第73話

 初夏を迎え、日の出が早く為って来たとは言え、早朝の空はまだまだ薄暗い。

 リム・ヴァレスティナは薄闇の中、むくりと自分の寝台から上体を起こす。そして寝起きの余韻に浸る様子すら見せず、寝台を出るとそそくさと着替え始める。

 双刻の月に新たに加わったリムたち三人の朝は早い。

 リムたちが双刻の月に住居を移してからもうかれこれ三ヶ月余りが過ぎるが、早朝の朝稽古は既にリムたちの日課となっていた。

 幸いと言うべきか、リムはその育ちのお陰で朝には強い。

 ライズワースの南の区画。そこで小さな田園を所有する農家の娘として生まれたリムの家は、貧しくもそして特別裕福でも無かったが、この時勢を考えればまず恵まれた環境であったと言えただろう。

 リムには兄が二人おり、下には弟と妹がいた。兄妹四人、自分と両親を含めた七人の絵に描いた様な大家族。

 兄たちは父親を手伝い農家を継ぎ、自分は数年後には交友のある近隣の農家の年頃の若者たちの中から、自らの伴侶を選び結婚し嫁いでいく。

 それがどの農家でも当たり前に行われてきた風習であり、昔から変わらず続く慣例である。そうした慣習は一見古臭く、酷く閉鎖的な行いに思える者もいるかも知れないが、力無き彼らが大地と共に生きる為、生き抜く為に、他者との絆を深め、集団として共存していく為の知恵であり古くからの教えでもあったのだ。


 リムはそうした決められた人生に絶望した訳でも反発した訳でもない。

 ただ憧れてしまっただけだ。

 幼少の頃、母親が夢枕で語ってくれた騎士の英雄譚や、お伽噺の中で悪しき魔物を討ち滅ぼす聖なる騎士の勇姿に。

 リムはそうした物語の中で騎士に救われ、その伴侶となる美しき乙女や可憐な姫君では無く、剣を振るい人々を救う騎士の姿にこそ強い憧憬と共にそこに自身の姿を投影させていた。

 そして十五の誕生日を迎えた日、リムは秘めていた思いを家族に告げる。

 下らない夢見がちな少女の妄想。誰もがそう思い、家族や友人たちはそんなリムに理解を示す事は無く、現実を諭すように根気よく説得を続ける日々が続く。

 だがそれがどんな切欠であれリムの決意や想いは本物であり、結果としてリムは家出同然に家を飛び出す事になる。

 それが十五歳の夏の事だ。

 それからリムは宿屋で住み込みで働きながら、騎士を目指し自己流ながら鍛錬を重ねてきた。

 だがやはり両親たちが言う様に現実はそう甘いものでは無かった。

 オーランド王国において騎士になる手段は大きく分けて四つある。

 一つは生まれだ。

 貴族の家系に生まれさえすれば、直系や傍流に関わらず男子なら十六歳の成人を迎える事で騎士の資格を得る事が出来る。例え女子であってもその家の当主の許可を得られれば、男子と同様に資格を得る事は可能である。

 だが当然農家の娘であるリムにはこの選択肢は有り得ない。

 二つ目はそうした貴族たちの従騎士となる方法。

 これはオーランド王国の貴族たちに与えられたある種の特権とも言えるものであり、その家で雇う者に騎士の称号を与える事が出来る。

 だかこの従騎士は国王が正式に叙任するオーランド王国騎士団所属の準騎士とは違い、貴族が自身で雇うお抱えの騎士たちであり、俸給も王国からでは無くその家の貴族から支給される、言わば貴族お抱えの私兵の様な存在だ。

 もっともその中で功績を重ねて、より高位の貴族や王族の目にとまり、騎士団所属の準騎士に、そしてやがては正式な騎士となり爵位を受けて貴族の仲間入りをする者もいない訳ではないのだろうが、普通に考えてもそんな存在は極々少数であろうし、そもそもリムにはそんな貴族たちと知り合いになる伝手などありはしない。

 三つ目の方法がオーランド王国が定期的に募集している騎士登用試験に合格すると言う方法だ。

 この騎士登用試験の参加資格は不問である。

 つまり、生まれや年齢、性別や身分すらも関係なく、この試験に合格する事さえ出来れば晴れて騎士団所属の準騎士に為れる事が出来るのだ。出来るのだが……。

 リムが騎士に為るためのもっとも現実的なこの方法が、リムを絶望させる厳しい現実として立ち塞がる事になる。

 リムは不定期ながら数ヶ月に一度の割合で募集が掛かる、この騎士登用試験に幾度となく挑み、そして落ち続ける。それも最初の面接の段階で弾かれてしまうのだ。

 明確な理由として挙げられた事は無いが、リムが落とされる一番の要因……それはリムが女性である事に起因しているのはほぼ間違いない。

 リムにとって不幸であったのは、此処がライズワースであった事であろう。

 この大陸の状況により、どの国も騎士や兵士の登用には積極的な姿勢を見せている。

 女性の身分が低いビエナート王国の様な特殊な国柄を除いては、どの国々においても女性の登用を明確に規制している国は少ない。

 そう、このライズワースを除いては。

 どの国も街や都市の安全を維持する為に、日々街や都市近隣の魔物の間引きは必要不可欠であり、それらは協会を通じ傭兵たちも行ってはいたが、やはり各国の騎士団がその役割の中核を担う事が一般的な状況にあった。

 日々死傷者が生まれるそうした環境において、人員の補充は急務であり、個人の資質よりも数を求める流れが生まれてしまうのは決しておかしな事では無かったのだ。

 だがこのライズワースに限って言えばその限りではない。

 傭兵たちのギルド制度が確立し機能しているライズワースにおいて、それらは全て傭兵たちの手で行われている。

 日々生まれる欠員もギルド単位で調整され、ギルド会館が全てのギルドを統制する事により、他国で金銭のみを目的として行動している傭兵たちに比べ、圧倒的に全体の傭兵の集団としての錬度も質が高いのだ。

 そうした特殊な事情からオーランド王国が住民たちの中から騎士として掬い上げる基準は、他国と比べ格段に厳しい。王国が求めているのは、高い資質や能力を秘めた原石のみであると言ってもいい。

 それを如実に物語るのが騎士登用試験の合格率であろう。

 明確な統計として公表されている訳ではないが、住民たちが噂するその合格率は一割から二割。時には合格者が出ない月もあるとさえ言われていた。

 だからこそリムが騎士になる為に最後に望みを懸けたのが、この四つ目の方法であった。

 それはギルドに所属し功績を挙げてギルド会館から推薦状を貰うと言う方法だ。

 ギルドに所属し実績を残した者には、希望すればギルド会館からの推挙が得られ騎士への道が開ける。だが一般的にこの制度は余り知られていない。この制度を利用する者が極めて少ないからだ。

 一つにはやはり騎士を志す者と傭兵とでは、その思想も理念も大きく異なるという点が挙げられる。だがそれでもリムの様に騎士を目指し、高い志を持ってギルドに身を置く者は、実は少ないと言う訳ではないのだ。

 大きな実績……具体的な例を挙げるなら序列を得る事。

 その高過ぎる壁の前に多くの者たちが挫折するか、魔物との戦いで命を落とし、一握りの其処に辿り着いた者たちは……だが大半が心変わりをしてしまう。

 実績を積み、命の遣り取りを重ねていく中で得られる対価。金銭だけを一つとっても準騎士が手にする僅かな俸給などとはそれこそ桁が違う。

 加えて、準騎士になればそれまでの実績は考慮されこそすれ、基本的には末席として一からやり直す事になる。

 そうした現実的な損得を考えれば、ギルドに留まるという選択を選ぶ事は決しておかしな事でも、まして他者に責められる筋合いの話でもないといえよう。


 そうした中リムもギルドに所属する道を選ぶ。


 だが女性のリムを受け入れてくれるギルドは決して多くは無かった。

 それでも諦めず、幾度と無く足を運びやっと所属出来たギルドでのリムの役割は小間使い。日々の飯炊きから掃除や洗濯。女性というだけでリムに与えられたのはそんな雑用ばかりであった。

 だがそれでもリムは耐えた。

 都合の良い給仕の様な扱いを周囲の男たちから受け続けても逃げ出す事もせず、空いた時間には剣をひたすら振り続け、序列を持つ者たちの技術をその瞳に焼き付ける様に観察し続けた。

 双刻の月。このギルドの噂を聞きつけるまで二年近くもそうした生活を続けて来たのだ。

 そしてリムは今此処に居る。

 そんなリムだからこそ、今のこの環境がどれ程恵まれているかが分かる。

 ギルドマスターを始め半数のギルド員が女性であるこの双刻の月には、女性差別も女性蔑視も無い。構成員が少ない上に高位の序列者と毎日稽古や手合わせが出来る。

 これ程の好条件など他にあろうか。リムは自分の幸運を神に感謝する。だからこそ朝が早い程度の事などリムには何の苦にも為らなかったのだ。


 着替えを済ませ中庭へと出たリムの前には、教練用の別棟とまだ新しい、最近建てられたばかりの宿泊用の施設が目に映る。

 別棟の入口へとやって来たリムは周囲を見渡すがまだそこには人の気配は無かった。

 リムは構わず一人準備運動を始める。それが常に一番乗りでやって来るリムの日課でもあった。



 「相変わらず朝は強いのな、お前」


 リムが全身に薄っすらと汗を掻き始めた頃、背中越しに声が掛かる。

 振り返ったリムの瞳に自分と同世代の青年の姿が映る。

 平均的な女性の身長よりは背が高いリムより、頭一つ分は高いだろうか、男性としては平均的な背丈ではあったが、均整の取れた鍛えられた身体を青年はしている。だが特徴的なのはその髪と瞳の色だろう。

 青年の髪と瞳は紅かった。それは赤毛ではなく まさに燃える炎の様に紅いのだ。

 ライズワース……いや大陸でもかなり珍しいその髪と瞳の色は、大陸中央域、かつてのベルサリア王国に生活圏を得ていた民族特有の色素に由来するものだと、青年はリムに笑いながら語っていた。

 彼の名はアルク・リッチオ。

 リムと同じく新たに双刻の月に加入した三人の内の一人であり、カテリーナの災厄で滅ぼされたベルサリア王国の民の数少ない生き残りの一人であった。


 「アルクも少しはリムを見習って欲しいよ、中々起きてくれない君を毎朝起こしている僕の身にも少しは為って欲しいね」


 アルクと並ぶ様に姿を見せるもう一人の青年の名はライエル・サイワーズ。

 アルクと並ぶと彼より頭一つ低いライエルは、リムと背丈がほぼ変わらない。男性としてはやや小柄であるライエルは、男性にしては長めの金髪を肩まで伸ばし、切れ長の目は閉じられている様に細い。

 どこか野生児の様な荒々しさを感じさせるアルクと比べ、ライエルの優しげで知的な容貌は傭兵というより、吟遊詩人の様な何処か芸術家然とした雰囲気を感じさせた。

 だがライエルもまたその身に複雑な事情を抱えている。

 彼のサイワーズの姓は母方の旧姓であり、ライエルの本姓はシトレである。

 シトレ家はオーランド王国でも武門の名家であるフェリオ家の傍流ではあったが、その流れを汲む名門貴族である……いや、あったと言うべきか。

 三年前、ライズワースで起きたある事件を切欠にシトレは取り潰され、投獄され処刑された当主以外の一族の者は貴族の地位を剥奪され平民へと身分を落とされた。

 新たに双刻の月に加わった三人の内の一人。

 ライエル・サイワーズはそのシトレ家の人間であり、元オーランド王国貴族の若者であったのだ。


 リムはアルクとライエルの肩越しに、此方へと近づく人影に気づく。

 その姿を瞳に捉えリムの胸は高鳴る。

 もう数ヶ月、彼と共に稽古を重ねていると言うのに、会うたびに、その姿を見る度にリムの心臓は早鐘を打ち、彼への想いを深めていく。

 それはリム自身抑えようの無い気持ちの高鳴りであった。


 先月、十六歳の誕生日を迎えた彼はリムよりも二つも年下であった。

 だが、この少年は二月連続で闘神の宴に参加し、二桁の序列者たちを次々に打ち負かしたその剣の技量はリムの胸に深く刻み込まれている。

 歴史こそまだ浅いとは言え、そのギルドの記録を最年少で次々と塗り替え、一躍その名をライズワース中に鳴り響かせた彼を人々はその剣の才を、神話に語られる若き軍神リュミクスの再来と讃え称した。


 序列二十一位 シェルン・メルヴィス。


 それが最年少序列者の記録を尚塗り替え続ける、若き天才の名であった。


 「おはよう、シェルン」


 自分の下へと近づくシェルンの姿に、熱を帯び、潤んだ瞳でリムはシェルンへと微笑み掛けるのであった。

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