし食事にしましょう」


 レティシアは一度全員を見回し、簡単な祈りの言葉を呟く。


 それはいつもの変わらぬ食事の風景。


 アルクは一心不乱にテーブルに置かれた皿に手を伸ばし、それを呆れた様子で眺めるライエル。黙々とただ食事を取り続けるシェルン、そして自分の食事よりエレナの料理を取り分ける事に夢中になるレティシア……レティシアが取り分けた野菜中心の皿に、苦笑を浮かべつつ野菜を突くエレナ。


 リムがこの三ヶ月近く見慣れた食事風景である。


 「エレナも時間があるのなら食事の支度を当番制にしない?」


 リム自身、何故そんな言葉を発してしまったのか分からなかった。


 何故ならリムは強制されて料理を作っていた訳ではなかったし、寧ろそれを楽しんでもいた。だからこそ、それは知らずリムが欲していたエレナより勝っている部分、それが欲しいという少女の小さな願望の表れであったのかも知れない。


 「ご免なさいリム、私は料理が得意じゃないから……でもリムが大変なら片付けくらいなら私が……」


 「でもエレナは女の子なのだし、この先料理もまともに作れないと言うのは問題じゃないかしら、良かったら私が教えてあげるわよ、最初は私と一緒でもいいのだし」


 「あ……いや、あの……今はまだそういうのはいいかな……」


 流石に興味が無いとはリムの手前言える筈も無く、エレナは口篭ってしまう。


 「そう……やっぱりエレナは私なんかとは違うんだね……」


 「リム?」


 リムが何を言いたいのか分からず、エレナは思わずリムを見返してしまう。其処にはエレナを見つめる真摯なリムの瞳があり、そしてその唇にはリムらしくない自虐的な笑みが浮かんでいる。


 「料理なんて覚えなくてもエレナならきっと裕福な家に嫁いで、何不自由無い暮らしが出来るものね、だってエレナは綺麗で可愛いもの、男に媚びるだけで何でも手に入るなんて本当……羨ましいわ」


 そんな事を言うつもりなど無かった……だが如何しても感情の赴くまま一度紡いでしまった言葉をリムは止められ無かった。

 そんなリムの肩にアルクの手が置かれ、更に言葉を重ねようとするリムを諌める。黙ってリムに対し首を横に振るアルクの行為は、これ以上は止めておけ、と暗にリムに告げていた。


 沈黙が食堂全体を包み、その場の空気が張り詰める中、当事者であるエレナよりその両隣に座る二人の顔色が明らかに変わっている。


 当初リムの言葉に、エレナに料理を教えている自分の姿とその光景を想像し、それも悪くないなどと考えていたレティシアであったが、次の瞬間にはその表情は一変する。


 例え相手が誰であろうと、レティシアがエレナに向けられる害意を見逃す事など有り得ない。そしてエレナへの侮蔑はレティシアの逆鱗に触れる行いである事は言うまでも無い。


 「リム、それ以上ギルドの仲間に対する侮辱は許しません。貴方が不満を感じていると言うのなら私にこそ言いなさい。明日からは食事を作る必要はありませんよ……これからは専門の人間を雇う事とします。いいですね」


 レティシアの厳しい叱責にリムは言葉を失う。


 そんなつもりでは、といい掛けたリムはレティシアの鋭い眼差しに圧倒され、救いを求める様に無意識にシェルンの姿を求め瞳を彷徨わせる。


 だが自分を見つめるシェルンの眼差しに宿るのは明確な怒り。


 その怒りがエレナに向けられる事など有り得ない以上、その対象は……。


 それに気づいた時リムは立ち上がり駆け出していた。夢中で食堂を逃げ出す様に後にしたリムは中庭を走る。


 やってしまった……。


 千々に乱れる思考の中、リムを襲うのは後悔の念。


 行く宛てなど無い、だがもう此処にはいられない……そんな絶望的な思いのままただ走るリム……だがそんなリムの背中から柔らかな腕の感触が伝わり、振り返ったリムの瞳に自分を後ろから抱きしめる黒髪の少女の姿が映る。

 自分を追って来たエレナの姿を見た瞬間、力が抜けた様にその場にリムは座り込んでしまった。


 放心したようなリムの身体をエレナは優しく抱きしめる。


 「ごめん……本当にごめんね……リム」


 耳元で聞こえるエレナの声に、リムの押さえて来た感情が溢れ出す。


 「ずるい、ずるい、ずるい、ずるい、ずるい、ずるい……エレナはずるいよ!!」


 涙を流し、エレナの小さな胸を力無く叩くリム。


 「私はシェルンが好き!!大好きなのに……皆、エレナしか見ない……それは貴方が綺麗だから、だけどそれはそう生まれたってだけじゃない!! 私だってエレナ見たいに美しく生まれたかったよ!!」


 「ごめん……ごめんね……」


 「貴方が妬ましい……羨ましいの……私はそんな浅ましくて最低な女なんだよ!!」


 エレナはそんなリムを強く抱きしめる。


 「気づいてあげられなくてごめん……分かってあげられなくてごめん……」


 エレナはただ謝る事しか出来ずにいた。


 エレナにはリムが抱く女性特有であろう悩みも葛藤も分からない……分からないが、リムを此処まで苦しめて、追い込んでしまった原因が自分であるのなら、それはやはり自分が全面的に悪いのであろう。

 女性を此処まで悲しませてしまった責任は、他人の気持ちを察する事すら出来ない未熟な自分にあるのだと。


 だからエレナはリムに対して謝り続ける事しか出来なかった。


 エレナの胸でリムは子供の様に泣き続け、エレナもそんなリムに謝り続ける。

 そんな光景がやがてリムの様子を伺いに来たアルクとライエルの二人が、エレナたちの下を訪れるまで続いていた。



 「悪かったなエレナ、今回はリムが一方的に悪い。虫のいい話だとは思うがリムの事、許してやってくれないか」


 「許すも何も、許して欲しいのは私の方だから……」


 エレナの言葉にライエルはほっと胸を撫で下ろし、アルクは満面の笑みを浮かべる。


 「そっか、じゃあこれで手打ちってことでお終いな、リムもほら」


 アルクに促され立ち上がるリム。


 「ごめんね、エレナ」


 擦れる声で呟くリムにエレナは黙って頷く。


 「レティシアさんにもちゃんと謝りに行こう。僕たちも付き合うからさ」


 ライエルの言葉にリムは泣き腫らし真っ赤に染まった瞳をアルクたちに向け頷く。リムたち三人が建物の方へと向かうのをエレナは芝生に座り込んだまま見送っていた。


 三人の姿が建物の中へと消えてゆくのを見届け、立ち上がろうとしたエレナは背後から近づく気配に気づき振り返る。


 其処にはシェルンの姿があった。


 エレナたちの様子を伺っていたと言う風には見えない。シェルンもまた二人を心配して様子を見に来たのであろう。


 「シェルンもリムを責めないでやってくれ、悪いのは私の方だから……」


 「エレナさんがそういうなら」


 シェルンの言葉にエレナはほっと胸を撫で下ろす。


 リムはシェルンの事が好きなのだ。そのシェルンに嫌われでもしたらリムは今以上に傷ついてしまう。その最悪な事態はどうやら回避出来そうな状況にエレナはほっと小さく吐息を洩らす。


 「エレナさん、目を瞑って」


 不意に掛けられたシェルンの言葉に顔を上げるエレナ。その眼前にシェルンの顔が迫る。


 「うわっ!!」


 僅かに顔を反らせたエレナの頬にシェルンの唇が触れる。


 「なっ!!なななっ……」


 エレナが避けなければ確実に唇同士が触れ合っていたであろう、シェルンのこの突飛な行為に思わずシェルンを凝視してしまうエレナ。


 「リムだけじゃない、僕の事もずっと避けてた仕返し……かな、これで許してあげる」


 照れているのだろうか、耳朶まで真っ赤に染めて俯くシェルンがぼそりと呟いた。


 そんなシェルンの様子を呆気に取られた様に見つめるエレナ。


 シェルンが好きなリム……そして自分を好きだというシェルン。俄かにその複雑さを増した人間関係に、我知らず思わず天を仰いでしまうエレナであった。

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